2022年3月3日木曜日

【25】 横尾氏と笹倉氏 〜播磨笹倉氏は赤松系〜

 

 前回の記事で、すべての謎はほぼ解明され、兵庫県の「横尾氏」、特に播磨〜丹波の氏族についてそのルーツを述べることができた。

 

 今回はその補足、補完になるが、おなじ氷上郡における「笹倉氏」の動向を少しだけ確認しておきたい。

 

 さて、この記事を書いている私は、丹波横尾につながる子孫だが、近くに「笹倉」という名字が多く、知り合いや関わりがある。

 

 そこで、笹倉という苗字について分布を調べると、とてもおもしろいことがわかったのである。

 

 笹倉姓は、「兵庫」「富山」「大分」「青森」に大きなまとまりがある名字で、それぞれは別系統だろう。

 中でも兵庫県は200軒ほどあり、突出している。その次は120軒ばかり分布する富山だ。

 

 兵庫県の笹倉姓もおもしろい。その内訳は「多可郡中町」「西脇市」「黒田庄」「多可郡八千代」などに集中しており、そのほとんどが「多可郡」近辺にしかないと言ってよいくらいである。

 

 村ごとの母集団を見ると、以下のようになっている。

 

約40軒 多可郡中町中安田

約30軒 氷上郡山南町奥

約25軒 西脇市羽安

約25軒 西脇市野村

・・・以下ほとんど西脇市内の集落が続く。

 

 このように、笹倉氏は旧多可郡一帯に広がる氏族だが、突然「氷上郡」に大きなまとまりが見られるのだ。だからおなじ氷上郡の横尾氏の知り合いに笹倉氏が多いことと矛盾しないわけだ。


 実は丹波横尾氏の本拠である氷上郡小新屋村から、奥村は、直に隣接してはいないものの、その距離1キロ以下である。

 

 かなり近い位置に「横尾」の集団と「笹倉」の集団があることに気づかされる。

 

 

 では、「笹倉氏」の本拠、ルーツはどこか?

 

 これはもうすでに多数の論考があり、判明しているのだが、名字の由来は現在の「加西市笹倉町」である。


 場所は、そう!


 加西郡「在田」の500m南で、かつ加西郡「横尾」の500m東である。隣接地帯と言ってよい!

 

のであった。

 

 

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 実は笹倉は在田氏の本拠でもある。殿原城あるいは笹倉城と呼ばれる在田の城こそ、在田氏の本拠地であったから、当然笹倉氏も赤松系なのだ。

  

 殿原城は、赤松朝範とその子赤松範康の二代で滅んだのだが、その跡を継いだ「赤松兵庫頭弥四郎祐利」が笹倉城を改修して本拠とし、「笹倉氏」を名乗った。

 

 しかし、笹倉氏本流は、別所氏に組して三木合戦で秀吉軍に敗れ、子孫が近江長浜に逃れたことから「長浜氏」と改姓したという。

 のちに長浜氏は笹倉に戻り、現代にまで子孫が続いているらしい。

 

 とまあ、本家は長浜姓に変わっているが、笹倉一族が北播磨に大いに広がっているのは、こうした理由からであった。

 

 興味深いのは、大半の笹倉氏が多可郡近辺にいるのに対して、 氷上郡に移動したグループがあるということである。

 

 これは横尾氏の動きと非常に似ている。

 

 残念ながら横尾については、横尾を名乗った武将本人のみか、ごくわずかな親族しか氷上に移っていないと思われるが、笹倉は母集団から分かれて、これも数名が氷上に移っているのであろう。

 

 あるいは笹倉氏が氷上に移動した経緯などを参照してゆけば、横尾の動きも推測できるのではなかろうか。

 

 

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 さて、その氷上郡奥村には興味深い話がある。 奥村には「篠倉豊後守」なる人物がいて、その屋敷後があるというのだ。


丹波霧の里 さんの記事

 

http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm 

 

