兵庫県の丹波地方にお住まいの横尾氏について、以下のような情報がある。
① 本姓は源氏であり、源氏の記録がある過去帳が現存する。
② 家紋は53桐紋
③ 江戸時代にはすでに「横尾家は旧家である」と記載され、戦国時代までは遡れそうである。
ところが、不思議なことに、丹波横尾氏は、たとえば戦国時代にせよ、江戸時代にせよ、「それ以前」の情報がほとんどなく、
「どこからやってきて、どういう経緯でそこに居住したのか」
がよくわからない。
また、江戸時代の書物に既に「横尾氏」と記載されていることから、明治新姓というわけでもなさそうである。
==========
そこで、以前の記事では、「丹波国」がなぜか歴史的に「信濃国」と関係が深いことから、信濃系の横尾氏の移住の可能性はあるのかについて、調査と検討を深めてきたものの、じつは決定的な資料や証拠が見つからず、宙に浮いたようになっていたのがこれまでのお話である。
ところが、ここにきて新しい発想・観点が浮かびあがってきたので、今回はそんな仮説を立ててみることにする。
その流れは、丹波に隣接する但馬・日本海側ルートである。
丹波地方というのは、そもそも丹波・但馬を含めて「もとはひとつの丹波」であったというが、丹波と但馬は早い時期に分割され、古墳時代には既に別の地域として認識されていたらしい。ところが、現在においても、「丹波と但馬」・そして舞鶴や若狭に近い「丹後」も含めて、これらの地域はかなり密接な人やモノの交流がある。
場合によっては、この3地方を「三丹」地域と呼称することもあるほどで、文化的には、連続したものがあると言ってよい。
それに加えて、もうひとつ広い文化圏で言えば、「但馬を経ての鳥取地方」も、これまた密接なつながりがあると言ってよい。
実際にこの地域を知っている方にすれば納得していただけると思うが、丹波北部から、但馬、そして鳥取方面には、「国道9号線(いわゆる山陰道)」が走っており、文化的連続が見られる。
車でこの国道9号を走って見ると面白いのだが、現在でも
「丹波地方から、石州屋根瓦黒色」が民家に増え始め、
「鳥取地方に入ると、石州屋根瓦赤色」が増え、
「島根地方に入ると、石州屋根瓦来待色」が増える。
という明確な連続と変化がある。
これらの屋根瓦は、すべて石見地方(島根)から供給されているもので、色の変化はあるものの、製品としては同じ文化に属する。
こうした人とモノの交流は、いわゆる古代出雲と中央の関係ではないが、中世においてもそうした繋がりがあったのではないか、という可能性を伺わせるのである。
==========
すると、こんな情報が気になるわけである。
旧国名で言えば、
「石見(島根)」「伯耆国(島根・鳥取)」「因幡(鳥取)」「但馬(兵庫)」「丹波(兵庫・京都)」
と国道9号線沿いに連続しているのだが、
戦国時代以前から、因幡には「山名氏」という名族がいた。
山名氏は、室町幕府においては、重鎮中の重鎮、名家である。
本来は清和源氏・河内源氏のバリバリで、現在の群馬県高崎市山名に領地を持ったことから「山名氏」を称することになった。
のちに、室町幕府を開いた足利氏に従って「赤松・京極・一色・山名」が四職として足利体制を支えることになる。
その山名氏、戦国前後には「但馬・因幡・伯耆」守護となり、山陰地方を中心に一大勢力となる。織田・豊臣時代には、これまた山陰の雄であった「毛利氏」と手を組んだり、離れたりしながら結果、秀吉に早い段階で恭順する訳である。
さて、この山名氏の一派に、 巨濃郡(岩井郡)に拠った中嶋氏、一上氏、横尾氏、篠部氏があるというのである。
たしかに、現在でもこの岩井郡あらため岩美郡には、横尾という地名が存在するのである。
http://www.iwami.gr.jp/dd.aspx?menuid=1971
山名氏は、源姓であり、家紋は「五七桐・七葉根笹」を用いる。
丹波の横尾氏は、源姓であり、家紋は「五三桐」である。
もし、この横尾氏が、山名流であり山陰岩井郡から丹波に入ったものだとしたら、点と線が繋がらないわけではない。
(しかし、まだこれといった物証や資料があるわけでもない)
というわけで、丹波地方と因幡地方の関連性は、まだまだ要調査なのであった!
2015年12月31日木曜日
2015年10月26日月曜日
【20】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート7・佐賀横尾氏のルーツ!山陰系に横尾あり?!〜
前回は、石見地方を中心にしながら
① 相模波多野氏が石見に根付いて「横尾」を名乗った例があるらしいこと。
② 石見の益田氏・吉見氏と結びついて「益田系波多野氏」「吉見系波多野氏」を生んだらしいこと。
を仮説として挙げることに成功した。
しかし、波多野氏について読み解くならば「石見説」はよいとして「因幡説」について補完ができていないことに気付かされる。しかし、
因幡の「波多野」はどうしていたのだろうか?
そして、この地における「横尾」の動きは?
今回は、このあたりに注目してお届けしよう。
==========
さて、もういちど確認しておこう。丹波波多野氏における各説は以下のようになっている。
説① 丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)
説② 丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)
説③ 波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
説④ 丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)
説⑤ 因幡の国侍波多野氏(因幡志)
説⑥ 因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)
このうち、説③についてはクリアした。しかし、残りの説についてはどうだろう。
実は
鳥取の中世の城 さんのブログ
http://tottorijou.skr.jp/totchiyu4.html
などにもあるように南北朝時代に鳥取に「波多野」という氏族がおり、それが日下部流や田公流と推定されることから、
その因幡の波多野氏が丹波に来た
ということを真実かこじつけかはわからないけれど、推測している、ということなのである。
さて、丹波波多野氏の真実のルーツが、相模系なのか、日下部系なのか、そのあたりのことは誰にもわかりようがない。
しかし、波多野敬直が「横尾は実は波多野氏である」という伝承を持っていなければ、そもそも波多野に改名したりはしないであろうから、ポイントはやはりそのあたりにあるのではなかろうか。
前回記事では、「横尾・波多野」の点と線が石見にあることをつきとめたが、因幡や伯耆には横尾氏は存在するのであろうか?
==========
ちなみに「太平記」には横尾氏は登場せず、少なくとも「太平記における波多野氏と横尾氏の関連性」は見つけられていない。
では、因幡付近における「横尾」の動向はどうなっているのであろう。
以下、リストアップしてみた。
① 江戸時代も後半だが、因幡鳥取藩3代藩主池田吉泰の側室が横尾氏(荘園院)であり、その娘(瑤台院・亀姫)が肥前佐賀藩6代藩主鍋島宗教(1718-1780)の婚約者になっている。
因幡鳥取藩と佐賀藩の関係の濃さについては
和左衛門さんのブログ
http://hizenkoku.sagafan.jp/d2012-04.html
にて詳細がリサーチされている。
あるいは因幡横尾氏から「横尾姓と波多野姓の関係」が佐賀にもたらされたのかもしれないが、そこは未詳。
② 因幡国巨濃郡(岩井郡)の山名支流に「中嶋氏、一上氏、横尾氏、篠部氏など」あり。現在の岩美町「横尾の棚田」の近辺か?
③ 美作国英田郡に江見氏という一族があり、「横尾氏」と関わりがある。
氏族の追跡さんのブログ
http://tomioka.at.webry.info/201106/article_24.html
これによると、江見氏の女性が平忠度に嫁ぎ、その子孫が横尾氏となり、信濃小県郡に入る、と繋がるそうである。
しかし、美作と横尾にダイレクトに繋がるかどうかは不明。
④ 因幡に入った木下氏(荒木村重の家臣)が智頭郡等を秀吉から与えられ、その家臣に横尾氏がいるらしい。そのため智頭近辺に横尾姓が現存する。
=========
こうしてみると、最もリアリティがありそうなのは山名から分かれ出た横尾氏が、因幡に存在したらしい、ということはわかるものの、どうにも波多野氏との接点はなさそうに思える。
まとめてみると、次のまとめができそうだ。
『波多野氏は、石見系(相模より)と因幡系(地元より)の2種類存在し、横尾氏は石見系(菖蒲氏)と因幡系(山名氏)がある。そして、その両者がクロスするのは、やはり石見波多野・横尾氏においてほかはない』
さらに重要ポイントを押さえておく。
『波多野敬直が受け継いだ、佐賀横尾氏は波多野姓であったという話が成立するためには、石見系波多野・横尾ラインが想定できる』
しかし、
『丹波波多野氏が石見系であれば、波多野敬直は、たしかに丹波波多野氏と源流を同じくするが、丹波波多野氏が因幡系であれば、波多野敬直は丹波波多野氏とつながらないかもしれない』
いかがだろうか?少しずつ真実に近づいてきているような気がするのだが、いよいよ大団円を迎えるのであろうか?!
(まて次回。この章つづく)
① 相模波多野氏が石見に根付いて「横尾」を名乗った例があるらしいこと。
② 石見の益田氏・吉見氏と結びついて「益田系波多野氏」「吉見系波多野氏」を生んだらしいこと。
を仮説として挙げることに成功した。
しかし、波多野氏について読み解くならば「石見説」はよいとして「因幡説」について補完ができていないことに気付かされる。しかし、
因幡の「波多野」はどうしていたのだろうか?
そして、この地における「横尾」の動きは?
今回は、このあたりに注目してお届けしよう。
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さて、もういちど確認しておこう。丹波波多野氏における各説は以下のようになっている。
説① 丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)
説② 丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)
説③ 波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
説④ 丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)
説⑤ 因幡の国侍波多野氏(因幡志)
説⑥ 因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)
このうち、説③についてはクリアした。しかし、残りの説についてはどうだろう。
実は
鳥取の中世の城 さんのブログ
http://tottorijou.skr.jp/totchiyu4.html
などにもあるように南北朝時代に鳥取に「波多野」という氏族がおり、それが日下部流や田公流と推定されることから、
その因幡の波多野氏が丹波に来た
ということを真実かこじつけかはわからないけれど、推測している、ということなのである。
さて、丹波波多野氏の真実のルーツが、相模系なのか、日下部系なのか、そのあたりのことは誰にもわかりようがない。
しかし、波多野敬直が「横尾は実は波多野氏である」という伝承を持っていなければ、そもそも波多野に改名したりはしないであろうから、ポイントはやはりそのあたりにあるのではなかろうか。
前回記事では、「横尾・波多野」の点と線が石見にあることをつきとめたが、因幡や伯耆には横尾氏は存在するのであろうか?
