前回の記事で、すべての謎はほぼ解明され、兵庫県の「横尾氏」、特に播磨〜丹波の氏族についてそのルーツを述べることができた。
今回はその補足、補完になるが、おなじ氷上郡における「笹倉氏」の動向を少しだけ確認しておきたい。
さて、この記事を書いている私は、丹波横尾につながる子孫だが、近くに「笹倉」という名字が多く、知り合いや関わりがある。
そこで、笹倉という苗字について分布を調べると、とてもおもしろいことがわかったのである。
笹倉姓は、「兵庫」「富山」「大分」「青森」に大きなまとまりがある名字で、それぞれは別系統だろう。
中でも兵庫県は200軒ほどあり、突出している。その次は120軒ばかり分布する富山だ。
兵庫県の笹倉姓もおもしろい。その内訳は「多可郡中町」「西脇市」「黒田庄」「多可郡八千代」などに集中しており、そのほとんどが「多可郡」近辺にしかないと言ってよいくらいである。
村ごとの母集団を見ると、以下のようになっている。
約40軒 多可郡中町中安田
約30軒 氷上郡山南町奥
約25軒 西脇市羽安
約25軒 西脇市野村
・・・以下ほとんど西脇市内の集落が続く。
このように、笹倉氏は旧多可郡一帯に広がる氏族だが、突然「氷上郡」に大きなまとまりが見られるのだ。だからおなじ氷上郡の横尾氏の知り合いに笹倉氏が多いことと矛盾しないわけだ。
実は丹波横尾氏の本拠である氷上郡小新屋村から、奥村は、直に隣接してはいないものの、その距離1キロ以下である。
かなり近い位置に「横尾」の集団と「笹倉」の集団があることに気づかされる。
では、「笹倉氏」の本拠、ルーツはどこか?
これはもうすでに多数の論考があり、判明しているのだが、名字の由来は現在の「加西市笹倉町」である。
場所は、そう!
加西郡「在田」の500m南で、かつ加西郡「横尾」の500m東である。隣接地帯と言ってよい!
のであった。
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実は笹倉は在田氏の本拠でもある。殿原城あるいは笹倉城と呼ばれる在田の城こそ、在田氏の本拠地であったから、当然笹倉氏も赤松系なのだ。
殿原城は、赤松朝範とその子赤松範康の二代で滅んだのだが、その跡を継いだ「赤松兵庫頭弥四郎祐利」が笹倉城を改修して本拠とし、「笹倉氏」を名乗った。
しかし、笹倉氏本流は、別所氏に組して三木合戦で秀吉軍に敗れ、子孫が近江長浜に逃れたことから「長浜氏」と改姓したという。
のちに長浜氏は笹倉に戻り、現代にまで子孫が続いているらしい。
とまあ、本家は長浜姓に変わっているが、笹倉一族が北播磨に大いに広がっているのは、こうした理由からであった。
興味深いのは、大半の笹倉氏が多可郡近辺にいるのに対して、 氷上郡に移動したグループがあるということである。
これは横尾氏の動きと非常に似ている。
残念ながら横尾については、横尾を名乗った武将本人のみか、ごくわずかな親族しか氷上に移っていないと思われるが、笹倉は母集団から分かれて、これも数名が氷上に移っているのであろう。
あるいは笹倉氏が氷上に移動した経緯などを参照してゆけば、横尾の動きも推測できるのではなかろうか。
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さて、その氷上郡奥村には興味深い話がある。 奥村には「篠倉豊後守」なる人物がいて、その屋敷後があるというのだ。
丹波霧の里 さんの記事
http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm
残念なことに篠倉豊後守がどのような人物だったかは記録にないようだが、「横尾四郎太夫正政」と「篠倉(笹倉か)豊後守」という2人の武将が、播磨から丹波に入っていることは間違いなさそうだ。
余談ながらこの近くには、三木別所氏が破れた後に丹波に入った「依藤氏」がいることも確認されている。
どうも三木合戦の後、という時期が怪しい感じもする。
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