 残念なことに篠倉豊後守がどのような人物だったかは記録にないようだが、「横尾四郎太夫正政」と「篠倉(笹倉か)豊後守」という2人の武将が、播磨から丹波に入っていることは間違いなさそうだ。

 

 余談ながらこの近くには、三木別所氏が破れた後に丹波に入った「依藤氏」がいることも確認されている。

 どうも三木合戦の後、という時期が怪しい感じもする。

 

 

2022年3月1日火曜日

【24】 横尾氏と家紋 ~ 五三桐の謎を解明 ~

 

 丹波横尾氏のルーツについて、一気に解明が進んだ前回だが、家紋について補足しておきたい。

 

 当家横尾氏の家紋は、「五三桐」の桐紋である。十大家紋にも入っているのでポピュラーな家紋ではあるのだが、うちの親族の重鎮である叔母からは、


「豊臣秀吉にもらったんちゃう?」


という話を聞かされていた。


 たしかに、戦国期において、豊臣秀吉は恩賞として「桐紋」の使用をけっこう許可していたので、そうしたこともあるだろうとぼんやり考えていたが、だとすれば、天正前後において「丹波攻め」などで一定の功績があったか、丹波侵攻の武将(たとえば光秀など)との「絡み」があってしかるべきだろう、なんてことも思っていた。


 横尾四郎太夫(大夫)が、天正11年に死んだのであれば、旧来の丹波の支配者からではなく、織田方から一定の許可を得ていなければ話が合わない。

 

 三木城攻めは天正6年、八上城が落ちたのは天正7年である。

 和田の岩尾城が落ちたのも天正7年であり、おおむねこの前後に集中している。

 

  岩尾城の話で言えば、天正14年に木戸十乗坊(佐野下総守)が入っており、天正11年はちょうどその間のすっぽぬけた時期とも言える。

 

 木戸十乗坊は近江の人で、滋賀県大津市の木戸城に「佐野秀方」が確認できる。

https://masakishibata.wordpress.com/2015/09/12/kido/ 


 この人物は、前田玄以の家臣・光秀配下などを経て、豊臣方となったようだ。



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 さて、当初、丹波横尾氏の出自がまったく不明のおりには、この木戸氏や佐野氏などに従って、和田城下にやってきたものか?という推測をしていた。


 あるいはそれより以前の信濃出身「谷氏」(和田氏)の家臣だったのか?とも考えた。たしかに信濃には「横尾」の氏族がいるから、その想定はありえないわけではなかったのである。

 

 しかし、谷氏や木戸氏うんぬんはともかく、丹波は秀吉の支配下になったのであるから、そこでもし功績があれば、「桐紋」くらいは貰っていても不思議ではない、というのが当初の仮説であったわけだ。

 

 ところが、結果的にはまったく違う。家紋の由来はもっとそのものズバリで、「当初から、五三桐を使っていた」と考えて差し支えなさそうなのだ。

 

 

 なぜなら、赤松氏の家紋は「三つ巴/五三桐(五七桐)/両引」だからである!!

 

赤松氏

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F

 

 ウィキペディアにも桐紋(五七桐)のことは少し載っている。その詳細は、播磨屋さんのサイトに詳しい。

 

赤松氏の家紋

http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.html 


”『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。”

 

 つまり、朝廷から桐紋を賜り、将軍から両引紋を賜った、とされており、のちに巴紋も用いたというのである。

 

 余談ながら、丹波横尾氏と通婚があった多可郡野間の赤松氏は「三つ巴」紋を用いている。これは私から見ても叔父の家紋が三つ巴であり、墓所も確認しているので間違いない。

 

 こうした事情を総合して考えると、

 

 丹波横尾氏の桐紋は、赤松氏を示す

 

ということになる。 結果的には、まったくもって教科書通りのような、家紋の由来だったというわけだ。秀吉は関係なく、元から桐紋だったというのが真実だろう。