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ちなみに「太平記」には横尾氏は登場せず、少なくとも「太平記における波多野氏と横尾氏の関連性」は見つけられていない。
では、因幡付近における「横尾」の動向はどうなっているのであろう。
以下、リストアップしてみた。
① 江戸時代も後半だが、因幡鳥取藩3代藩主池田吉泰の側室が横尾氏(荘園院)であり、その娘(瑤台院・亀姫)が肥前佐賀藩6代藩主鍋島宗教(1718-1780)の婚約者になっている。
因幡鳥取藩と佐賀藩の関係の濃さについては
和左衛門さんのブログ
http://hizenkoku.sagafan.jp/d2012-04.html
にて詳細がリサーチされている。
あるいは因幡横尾氏から「横尾姓と波多野姓の関係」が佐賀にもたらされたのかもしれないが、そこは未詳。
② 因幡国巨濃郡(岩井郡)の山名支流に「中嶋氏、一上氏、横尾氏、篠部氏など」あり。現在の岩美町「横尾の棚田」の近辺か?
③ 美作国英田郡に江見氏という一族があり、「横尾氏」と関わりがある。
氏族の追跡さんのブログ
http://tomioka.at.webry.info/201106/article_24.html
これによると、江見氏の女性が平忠度に嫁ぎ、その子孫が横尾氏となり、信濃小県郡に入る、と繋がるそうである。
しかし、美作と横尾にダイレクトに繋がるかどうかは不明。
④ 因幡に入った木下氏(荒木村重の家臣)が智頭郡等を秀吉から与えられ、その家臣に横尾氏がいるらしい。そのため智頭近辺に横尾姓が現存する。
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こうしてみると、最もリアリティがありそうなのは山名から分かれ出た横尾氏が、因幡に存在したらしい、ということはわかるものの、どうにも波多野氏との接点はなさそうに思える。
まとめてみると、次のまとめができそうだ。
『波多野氏は、石見系(相模より)と因幡系(地元より)の2種類存在し、横尾氏は石見系(菖蒲氏)と因幡系(山名氏)がある。そして、その両者がクロスするのは、やはり石見波多野・横尾氏においてほかはない』
さらに重要ポイントを押さえておく。
『波多野敬直が受け継いだ、佐賀横尾氏は波多野姓であったという話が成立するためには、石見系波多野・横尾ラインが想定できる』
しかし、
『丹波波多野氏が石見系であれば、波多野敬直は、たしかに丹波波多野氏と源流を同じくするが、丹波波多野氏が因幡系であれば、波多野敬直は丹波波多野氏とつながらないかもしれない』
いかがだろうか?少しずつ真実に近づいてきているような気がするのだが、いよいよ大団円を迎えるのであろうか?!
(まて次回。この章つづく)
2015年10月25日日曜日
【19】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート6・佐賀横尾氏のルーツ!中国地方にカギがある?〜
前回は丹波地方の波多野氏のルーツについて調査したが、そこで気になる「因幡」という言葉が頻出していることに気付いた。
よって、今回は因幡=鳥取地方へ飛ぼう!というわけだが、ちょっと飛びすぎて
「石見」
地方へと着陸してしまったところから始まる。
地理が苦手なあなたのために、もう一度確認しておこう
長崎 佐賀 福岡 関門海峡 山口 島根 鳥取 兵庫 京都
肥前 肥前 筑前 長門 石見出雲 伯耆因幡 但馬 丹波
西日本から特に山陰道ルートで京都を目指すと、現在の県名と旧国名は上のようになる。
このルート、実は国道9号線として現在も残っており、古来から京と九州を結ぶ重要な道であった。
なぜ、因幡ではなく石見なのか。その理由はすぐに判明する。
西国の山城さんのブログ
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
を参考にすると、なかなか興味深い話が浮かび上がってくるのだ。簡単に概略を説明しよう。
まず、島根県益田市(石見国)に「黒谷横山城」という古い城があるところから話ははじまる。
この城、鎌倉時代に菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)なる人物が、黒谷の地頭に任命されて築城されたのだが、この菖蒲氏こそ相模波多野氏の一派である菖蒲氏の一族だと考えられるのだ。
その証拠として、この地の城主は代々「波多野」氏を名乗っている。
ブログでは「波多野彦次郎」「波多野彦三郎」「波多野彦六郎」などの説明と、「波多野氏秀」などが存在することが紹介されている。
中でも波多野氏秀は、もと益田氏だともされるが、この時代当地を治めたものは益田氏に属するものも、敵対する吉見氏に属するものもどちらも「波多野」を名乗っているらしく両方の系統の波多野氏が入り混じる事態になっているようだ。
おそらくこういう考え方ができよう。鎌倉時代に本来の苗字が「波多野」である相模菖蒲氏(藤原姓)が入り、そこから「波多野」の名跡がこの地でカッコたるものとなった。
ところがある時は石見の益田氏(藤原姓)に侵食され、またある時は石見の吉見氏(源姓)に侵食され、それぞれに付き従うように分派し、婚姻を繰り返していった結果、
「もと相模系波多野」「吉見系波多野」「益田姓波多野」
の3種類が成立していったと考えられるのである。
(この意味では、前回登場した説③
波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
という話がにわかに真実味を帯びてくるではないか!
==========
そしてここからが真骨頂である。
黒谷横山城に居した菖蒲五郎は、「益田市誌」によれば当地に伝承の残る
横尾右衛門
と同一人物ではないか、というのだ!!!
仮に、同一人物ではないとしても、横尾氏が菖蒲氏つまり波多野氏と非常に近しい一族であることは容易に想像できる。
そうなのだ。これで
横尾=波多野ライン
が繋がったのである!!!
==========
さて、石見にかなり古い時代に存在した「横尾・波多野氏」が関門海峡をこえて何故肥前佐賀へ移動したのか、については別に解説するが、問題は
「石見から因幡への波多野氏の移動」
という課題が残っている。
ここから先は、次回を待たれよ。
(この章つづく)
よって、今回は因幡=鳥取地方へ飛ぼう!というわけだが、ちょっと飛びすぎて
「石見」
地方へと着陸してしまったところから始まる。
地理が苦手なあなたのために、もう一度確認しておこう
長崎 佐賀 福岡 関門海峡 山口 島根 鳥取 兵庫 京都
肥前 肥前 筑前 長門 石見出雲 伯耆因幡 但馬 丹波
西日本から特に山陰道ルートで京都を目指すと、現在の県名と旧国名は上のようになる。
このルート、実は国道9号線として現在も残っており、古来から京と九州を結ぶ重要な道であった。
なぜ、因幡ではなく石見なのか。その理由はすぐに判明する。
西国の山城さんのブログ
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
を参考にすると、なかなか興味深い話が浮かび上がってくるのだ。簡単に概略を説明しよう。
まず、島根県益田市(石見国)に「黒谷横山城」という古い城があるところから話ははじまる。
この城、鎌倉時代に菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)なる人物が、黒谷の地頭に任命されて築城されたのだが、この菖蒲氏こそ相模波多野氏の一派である菖蒲氏の一族だと考えられるのだ。
その証拠として、この地の城主は代々「波多野」氏を名乗っている。
ブログでは「波多野彦次郎」「波多野彦三郎」「波多野彦六郎」などの説明と、「波多野氏秀」などが存在することが紹介されている。
中でも波多野氏秀は、もと益田氏だともされるが、この時代当地を治めたものは益田氏に属するものも、敵対する吉見氏に属するものもどちらも「波多野」を名乗っているらしく両方の系統の波多野氏が入り混じる事態になっているようだ。
おそらくこういう考え方ができよう。鎌倉時代に本来の苗字が「波多野」である相模菖蒲氏(藤原姓)が入り、そこから「波多野」の名跡がこの地でカッコたるものとなった。
ところがある時は石見の益田氏(藤原姓)に侵食され、またある時は石見の吉見氏(源姓)に侵食され、それぞれに付き従うように分派し、婚姻を繰り返していった結果、
「もと相模系波多野」「吉見系波多野」「益田姓波多野」
の3種類が成立していったと考えられるのである。
(この意味では、前回登場した説③
波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
という話がにわかに真実味を帯びてくるではないか!
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そしてここからが真骨頂である。
黒谷横山城に居した菖蒲五郎は、「益田市誌」によれば当地に伝承の残る
横尾右衛門
と同一人物ではないか、というのだ!!!
仮に、同一人物ではないとしても、横尾氏が菖蒲氏つまり波多野氏と非常に近しい一族であることは容易に想像できる。
そうなのだ。これで
横尾=波多野ライン
が繋がったのである!!!
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さて、石見にかなり古い時代に存在した「横尾・波多野氏」が関門海峡をこえて何故肥前佐賀へ移動したのか、については別に解説するが、問題は
「石見から因幡への波多野氏の移動」
という課題が残っている。
ここから先は、次回を待たれよ。
(この章つづく)
2015年10月24日土曜日
【18】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート5・ついにわかった?!佐賀横尾氏のルーツ!〜
実に面白い。
↑上記セリフは先日結婚なさった福山雅治さん風に読んでいただければOK!
・・・というわけで、すでに5回目に突入している佐賀横尾氏のルーツ孝。
佐賀の横尾氏はどこから来たのか、そして波多野氏との接点はどこにあるのか!
今回はいよいよ、その核心に迫る回である。
と、その前に、もう一度じっくりと確認しておきたいことがある。それは丹波波多野氏のルーツについてであるが、ここに詳細を教えてくださるサイトがあるので、まずはそこを読んでいただきたい。
播磨屋さんのサイトから 武家家伝 波多野氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatano_k.html
上記にある諸説のうち、ポイントだけを抜き出してみると、丹波波多野氏の祖先は、次のようになっている。
説① 丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)
説② 丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)
説③ 波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
説④ 丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)
説⑤ 因幡の国侍波多野氏(因幡志)
説⑥ 因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)
ここでちょっとややこしいが、タイムをひとつ入れておこう。
前回の記事では、丹波多紀郡を所領としたのは「波多野秀長(ひでなが)」を挙げた。ところが、今回、波多野氏の祖として「波多野清秀(きよひで)」を挙げている。
この2人の関係がいまいちよくわからないのが歴史上のポイントで、清秀がきちんと存在していた証拠は現存するものの、秀長については不明。
ただし、どちらも細川勝元について丹波を領地としていることはわかっており、同一人物とされている解釈もあるようだ。
その子、波多野元清(稙通)こそが八上城の築城者であり、結局のところ丹波波多野氏は「元清」の代から勢力が拡大している、というわけである。
==========
それはさておき、上記に挙げたすべての説が、ひとつの事象を指し示していることにお気づきの方が多いに違いない。
そう、それは
事件は因幡で起きているんだ!!!
ということである。
波多野秀長か元清かはよくわからないし、その原点が相模の氏族なのか丹波の氏族なのかはわからないが、
「すべての話が、何故か一旦因幡を経由している」
ということはけして偶然ではあるまい。
丹波波多野氏が、どこかの時点で他の波多野氏の威厳を借りようと仮冒したのかもしれないが、そこに因幡を絡めることは必須だったと思われる。
だからこそ、
私たちは因幡に飛ばなくてはならない!!!
のであった。
(この章さらにつづく。ごめんなさい引っ張ります^^;;)
↑上記セリフは先日結婚なさった福山雅治さん風に読んでいただければOK!
・・・というわけで、すでに5回目に突入している佐賀横尾氏のルーツ孝。
佐賀の横尾氏はどこから来たのか、そして波多野氏との接点はどこにあるのか!
今回はいよいよ、その核心に迫る回である。
と、その前に、もう一度じっくりと確認しておきたいことがある。それは丹波波多野氏のルーツについてであるが、ここに詳細を教えてくださるサイトがあるので、まずはそこを読んでいただきたい。
播磨屋さんのサイトから 武家家伝 波多野氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatano_k.html
上記にある諸説のうち、ポイントだけを抜き出してみると、丹波波多野氏の祖先は、次のようになっている。
説① 丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)
説② 丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)
説③ 波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
説④ 丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)
説⑤ 因幡の国侍波多野氏(因幡志)
説⑥ 因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)
ここでちょっとややこしいが、タイムをひとつ入れておこう。
前回の記事では、丹波多紀郡を所領としたのは「波多野秀長(ひでなが)」を挙げた。ところが、今回、波多野氏の祖として「波多野清秀(きよひで)」を挙げている。
この2人の関係がいまいちよくわからないのが歴史上のポイントで、清秀がきちんと存在していた証拠は現存するものの、秀長については不明。
ただし、どちらも細川勝元について丹波を領地としていることはわかっており、同一人物とされている解釈もあるようだ。
その子、波多野元清(稙通)こそが八上城の築城者であり、結局のところ丹波波多野氏は「元清」の代から勢力が拡大している、というわけである。
==========
それはさておき、上記に挙げたすべての説が、ひとつの事象を指し示していることにお気づきの方が多いに違いない。
そう、それは
事件は因幡で起きているんだ!!!
ということである。
波多野秀長か元清かはよくわからないし、その原点が相模の氏族なのか丹波の氏族なのかはわからないが、
「すべての話が、何故か一旦因幡を経由している」
ということはけして偶然ではあるまい。
丹波波多野氏が、どこかの時点で他の波多野氏の威厳を借りようと仮冒したのかもしれないが、そこに因幡を絡めることは必須だったと思われる。
だからこそ、
私たちは因幡に飛ばなくてはならない!!!
のであった。
(この章さらにつづく。ごめんなさい引っ張ります^^;;)
2015年10月23日金曜日
【17】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート4・波多野氏族総覧・波多野さん・波多野姓のすべて〜
佐賀横尾氏に「もと波多野」の伝承があるらしいことは前回説明したが、ではそこにどんな謎が潜んでいるのか。
今回は全国の「波多野姓」について考察しながら、その点と線を結んでいきたいと思う。
そこで、全国にはどのような系統の「波多野」さんがいるのかを調査してみた。そこから肥前国との接点がありそうな波多野氏をピックアップしてみよう、というわけである。
(最新情報は2015.10.22)
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波多野姓・波多野さん・波多野氏 完全総覧
A 波多野氏 甲斐国 藤原秀郷流(支流・子孫に【川村】【中島】【西島】)
B 波多野氏 丹波国 藤原秀郷流(支流・子孫に【酒井】【荒木】)
C 波多野氏 相模国余綾郡波多野より起こる。藤原秀郷流(支流・子孫に【松田】【渋川】【沼田】【菖蒲】)
C’ 波多野氏 尾張国 藤原秀郷流・波多野義通後裔(支流・子孫に【野間】【門奈】)
C’ 波多野氏 もと山田を称し、波多野に復姓。藤原秀郷流。波多野義通後裔
D 波多野氏 三河国 藤原秀郷流(支流・子孫に【河村】)
F 波多野氏 淡路国 日下部氏の末裔
G 波多野氏 大伴氏~佐伯氏を経て波多野氏
H 波多野氏 桓武平氏~宗氏を経て波多野氏
==========
以上ざっと概観してわかる興味深いことは、特に「相模系波多野氏」など「秀郷流」の分岐がやたら多いことである。
それぞれ拠点とする地域は全くことなるが、仮冒の可能性も含めてとにかく「秀郷流」を称する波多野氏がとても多いことから、真偽はともかく
「波多野といえば秀郷流」
という認識が古くからあったことをうかがわせる。
==========
ところで、前回「丹波波多野氏」について着目したが、ウィキペディアによるとこの丹波波多野氏は
出自が不詳
と言ってよいのだそうである。
丹波波多野氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
説としては
① 相模波多野氏である「波多野義通」がルーツ。
② 因幡国八上郡田公氏の一族。
③ 桓武平氏より三浦氏の出。
④ 丹波国豪族の日下部氏がルーツ。
の4つの説が挙げられており、つまりはまったくわからないということである(苦笑)
どこかで見た構図ではあるが、丹波波多野氏は、ある時期突然現れたに等しいわけで、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において
「細川勝元についた波多野秀長という武将が、丹波国多紀郡を与えられた」
ところからスタートし、とにかく因幡か相模かしらんけどどこかから来た秀長の子孫が丹波に根付いた、と続いていくのであった。
==========
ところが、話を戻したいのだが、波多野をおいかけていると「横尾」は全然出てこない。このままでは果たして横尾と波多野の接点がまったく見つからないのだが、困ったものである。
もちろん、丹波地域にも「横尾」という氏族はいるのだが、この丹波横尾氏のもっとも古い記録は天正期であり、波多野氏のほうがはるかに古く、かつ現在のところ接点が見つかっていない。
☆ちなみに丹波横尾氏は源氏であり、波多野氏は藤原氏である。
だとすると、波多野=横尾ラインはどこにあるのか。
その謎を解くカギとなる
有力な可能性のある情報!
を今回探検隊は発見したのである!
(この章つづく。まて次回!)
今回は全国の「波多野姓」について考察しながら、その点と線を結んでいきたいと思う。
そこで、全国にはどのような系統の「波多野」さんがいるのかを調査してみた。そこから肥前国との接点がありそうな波多野氏をピックアップしてみよう、というわけである。
(最新情報は2015.10.22)
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波多野姓・波多野さん・波多野氏 完全総覧
A 波多野氏 甲斐国 藤原秀郷流(支流・子孫に【川村】【中島】【西島】)
B 波多野氏 丹波国 藤原秀郷流(支流・子孫に【酒井】【荒木】)
C 波多野氏 相模国余綾郡波多野より起こる。藤原秀郷流(支流・子孫に【松田】【渋川】【沼田】【菖蒲】)
C’ 波多野氏 尾張国 藤原秀郷流・波多野義通後裔(支流・子孫に【野間】【門奈】)
C’ 波多野氏 もと山田を称し、波多野に復姓。藤原秀郷流。波多野義通後裔
D 波多野氏 三河国 藤原秀郷流(支流・子孫に【河村】)
F 波多野氏 淡路国 日下部氏の末裔
G 波多野氏 大伴氏~佐伯氏を経て波多野氏
H 波多野氏 桓武平氏~宗氏を経て波多野氏
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以上ざっと概観してわかる興味深いことは、特に「相模系波多野氏」など「秀郷流」の分岐がやたら多いことである。
それぞれ拠点とする地域は全くことなるが、仮冒の可能性も含めてとにかく「秀郷流」を称する波多野氏がとても多いことから、真偽はともかく
「波多野といえば秀郷流」
という認識が古くからあったことをうかがわせる。
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ところで、前回「丹波波多野氏」について着目したが、ウィキペディアによるとこの丹波波多野氏は
出自が不詳
と言ってよいのだそうである。
丹波波多野氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
説としては
① 相模波多野氏である「波多野義通」がルーツ。
② 因幡国八上郡田公氏の一族。
③ 桓武平氏より三浦氏の出。
④ 丹波国豪族の日下部氏がルーツ。
の4つの説が挙げられており、つまりはまったくわからないということである(苦笑)
どこかで見た構図ではあるが、丹波波多野氏は、ある時期突然現れたに等しいわけで、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において
「細川勝元についた波多野秀長という武将が、丹波国多紀郡を与えられた」
ところからスタートし、とにかく因幡か相模かしらんけどどこかから来た秀長の子孫が丹波に根付いた、と続いていくのであった。
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ところが、話を戻したいのだが、波多野をおいかけていると「横尾」は全然出てこない。このままでは果たして横尾と波多野の接点がまったく見つからないのだが、困ったものである。
もちろん、丹波地域にも「横尾」という氏族はいるのだが、この丹波横尾氏のもっとも古い記録は天正期であり、波多野氏のほうがはるかに古く、かつ現在のところ接点が見つかっていない。
☆ちなみに丹波横尾氏は源氏であり、波多野氏は藤原氏である。
だとすると、波多野=横尾ラインはどこにあるのか。
その謎を解くカギとなる
有力な可能性のある情報!
を今回探検隊は発見したのである!
(この章つづく。まて次回!)
2015年10月22日木曜日
【16】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート3・横尾=波多野姓の謎を解く〜
前回までのパート1・パート2で、佐賀県の横尾氏の初出がおおよそ戦国期である、ということまではわかってきた。
そして、おそらくその子孫だと思われる各横尾姓の人物が、「北肥戦誌」などにもたびたび登場し、佐賀藩のみならずその支藩においても横尾姓の武士の記載がみられる、というのが現時点でわかっていることである。
このように佐賀横尾氏の源流探しは、とりあえずここで置いておいて、今度は逆に下流から上流へと遡ってみよう、という試みを提案したい。
というのも佐賀藩の関係者でこんな人物がいるからである。
==========
波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%Aえ2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
佐賀藩には3つの支藩があり、それぞれ蓮池・小城・鹿島藩という。波多野敬直は明治大正期の子爵であり、もともとは小城藩士であった。
興味深いことに、この「波多野氏」は小城藩時代には「横尾姓」を名乗っており、ところがこの一族には
「横尾は本来【波多野】という姓であり、それにより波多野に姓を戻す」
という伝承があったことで波多野氏になった、というのである。
さて、波多野敬直は
”丹波の戦国武将である波多野氏の一族・波多野宗高の末裔にあたる。”
として波多野に複姓している。
これが、佐賀横尾氏のルーツと関係あるのではないか、とがぜん興味深くなってくるのである。
==========
丹波波多野氏は、丹波戦国期を知るものには有名な一族で、篠山市の八上城を拠点に丹波地域で勢力を振るっていた。
波多野宗高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%AB%98
宗高はその一族の武将であり、「丹波鬼」と呼ばれた勇猛な人物であったらしい。
ところが、佐賀における横尾氏の初出は1545年であり、波多野宗高の存命期間は1511~1570(あるいは1582)であることを考えると
完全に同時代の人たち
ということになる。
これはどういうことかといえば、波多野敬直が宗高の子孫になるためには、波多野宗高が丹波で周囲の氏族と戦いまくっている時に、
誰か1人、宗高のこどもが丹波から離脱し、肥前に移動して佐賀勢の家臣となる
ことが必要になる。
宗高の本来のこどもは宗長というのだが、
波多野宗長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%95%B7
この人物は、播磨別所氏や織田氏と戦って天正7年(1579)に滅びている。
そのため、いくらなんでも、お兄ちゃんたちが丹波で必死になっているのに、弟のうち誰か1人が肥前に飛んでいる、というのはどうにもおかしな話だと思わざるをえない。
==========
では、いったい佐賀横尾氏=波多野氏に何が起こっているのであろうか。これはもちろん、波多野敬直氏の一族にそのような伝承があったことを尊重しなくてはならないのだが、あるいは何か
「横尾と波多野をつなぐ線」
のようなものが潜んでいるのではないか、と考える。
というわけで、次回はその謎を読み解いてゆきたい。
そして、おそらくその子孫だと思われる各横尾姓の人物が、「北肥戦誌」などにもたびたび登場し、佐賀藩のみならずその支藩においても横尾姓の武士の記載がみられる、というのが現時点でわかっていることである。
このように佐賀横尾氏の源流探しは、とりあえずここで置いておいて、今度は逆に下流から上流へと遡ってみよう、という試みを提案したい。
というのも佐賀藩の関係者でこんな人物がいるからである。
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波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%Aえ2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
佐賀藩には3つの支藩があり、それぞれ蓮池・小城・鹿島藩という。波多野敬直は明治大正期の子爵であり、もともとは小城藩士であった。
興味深いことに、この「波多野氏」は小城藩時代には「横尾姓」を名乗っており、ところがこの一族には
「横尾は本来【波多野】という姓であり、それにより波多野に姓を戻す」
という伝承があったことで波多野氏になった、というのである。
さて、波多野敬直は
”丹波の戦国武将である波多野氏の一族・波多野宗高の末裔にあたる。”
として波多野に複姓している。
これが、佐賀横尾氏のルーツと関係あるのではないか、とがぜん興味深くなってくるのである。
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丹波波多野氏は、丹波戦国期を知るものには有名な一族で、篠山市の八上城を拠点に丹波地域で勢力を振るっていた。
波多野宗高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%AB%98
宗高はその一族の武将であり、「丹波鬼」と呼ばれた勇猛な人物であったらしい。
ところが、佐賀における横尾氏の初出は1545年であり、波多野宗高の存命期間は1511~1570(あるいは1582)であることを考えると
完全に同時代の人たち
ということになる。
これはどういうことかといえば、波多野敬直が宗高の子孫になるためには、波多野宗高が丹波で周囲の氏族と戦いまくっている時に、
誰か1人、宗高のこどもが丹波から離脱し、肥前に移動して佐賀勢の家臣となる
ことが必要になる。
宗高の本来のこどもは宗長というのだが、
波多野宗長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%95%B7
この人物は、播磨別所氏や織田氏と戦って天正7年(1579)に滅びている。
そのため、いくらなんでも、お兄ちゃんたちが丹波で必死になっているのに、弟のうち誰か1人が肥前に飛んでいる、というのはどうにもおかしな話だと思わざるをえない。
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では、いったい佐賀横尾氏=波多野氏に何が起こっているのであろうか。これはもちろん、波多野敬直氏の一族にそのような伝承があったことを尊重しなくてはならないのだが、あるいは何か
「横尾と波多野をつなぐ線」
のようなものが潜んでいるのではないか、と考える。
というわけで、次回はその謎を読み解いてゆきたい。
2015年10月20日火曜日
【15】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート2・佐賀藩と関わる横尾一族の動き〜
現在も佐賀県に多数分布している「横尾姓」であるが、その初出を探るべく
横尾七左衛門
なる人物について調査していたが、いよいよ結果が出てきた。
「多久市史」を研究なさっている方から、上記人物の解説を頂いたので紹介しておこう。
==========
出典 「参宮人帳」【天理大学図書館蔵】 (伊勢神宮の参詣者リスト)
天正拾年卯月十二日
四人 肥前国 多久庄
御供
銀子十二メ(文)目 石井藤七兵衛殿
同 五メ(文)目 御坊布施 同人
銀 六メ(文)目 よこ尾七左衛門尉殿
同 三メ(文)目 御坊布施 同人
脇差一ツ半御供 田中宗二郎殿
銀拾弐メ(文)目 石井九左衛門殿
==========
横尾七左衛門尉は、天正10(1582)年に肥前多久にいることがわかる。当時肥前多久地域を治めていたのは、龍造寺長信で、前多久氏から梶峰城を奪って住み着いている時(2回目)、ということになろう。
天正15年には、長信は秀吉から正式に多久藩主に任ぜられ、息子の龍造寺家久はのちに「多久安順」を名乗って後多久氏の祖となる、といった具合である。
さて、上記史料は、天正10年にすでに多久地区に横尾氏がおり、龍造寺家臣として存在することを示すものだが、
初出
うんぬんに関していえば、前回に北肥戦誌にて読み解いた「横尾刑部少輔広正」のほうが古いことが判明した。
北肥戦誌は、一次資料ではなく江戸時代に書かれたものだが、少なくとも年表的には、
天文14年(1545)
が、佐賀横尾氏の最も古い記録、となりそうである。
しかし、これまたぶっちゃけひとくくりにすれば、簡単にまとめて次のようなことが言えそうである。
佐賀横尾氏は、戦国時代に突然現れた
と。
これがいったいどういうことを意味するのか、もう少し絡め手から調査してゆくことにする。
==========
まず、わかったことは以下のようなポイントである。
【1】横尾刑部少輔は、天文期に川副・予賀にいて龍造寺家兼に従った。
【2】それから約三十数年後、天正期に横尾七左衛門尉は、龍造寺長信について多久にいた。
【3】同僚の武将として「田中氏」「石井氏」がいるということ。
この中で面白いのは「石井氏」の経歴である。
石井氏は肥前の名族であり、ウィキペディアでも詳細が書かれている。
肥前石井氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
これによると、石井氏は本姓藤原姓であり、下総を本拠として石井を名乗り、千葉氏の親戚となった。
この関係で肥前千葉氏との繋がりが出来、下総から肥前へと移住するのだが、肥前千葉氏の衰退とともに龍造寺との結びつきが強くなってゆく、という流れになっている。
戦国時代には龍造寺隆信のもと、家臣第三位の領地を持ち(鍋島・納富に次ぐ)、当然鍋島氏とも結びつきが強くなってゆく。
前回、千葉氏の動向についても着目したが、このあたりも大いに目が離せそうにない。
(この章つづく)
横尾七左衛門
なる人物について調査していたが、いよいよ結果が出てきた。
「多久市史」を研究なさっている方から、上記人物の解説を頂いたので紹介しておこう。
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出典 「参宮人帳」【天理大学図書館蔵】 (伊勢神宮の参詣者リスト)
天正拾年卯月十二日
四人 肥前国 多久庄
御供
銀子十二メ(文)目 石井藤七兵衛殿
同 五メ(文)目 御坊布施 同人
銀 六メ(文)目 よこ尾七左衛門尉殿
同 三メ(文)目 御坊布施 同人
脇差一ツ半御供 田中宗二郎殿
銀拾弐メ(文)目 石井九左衛門殿
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横尾七左衛門尉は、天正10(1582)年に肥前多久にいることがわかる。当時肥前多久地域を治めていたのは、龍造寺長信で、前多久氏から梶峰城を奪って住み着いている時(2回目)、ということになろう。
天正15年には、長信は秀吉から正式に多久藩主に任ぜられ、息子の龍造寺家久はのちに「多久安順」を名乗って後多久氏の祖となる、といった具合である。
さて、上記史料は、天正10年にすでに多久地区に横尾氏がおり、龍造寺家臣として存在することを示すものだが、
初出
うんぬんに関していえば、前回に北肥戦誌にて読み解いた「横尾刑部少輔広正」のほうが古いことが判明した。
北肥戦誌は、一次資料ではなく江戸時代に書かれたものだが、少なくとも年表的には、
天文14年(1545)
が、佐賀横尾氏の最も古い記録、となりそうである。
しかし、これまたぶっちゃけひとくくりにすれば、簡単にまとめて次のようなことが言えそうである。
佐賀横尾氏は、戦国時代に突然現れた
と。
これがいったいどういうことを意味するのか、もう少し絡め手から調査してゆくことにする。
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まず、わかったことは以下のようなポイントである。
【1】横尾刑部少輔は、天文期に川副・予賀にいて龍造寺家兼に従った。
【2】それから約三十数年後、天正期に横尾七左衛門尉は、龍造寺長信について多久にいた。
【3】同僚の武将として「田中氏」「石井氏」がいるということ。
この中で面白いのは「石井氏」の経歴である。
石井氏は肥前の名族であり、ウィキペディアでも詳細が書かれている。
肥前石井氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
これによると、石井氏は本姓藤原姓であり、下総を本拠として石井を名乗り、千葉氏の親戚となった。
この関係で肥前千葉氏との繋がりが出来、下総から肥前へと移住するのだが、肥前千葉氏の衰退とともに龍造寺との結びつきが強くなってゆく、という流れになっている。
戦国時代には龍造寺隆信のもと、家臣第三位の領地を持ち(鍋島・納富に次ぐ)、当然鍋島氏とも結びつきが強くなってゆく。
前回、千葉氏の動向についても着目したが、このあたりも大いに目が離せそうにない。
(この章つづく)
2015年10月19日月曜日
【14】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート1・謎の士族「横尾氏」〜
日本中の横尾姓について追いかけているところだが、今回からその中でもトップクラスの世帯数を誇る
佐賀横尾一族
のルーツについて、綿密な調査を繰り広げてゆきたいと思う。
名前ランキングさんのサイト
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
によると、381世帯の佐賀横尾氏はもちろんトップ。名字研究の上では、上越や長野の横尾氏族については判明していることが多いものの、佐賀横尾氏はまだ「詳細不明」であり、よくわかっていないのが実状である。
そんな佐賀横尾氏族のルーツについて、一石を投じようというのがこれから始まる冒険・探検の記事である。
しばらく連載が続くことになろうが、ぜひ楽しんでいただきたい。
==========
さて、そもそも佐賀やその周辺の福岡など、北部九州の「横尾姓」はどのような状況なのか、確認しておこう。
歴史的に見て、最も古いと考えられる「横尾姓人物」は、佐賀県立図書館の人名検索システムによれば
「横尾七左衛門」
なる人物だと結果が挙がってくるのだが、現在彼については詳細を調査中なので、しばらく結果をお待ちいただきたい。
==========
さて、佐賀の歴史において「横尾」姓の人物が、活躍し始めるのは、戦国時代のことである。
北部九州の歴史書である「北肥戦誌」にも、たくさんの横尾姓の人物が記載され、その一部が佐賀藩士として後の世に続いてゆくことになるのだが、その中でもっとも古いものは、
横尾刑部少輔広正
のようである。
時は天文十四(1545)年、佐賀の戦国武将龍造寺家兼は、主君少弐資元が大内氏から攻撃された際に助けようとしなかったとして批難され、少弐家臣にして傍流の馬場頼周によって息子と孫が殺され、かろうじて筑後に逃れ蒲池氏に助けを求める、という事件があった。
そののち、筑後から佐賀に帰還する際、川副・与賀勢として龍造寺氏を出迎えたメンバーの中に横尾刑部少輔がおり、これが横尾氏の記述の初出となるわけである。
また、龍造寺家兼は、その曾孫である龍造寺隆信らとともに、馬場を討ち、龍造寺氏を再興して隆信に後を任せ、この隆信の右腕であった鍋島信生(のちの直茂)が佐賀藩主へとつながってゆく、というのが佐賀の歴史であったりする。
ということは、ここまでで判明する横尾氏の状況としては
① 戦国期における拠点は、佐賀の「川副・与賀近辺」
② 龍造寺氏側にいる、ということは少弐=馬場氏ラインとは敵対していた?と考えられる。
③ のち龍造寺・鍋島軍団にしっかりと付き従っている。
ということが挙げられると思う。
===========
では、その川副周辺。戦国時代を通じてすでに龍造寺の息がかかっていることはなんとなく想像がつくが、それ以前はどうであろう。
「川副町誌」によると、室町時代においては
佐賀近辺は肥前千葉氏の支配下(小城・杵島・佐賀) = 千葉常胤の一族
ならびに
与賀・川副は今川氏の支配下 =九州探題・今川了俊の一族
がこの付近を固めていたらしい。
ところが、応仁の乱以降戦国期に入り、今川氏が千葉氏に敗れてこのエリアも千葉配下になり、それから少弐氏の力が強くなってきて、龍造寺・高木系氏族が少弐に付き、大内氏が九州へ侵攻してくると千葉が敗れて大内の支配下になった、という。
・・・・まさに戦国!
さて、文明18年の千葉氏分裂に当たっては、大内氏に育てられていた「千葉興常」が東千葉氏の初代となり、彼は大内氏が少弐政資を滅ぼした際、
肥前守護代
として、肥前の管理を任されるようになる。
この頃、千葉興常は、幼き日の神代勝利を養育しており、神代勝利はのちに佐賀の北部を手中に納めることになるわけである。
(この章つづく)
佐賀横尾一族
のルーツについて、綿密な調査を繰り広げてゆきたいと思う。
名前ランキングさんのサイト
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
によると、381世帯の佐賀横尾氏はもちろんトップ。名字研究の上では、上越や長野の横尾氏族については判明していることが多いものの、佐賀横尾氏はまだ「詳細不明」であり、よくわかっていないのが実状である。
そんな佐賀横尾氏族のルーツについて、一石を投じようというのがこれから始まる冒険・探検の記事である。
しばらく連載が続くことになろうが、ぜひ楽しんでいただきたい。
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さて、そもそも佐賀やその周辺の福岡など、北部九州の「横尾姓」はどのような状況なのか、確認しておこう。
歴史的に見て、最も古いと考えられる「横尾姓人物」は、佐賀県立図書館の人名検索システムによれば
「横尾七左衛門」
なる人物だと結果が挙がってくるのだが、現在彼については詳細を調査中なので、しばらく結果をお待ちいただきたい。
==========
さて、佐賀の歴史において「横尾」姓の人物が、活躍し始めるのは、戦国時代のことである。
北部九州の歴史書である「北肥戦誌」にも、たくさんの横尾姓の人物が記載され、その一部が佐賀藩士として後の世に続いてゆくことになるのだが、その中でもっとも古いものは、
横尾刑部少輔広正
のようである。
時は天文十四(1545)年、佐賀の戦国武将龍造寺家兼は、主君少弐資元が大内氏から攻撃された際に助けようとしなかったとして批難され、少弐家臣にして傍流の馬場頼周によって息子と孫が殺され、かろうじて筑後に逃れ蒲池氏に助けを求める、という事件があった。
そののち、筑後から佐賀に帰還する際、川副・与賀勢として龍造寺氏を出迎えたメンバーの中に横尾刑部少輔がおり、これが横尾氏の記述の初出となるわけである。
また、龍造寺家兼は、その曾孫である龍造寺隆信らとともに、馬場を討ち、龍造寺氏を再興して隆信に後を任せ、この隆信の右腕であった鍋島信生(のちの直茂)が佐賀藩主へとつながってゆく、というのが佐賀の歴史であったりする。
ということは、ここまでで判明する横尾氏の状況としては
① 戦国期における拠点は、佐賀の「川副・与賀近辺」
② 龍造寺氏側にいる、ということは少弐=馬場氏ラインとは敵対していた?と考えられる。
③ のち龍造寺・鍋島軍団にしっかりと付き従っている。
ということが挙げられると思う。
===========
では、その川副周辺。戦国時代を通じてすでに龍造寺の息がかかっていることはなんとなく想像がつくが、それ以前はどうであろう。
「川副町誌」によると、室町時代においては
佐賀近辺は肥前千葉氏の支配下(小城・杵島・佐賀) = 千葉常胤の一族
ならびに
与賀・川副は今川氏の支配下 =九州探題・今川了俊の一族
がこの付近を固めていたらしい。
ところが、応仁の乱以降戦国期に入り、今川氏が千葉氏に敗れてこのエリアも千葉配下になり、それから少弐氏の力が強くなってきて、龍造寺・高木系氏族が少弐に付き、大内氏が九州へ侵攻してくると千葉が敗れて大内の支配下になった、という。
・・・・まさに戦国!
さて、文明18年の千葉氏分裂に当たっては、大内氏に育てられていた「千葉興常」が東千葉氏の初代となり、彼は大内氏が少弐政資を滅ぼした際、
肥前守護代
として、肥前の管理を任されるようになる。
この頃、千葉興常は、幼き日の神代勝利を養育しており、神代勝利はのちに佐賀の北部を手中に納めることになるわけである。
(この章つづく)
2015年10月17日土曜日
【13】島根県の横尾姓情報 謎が謎を呼ぶ九州横尾氏との関係性?!
少し期間があいたが、島根県の「横尾姓」に関わりそうな情報が入ってきたのでリサーチ。
西国の山城 さんのサイト
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
によると、島根県益田市柏原町というところに「横山城」という戦国山城があって、その城主が、菖蒲五郎真盛(実盛)というのだが、この城のほど近くに、地区の開拓始祖として
横尾右衛門
なる人物が墓に祀られているらしいことがわかっている。
面白いことに「益田市誌」では、「菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことである」という説を取っているらしい。
個人的に興味深いのは、この城の城主スジが、
波多野彦次郎、波多野彦三郎 波多野彦六郎
という波多野氏族であり、菖蒲五郎なる人物は波多野系であろうと推測できるのである。
==========
なぜこの一族に着目するのか、というと、今後じっくり取り上げることになるであろう「肥前佐賀藩の横尾氏」との関係が実にミステリーだからである。
肥前佐賀には「波多野敬直」という人物がおり、彼の来歴を見ることからこの謎解きを開始したい。
波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
ウィキペディアによれば、佐賀小城藩に「横尾」一族がおり、その旧来の姓は「波多野」だと言う。
ところが、この”波多野”。丹波の戦国武将の「波多野氏」の末裔であると言うが、ここには恐らく誤解がある。
私は現在、丹波地域の苗字を調査中であるが、もちろん「波多野さん」の知り合いもたくさんいるものの、残念ながら波多野氏と佐賀の関係性は見つかっていない。
つまり、波多野敬直が横尾から波多野に改姓した原点は、「もとは波多野であった」という伝承に基づいているものの、それは「丹波波多野ではないのに誤解した」可能性が高いのである。
では、真実はどこにあるのか。
その一つの仮説が、この「島根横尾=波多野ライン」ではないのか?
まずは、島根益田に根付いた「益田氏」の系統を見ていただきたい。
益田氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%B0%8F
これによれば、室町時代の時点で、益田から波多野に改姓している支流があることがわかる。
そして、その直後、益田兼堯は、周防の守護大名「大内盛見」について九州へと参戦しているのである。
このあたりから歴史に詳しい人ならご存知の通り、大内一族は九州へ進出し
大内氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護
を務めることになるわけである。
この流れを俯瞰すると、島根の益田氏の一派である波多野氏(横尾氏)は、大内氏に属して九州へ転戦し、北部九州に何らかの形で根付くことになるという仮説が生まれる。
もっとズバリで言えば、大内氏代13代「大内教弘」の時代には、少弐氏と敵対して
大内教弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%95%99%E5%BC%98
なんと肥前守護を任官しているのである。
まさにズバリ、佐賀と島根波多野氏がつながった瞬間ではないか?!
==========
これまた興味深いことに、佐賀藩の横尾姓は、戦国期においてはじめて突然登場する。これはおそらく、室町末期に取り残された島根系波多野=横尾氏の一派であることの傍証なのではないか、というわけである(^^
ある情報で、「佐賀藩士の末裔の横尾氏は、本姓藤原氏である」というデータを掴んでいるのだが、
益田氏は、本姓藤原氏
なのだ!!
というわけで、このあたりをズビズバと調査すべく、ネタは佐賀へと移動するのであった!!
西国の山城 さんのサイト
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
によると、島根県益田市柏原町というところに「横山城」という戦国山城があって、その城主が、菖蒲五郎真盛(実盛)というのだが、この城のほど近くに、地区の開拓始祖として
横尾右衛門
なる人物が墓に祀られているらしいことがわかっている。
面白いことに「益田市誌」では、「菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことである」という説を取っているらしい。
個人的に興味深いのは、この城の城主スジが、
波多野彦次郎、波多野彦三郎 波多野彦六郎
という波多野氏族であり、菖蒲五郎なる人物は波多野系であろうと推測できるのである。
==========
なぜこの一族に着目するのか、というと、今後じっくり取り上げることになるであろう「肥前佐賀藩の横尾氏」との関係が実にミステリーだからである。
肥前佐賀には「波多野敬直」という人物がおり、彼の来歴を見ることからこの謎解きを開始したい。
波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
ウィキペディアによれば、佐賀小城藩に「横尾」一族がおり、その旧来の姓は「波多野」だと言う。
ところが、この”波多野”。丹波の戦国武将の「波多野氏」の末裔であると言うが、ここには恐らく誤解がある。
私は現在、丹波地域の苗字を調査中であるが、もちろん「波多野さん」の知り合いもたくさんいるものの、残念ながら波多野氏と佐賀の関係性は見つかっていない。
つまり、波多野敬直が横尾から波多野に改姓した原点は、「もとは波多野であった」という伝承に基づいているものの、それは「丹波波多野ではないのに誤解した」可能性が高いのである。
では、真実はどこにあるのか。
その一つの仮説が、この「島根横尾=波多野ライン」ではないのか?
まずは、島根益田に根付いた「益田氏」の系統を見ていただきたい。
益田氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%B0%8F
これによれば、室町時代の時点で、益田から波多野に改姓している支流があることがわかる。
そして、その直後、益田兼堯は、周防の守護大名「大内盛見」について九州へと参戦しているのである。
このあたりから歴史に詳しい人ならご存知の通り、大内一族は九州へ進出し
大内氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護
を務めることになるわけである。
この流れを俯瞰すると、島根の益田氏の一派である波多野氏(横尾氏)は、大内氏に属して九州へ転戦し、北部九州に何らかの形で根付くことになるという仮説が生まれる。
もっとズバリで言えば、大内氏代13代「大内教弘」の時代には、少弐氏と敵対して
大内教弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%95%99%E5%BC%98
なんと肥前守護を任官しているのである。
まさにズバリ、佐賀と島根波多野氏がつながった瞬間ではないか?!
==========
これまた興味深いことに、佐賀藩の横尾姓は、戦国期においてはじめて突然登場する。これはおそらく、室町末期に取り残された島根系波多野=横尾氏の一派であることの傍証なのではないか、というわけである(^^
ある情報で、「佐賀藩士の末裔の横尾氏は、本姓藤原氏である」というデータを掴んでいるのだが、
益田氏は、本姓藤原氏
なのだ!!
というわけで、このあたりをズビズバと調査すべく、ネタは佐賀へと移動するのであった!!
2015年7月4日土曜日
【12】 サマーウォーズとヨコーウォーズ ~信濃横尾氏は源氏なのか?平氏なのか?~
前回の「長野・上田市」を中心とするサマーウォーズと真田氏を調べていると、わけがわからなくなってきた。
そう、真田氏と関係のある「横尾氏」の出自についてである!
信濃の横尾氏を調べていると、よくわからない記述にいろいろ出くわして、頭がこんがらがっているので、ここで一旦まとめてみないと収まらない。
ようするに
「信濃横尾氏は、源氏なのか、それとも平氏なのか」
という大問題にぶち当たったのである。
==========
そもそもは、太田亮先生の「姓氏家系大辞典」に立ち戻ろう。そこでは信濃の横尾氏について
■ 横尾 ・・・信濃・上野などにこの地名が存在する。
1 清和源氏芳美氏族 和田系図裏書に「芳美太郎貞俊-俊家(横尾)-又二郎俊真-次郎太郎俊重-俊秦(三木彦次郎入道)」と見える。
2 上野 吾妻郡横尾邑(ムラ)より起こる。
3 滋野姓 海野氏の族にして、信濃国小縣郡横尾村より起こり、横尾城を拠点とする。岩下豊後守幸久の孫、幸兼の男幸成、横尾三郎と言い、後に但馬守と称する。この人物かと思われる。
横尾城は村上義清のために落城する。
4 平姓 中村氏の末裔。六右衛門昭平(與左衛門、行隆、享保幕臣)に至り、この氏を称する。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
5 豊後(地方) 當国の豪族で、圃田帳に「玖珠郡山田郷山階村二十五丁三段云々、地頭職小田左衛門尉重成、横尾十郎成資跡」とある。また「飯田郷恵良村云々、本庄横尾十郎成資跡」とある。
6 中国(地方) 山名家臣に横尾軍兵衛が見え、また、尼子家臣に横尾源助久盛、また因幡木下家臣に横尾氏がある。(子孫は智頭郡にいる)
7 その他 「東鑑」第27巻に横尾左近将監が載っている。また佐賀藩に横尾定(静安)がいる。同国の儒学者横尾文輔道賢は紫洋と名乗った。また仙台藩士横尾東作は南島の開拓に功績があったという。そのほか、豊前、武蔵、山城、摂津、播磨などに横尾姓が存在する。
と書いてある。
問題となっているのは、3の「滋野姓横尾氏」である。
この点について、より詳しく説明なさっている方を見つけたので、そちらも参照願いたい。
全国の海野氏と寺院 さんのサイト
http://musha.mobi/index.php?%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%90%84%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%AF%BA%E9%99%A2
ここから、該当部分だけを抜き出せば、
『 小県郡岩下に住し、海野系岩下氏が姓となす。領所は小牧・岩下村を領す。世俗小牧殿と称し、岩下幸兼・幸邦などあり、岩下幸邦の弟にして、上之条に住 み、竹鼻二郎左衛門と号し、のちに横尾領横尾但馬守と号し、世俗横尾殿、曲尾も小県洗馬地方には海野系半田氏も繁栄発展を続け屋代雨宮にも半田氏がおる。』
とのこと。
まとめてみよう。
①小県郡に、岩下という一族がいて、海野系岩下氏を名乗っている。
②この一族から横尾但馬守という人物が出た。
という話と、
③小県郡横尾に横尾城があり、村上氏に滅ぼされる。
という話があり、それが同一氏族だと仮定して太田先生は話を進めているわけだ。
ところが、以前に検討したように、横尾城の横尾氏は、平氏を名乗っており、海野系とは一言も言っていない。
山城めぐりさんのサイトを参照のこと
http://blog.goo.ne.jp/tomiokamusasi/e/cb7916cab05b5898766265c9130f5f50
なので、この横尾氏は、それぞれ実は別の氏族だと考えられまいか?!
太田大先生、ごめんなさい。どうもそんなことになりそうですm(_ _)m
==========
さて、ちなみに姓氏家系辞典の1にあたる「清和源氏芳美流横尾氏」とは、いったいどんな氏族なのであろうか。
日本の苗字7000傑さんのサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01003a.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01003.htm
と
清和源氏の一族名さんのサイト
http://www5b.biglobe.ne.jp/~giemont/seiwaichizoku.htm
を参考にすれば、
源満仲 → 満快(子孫は信濃に広がる) → 伊那氏 → 芳美氏 → 横尾氏
という流れがあったのではないかと推測することは可能である。
これで源氏系を称する横尾氏は2氏あり、どちらも信濃にゆかりがあることがわかってきた。
そう、真田氏と関係のある「横尾氏」の出自についてである!
信濃の横尾氏を調べていると、よくわからない記述にいろいろ出くわして、頭がこんがらがっているので、ここで一旦まとめてみないと収まらない。
ようするに
「信濃横尾氏は、源氏なのか、それとも平氏なのか」
という大問題にぶち当たったのである。
==========
そもそもは、太田亮先生の「姓氏家系大辞典」に立ち戻ろう。そこでは信濃の横尾氏について
■ 横尾 ・・・信濃・上野などにこの地名が存在する。
1 清和源氏芳美氏族 和田系図裏書に「芳美太郎貞俊-俊家(横尾)-又二郎俊真-次郎太郎俊重-俊秦(三木彦次郎入道)」と見える。
2 上野 吾妻郡横尾邑(ムラ)より起こる。
3 滋野姓 海野氏の族にして、信濃国小縣郡横尾村より起こり、横尾城を拠点とする。岩下豊後守幸久の孫、幸兼の男幸成、横尾三郎と言い、後に但馬守と称する。この人物かと思われる。
横尾城は村上義清のために落城する。
4 平姓 中村氏の末裔。六右衛門昭平(與左衛門、行隆、享保幕臣)に至り、この氏を称する。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
5 豊後(地方) 當国の豪族で、圃田帳に「玖珠郡山田郷山階村二十五丁三段云々、地頭職小田左衛門尉重成、横尾十郎成資跡」とある。また「飯田郷恵良村云々、本庄横尾十郎成資跡」とある。
6 中国(地方) 山名家臣に横尾軍兵衛が見え、また、尼子家臣に横尾源助久盛、また因幡木下家臣に横尾氏がある。(子孫は智頭郡にいる)
7 その他 「東鑑」第27巻に横尾左近将監が載っている。また佐賀藩に横尾定(静安)がいる。同国の儒学者横尾文輔道賢は紫洋と名乗った。また仙台藩士横尾東作は南島の開拓に功績があったという。そのほか、豊前、武蔵、山城、摂津、播磨などに横尾姓が存在する。
と書いてある。
問題となっているのは、3の「滋野姓横尾氏」である。
この点について、より詳しく説明なさっている方を見つけたので、そちらも参照願いたい。
全国の海野氏と寺院 さんのサイト
http://musha.mobi/index.php?%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%90%84%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%AF%BA%E9%99%A2
ここから、該当部分だけを抜き出せば、
『 小県郡岩下に住し、海野系岩下氏が姓となす。領所は小牧・岩下村を領す。世俗小牧殿と称し、岩下幸兼・幸邦などあり、岩下幸邦の弟にして、上之条に住 み、竹鼻二郎左衛門と号し、のちに横尾領横尾但馬守と号し、世俗横尾殿、曲尾も小県洗馬地方には海野系半田氏も繁栄発展を続け屋代雨宮にも半田氏がおる。』
とのこと。
まとめてみよう。
①小県郡に、岩下という一族がいて、海野系岩下氏を名乗っている。
②この一族から横尾但馬守という人物が出た。
という話と、
③小県郡横尾に横尾城があり、村上氏に滅ぼされる。
という話があり、それが同一氏族だと仮定して太田先生は話を進めているわけだ。
ところが、以前に検討したように、横尾城の横尾氏は、平氏を名乗っており、海野系とは一言も言っていない。
山城めぐりさんのサイトを参照のこと
http://blog.goo.ne.jp/tomiokamusasi/e/cb7916cab05b5898766265c9130f5f50
なので、この横尾氏は、それぞれ実は別の氏族だと考えられまいか?!
太田大先生、ごめんなさい。どうもそんなことになりそうですm(_ _)m
==========
さて、ちなみに姓氏家系辞典の1にあたる「清和源氏芳美流横尾氏」とは、いったいどんな氏族なのであろうか。
日本の苗字7000傑さんのサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01003a.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01003.htm
と
清和源氏の一族名さんのサイト
http://www5b.biglobe.ne.jp/~giemont/seiwaichizoku.htm
を参考にすれば、
源満仲 → 満快(子孫は信濃に広がる) → 伊那氏 → 芳美氏 → 横尾氏
という流れがあったのではないかと推測することは可能である。
これで源氏系を称する横尾氏は2氏あり、どちらも信濃にゆかりがあることがわかってきた。
【11】 サマーウォーズと横尾氏 ~信州上田、真田氏の動向を中心に~
昨日の金曜ロードショーでは、細田守監督の
「サマーウォーズ」
をやっていた(^^
この映画、長野県上田市が舞台で、登場人物たちのモデルは、真田氏だと思われる。
六文銭の甲冑が出てきたり、おばあちゃんの着物の家紋が「結び雁金」だったりするので、真田オーラが全開というわけ。
ついでに言えば、実家の門は、「上田城」の城門がモデルになっているようで。
==========
さて、そんな長野県上田市と横尾一族との関係をあらためておさらいしておこう。
長野県上田市、上田城は、真田氏の居城である。この地は旧名「信濃国小県郡上田」といい、真田氏はこの地の小さな豪族からスタートしたと考えられている。
真田氏は、甲斐武田氏に仕えており、武田氏滅亡のあとは織田氏、豊臣氏と仕えて関が原へ至る。
このあたりは来年の大河ドラマでみっちりやるはずなので、期待大ですな。
ところで、この真田氏。実は小県郡で活躍するに当たっては、それまでその地を支配していた横尾氏を追い出して居座るような形になっている。
それが、おなじ上田市旧真田町の「横尾城」の物語であって、このへんは以前の記事で解説したので割愛する。
ちなみに、この地において真田に追い出された横尾氏は、本姓平氏を名乗っているため、どうやら当家のご先祖と関係あるとは思えない。
当家の横尾氏は、源氏を名乗っており、これがもし長野にゆかりがあるとすれば、
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
という2種類の氏族が長野に存在する、ということになるわけである。
==========
その謎を解くヒントが、やはり真田氏にある。真田氏という一族は、戦国時代の後半に頭角を表した氏族で、実は
出身がよくわかっていない
のである。
公式見解としては、真田氏は
①清和源氏である
②海野氏の末裔とする。
③滋野氏嫡流、海野氏につながるとする。
となっているが、これは近世になってから創作された可能性が高い系図である。
では実際にはどうだったのか?歴史資料的には、おなじ信濃の名族である根津氏の支配下に「真田・実田」などの名前が見えるので、根津氏末流もしくは家臣であると考えられている。
はい、ややこしくなってきたので、まとめ。
まず信濃には滋野三家という「有名な氏族が3氏」存在していた。
この滋野氏。伝説では清和天皇の第四皇子が長野に来て、滋野姓をもらったことになっている。
なので、系図上の滋野氏は「清和源氏」ということになる。
(しかし、現実的にはどうも違うらしい、別の滋野姓の一族が、清和天皇由来説を創作したという説が強い)
さて、滋野氏から「海野・望月・根津」という3つの氏族で出てきて、これらを「滋野三家」と呼んでいる。
■ 海野氏 <六文銭> 小県郡に勢力。 滋野の分流とされているが、証拠はない。あるいは滋野系とは無関係のスタートかもしれない説あり。
ただし、滋野嫡流とされている。 長男家
■ 望月氏 <九曜> 佐久郡に勢力。 滋野の分流。鎌倉時代には望月姓。三男家。
■ 根津氏 <丸に月> 小県郡に勢力。 次男家。
(基本的に、3氏族は強い協力体制にあった)
==========
さて、真田氏の真実に迫ろうとすれば
「海野氏よりも、実は根津氏に近かったのではないか」
とか
「滋野氏がそもそも清和天皇末裔であることが、不明」
とか、いろんな問題点が浮上する。
しかし、大名になった真田氏としては
「俺は清和源氏で天皇の末裔なんだもんね。かつ、信濃でナンバー1の滋野氏の末裔で、かつその中でも長男の家系の海野氏なんだもんね。だから家紋は六文銭で結び雁金なんだもんね」
ということを主張しまくったことだけは、なんとなく伝わってくる。
まあ、必死こいて自分たちの正当性を言いまくったわけである。
==========
なんでこんなに主張するのかはカンタン。それは真田氏が「元いた連中を追い出した側」だからである。追い出した側としては、その地を支配するにあたって、「そこにいていいんだよ」という正当性を打ち出さないと、いつまでたってもアウェィ状態でうまく支配できない。
そのため、信濃で一定の権限を持っているはずの滋野流を名乗ることで、「あとから来たよそ者みたいに見えるけど、実はこの地の元からの支配者の子孫です」と言わねばならなかったわけであろう。
「サマーウォーズ」
をやっていた(^^
この映画、長野県上田市が舞台で、登場人物たちのモデルは、真田氏だと思われる。
六文銭の甲冑が出てきたり、おばあちゃんの着物の家紋が「結び雁金」だったりするので、真田オーラが全開というわけ。
ついでに言えば、実家の門は、「上田城」の城門がモデルになっているようで。
==========
さて、そんな長野県上田市と横尾一族との関係をあらためておさらいしておこう。
長野県上田市、上田城は、真田氏の居城である。この地は旧名「信濃国小県郡上田」といい、真田氏はこの地の小さな豪族からスタートしたと考えられている。
真田氏は、甲斐武田氏に仕えており、武田氏滅亡のあとは織田氏、豊臣氏と仕えて関が原へ至る。
このあたりは来年の大河ドラマでみっちりやるはずなので、期待大ですな。
ところで、この真田氏。実は小県郡で活躍するに当たっては、それまでその地を支配していた横尾氏を追い出して居座るような形になっている。
それが、おなじ上田市旧真田町の「横尾城」の物語であって、このへんは以前の記事で解説したので割愛する。
ちなみに、この地において真田に追い出された横尾氏は、本姓平氏を名乗っているため、どうやら当家のご先祖と関係あるとは思えない。
当家の横尾氏は、源氏を名乗っており、これがもし長野にゆかりがあるとすれば、
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
という2種類の氏族が長野に存在する、ということになるわけである。
==========
その謎を解くヒントが、やはり真田氏にある。真田氏という一族は、戦国時代の後半に頭角を表した氏族で、実は
出身がよくわかっていない
のである。
公式見解としては、真田氏は
①清和源氏である
②海野氏の末裔とする。
③滋野氏嫡流、海野氏につながるとする。
となっているが、これは近世になってから創作された可能性が高い系図である。
では実際にはどうだったのか?歴史資料的には、おなじ信濃の名族である根津氏の支配下に「真田・実田」などの名前が見えるので、根津氏末流もしくは家臣であると考えられている。
はい、ややこしくなってきたので、まとめ。
まず信濃には滋野三家という「有名な氏族が3氏」存在していた。
この滋野氏。伝説では清和天皇の第四皇子が長野に来て、滋野姓をもらったことになっている。
なので、系図上の滋野氏は「清和源氏」ということになる。
(しかし、現実的にはどうも違うらしい、別の滋野姓の一族が、清和天皇由来説を創作したという説が強い)
さて、滋野氏から「海野・望月・根津」という3つの氏族で出てきて、これらを「滋野三家」と呼んでいる。
■ 海野氏 <六文銭> 小県郡に勢力。 滋野の分流とされているが、証拠はない。あるいは滋野系とは無関係のスタートかもしれない説あり。
ただし、滋野嫡流とされている。 長男家
■ 望月氏 <九曜> 佐久郡に勢力。 滋野の分流。鎌倉時代には望月姓。三男家。
■ 根津氏 <丸に月> 小県郡に勢力。 次男家。
(基本的に、3氏族は強い協力体制にあった)
==========
さて、真田氏の真実に迫ろうとすれば
「海野氏よりも、実は根津氏に近かったのではないか」
とか
「滋野氏がそもそも清和天皇末裔であることが、不明」
とか、いろんな問題点が浮上する。
しかし、大名になった真田氏としては
「俺は清和源氏で天皇の末裔なんだもんね。かつ、信濃でナンバー1の滋野氏の末裔で、かつその中でも長男の家系の海野氏なんだもんね。だから家紋は六文銭で結び雁金なんだもんね」
ということを主張しまくったことだけは、なんとなく伝わってくる。
まあ、必死こいて自分たちの正当性を言いまくったわけである。
==========
なんでこんなに主張するのかはカンタン。それは真田氏が「元いた連中を追い出した側」だからである。追い出した側としては、その地を支配するにあたって、「そこにいていいんだよ」という正当性を打ち出さないと、いつまでたってもアウェィ状態でうまく支配できない。
そのため、信濃で一定の権限を持っているはずの滋野流を名乗ることで、「あとから来たよそ者みたいに見えるけど、実はこの地の元からの支配者の子孫です」と言わねばならなかったわけであろう。
2015年6月25日木曜日
【資料】 ご先祖さまの辿り方 名字、苗字の由来 家系図 先祖調べ ルーツ 家系調査 ~参考になるサイト・資料一覧~
この記事では、
ご先祖さまの辿り方 名字、苗字の由来 家系図 先祖調べ ルーツ 家系調査
などについて、参考になるサイトや資料の一覧を示しておきます。
ご先祖さまについて調べてみたい!
一族の歴史を知りたい!
名字の由来やルーツを知りたい!
といった時に、ぜひ参考になさってくださいね。
最終更新日 平成27年6月25日
==========
【家系図について参考になるサイト・資料】
整理中
【名字・苗字について参考になるサイト・資料】
■ 『姓氏家系辞書』 太田亮 磯部甲陽堂1920
■ 『全国名字辞典』 森岡浩 東京堂出版1997
■ 『新編日本姓氏辞典』 千葉琢穂編 展望社1997
■ 『日本の姓氏 大総鑑』 日正出版1997
■ 『神奈川県姓氏家系大辞典』 角川書店1998
■ 『日本名字家系大事典』 森岡浩 東京堂出版2002
■ 『姓氏家系大事典』 丹羽基二 新人物往来社2002
■ 『日本家系系図大事典』 奥富敬之 東京堂出版2008
■ 『全国名字大辞典』 森岡浩 東京堂出版2011
■ 『苗字辞典』 新藤正則 湘南社2011
【家紋について参考になるサイト・資料】
■ 『家紋大図鑑』 丹羽基二 秋田書店1971
■ 『上州の苗字と家紋』 萩原進編 上毛新聞社1979
■ 『日本家紋総覧』 能坂利雄 新人物往来社1990
■ 『姓氏・地名・家紋総合辞典』 丹羽基二 新人物往来社1990
■ 『家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1995
■ 『続家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1998
■ 『苗字から引く家紋の辞典』 高澤等 東京堂出版2011
■ 『寛政重修諸家譜家紋〔オンデマンド版〕』 千鹿野茂 八木書店2014
【その他】
☆藩の分限帳について☆
■ 『全国諸藩分限帳総覧』
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html
■ 『未翻刻全国諸藩分限帳リスト』
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7590.html
ご先祖さまの辿り方 名字、苗字の由来 家系図 先祖調べ ルーツ 家系調査
などについて、参考になるサイトや資料の一覧を示しておきます。
ご先祖さまについて調べてみたい!
一族の歴史を知りたい!
名字の由来やルーツを知りたい!
といった時に、ぜひ参考になさってくださいね。
最終更新日 平成27年6月25日
==========
【家系図について参考になるサイト・資料】
整理中
【名字・苗字について参考になるサイト・資料】
■ 『姓氏家系辞書』 太田亮 磯部甲陽堂1920
■ 『姓氏家系大辞典』3巻 太田亮 角川書店1963
■ 『新編姓氏家系辞書』 太田亮・丹羽基二 秋田書店1979
■ 『山口県姓氏家系大辞典』 角川書店1991
■ 『富山県姓氏家系大辞典』 角川書店1992
■ 『姓氏苗字事典』 丸山浩一 金園社1992
■ 『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店1992
■ 『宮城県姓氏家系大辞典』 角川書店1994
■ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』 角川書店1994
■ 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川書店1995
■ 『静岡県姓氏家系大辞典』 角川書店1995
■ 『山口県姓氏家系大辞典』 角川書店1991
■ 『富山県姓氏家系大辞典』 角川書店1992
■ 『姓氏苗字事典』 丸山浩一 金園社1992
■ 『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店1992
■ 『宮城県姓氏家系大辞典』 角川書店1994
■ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』 角川書店1994
■ 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川書店1995
■ 『静岡県姓氏家系大辞典』 角川書店1995
■ 『全国名字辞典』 森岡浩 東京堂出版1997
■ 『新編日本姓氏辞典』 千葉琢穂編 展望社1997
■ 『日本の姓氏 大総鑑』 日正出版1997
■ 『神奈川県姓氏家系大辞典』 角川書店1998
■ 『日本名字家系大事典』 森岡浩 東京堂出版2002
■ 『姓氏家系大事典』 丹羽基二 新人物往来社2002
■ 『日本家系系図大事典』 奥富敬之 東京堂出版2008
■ 『全国名字大辞典』 森岡浩 東京堂出版2011
■ 『苗字辞典』 新藤正則 湘南社2011
【家紋について参考になるサイト・資料】
■ 『家紋大図鑑』 丹羽基二 秋田書店1971
■ 『上州の苗字と家紋』 萩原進編 上毛新聞社1979
■ 『日本家紋総覧』 能坂利雄 新人物往来社1990
■ 『姓氏・地名・家紋総合辞典』 丹羽基二 新人物往来社1990
■ 『家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1995
■ 『続家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1998
■ 『日本家紋総鑑』 千鹿野茂 角川書店1993
■ 『家紋大全5116紋』 本田總一郎 梧桐書院2004
■ 『家紋大全5116紋』 本田總一郎 梧桐書院2004
■ 『家紋の事典』 高澤等・千鹿野茂 東京堂出版2008
■ 『苗字から引く家紋の辞典』 高澤等 東京堂出版2011
【その他】
☆藩の分限帳について☆
■ 『全国諸藩分限帳総覧』
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html
■ 『未翻刻全国諸藩分限帳リスト』
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7590.html
2015年6月24日水曜日
【資料】 横尾姓の記載がある分限帳 一覧
この記事では、藩政期・江戸時代における各藩の分限帳(藩士録)について、【横尾】姓がみられるらしいものについて列記しています。
各地の横尾さんのルーツを考える上での参考になさってください。
☆判明したものから掲載していますので随時更新されます。
☆最終更新日 平成27年6月24日
==========
■ 「肥前鍋島家分限帳」 青潮社1994
■ 「(肥後熊本)加藤家侍帳」
■「
【資料】 横尾姓の有名人一覧
横尾姓の中でも、いろんな活躍をなさっている方、有名人の横尾さんをまとめてみました。
随時新しい方を追加するかもしれません。
☆ 最終更新日 平成27年6月24日
==========
■ 横尾要
プロゴルファー。
1972年生 東京都出身。かとうれいこさんの夫なので、かとうれいこさんは、現在「横尾房江」さんだそうです(←本名)
■ 横尾香代子
女優。
1953年生 佐賀県出身
■ 横尾三郎
俳優。70年代より活躍するベテラン。
1950年生 新潟県上越市出身
■ 横尾泰輔
NHKアナウンサー。災害・震災報道のスペシャリスト。
1975年生 神奈川県横浜市出身
■ 横尾忠則
おそらく日本一有名な横尾さんの一人。美術家・グラフィックデザイナー。
1936年生 兵庫県西脇市出身。
■ 横尾初喜
映像作家、映画監督。
1979年 長崎県佐世保市出身。
■ 横尾まり
声優。 東京都出身
■ 横尾渉
ジャニーズ事務所に所属するアイドルさんです。kis-my-ft2&舞祭組のメンバー。
1986年生 神奈川県出身
随時新しい方を追加するかもしれません。
☆ 最終更新日 平成27年6月24日
==========
■ 横尾要
プロゴルファー。
1972年生 東京都出身。かとうれいこさんの夫なので、かとうれいこさんは、現在「横尾房江」さんだそうです(←本名)
■ 横尾香代子
女優。
1953年生 佐賀県出身
■ 横尾三郎
俳優。70年代より活躍するベテラン。
1950年生 新潟県上越市出身
■ 横尾泰輔
NHKアナウンサー。災害・震災報道のスペシャリスト。
1975年生 神奈川県横浜市出身
■ 横尾忠則
おそらく日本一有名な横尾さんの一人。美術家・グラフィックデザイナー。
1936年生 兵庫県西脇市出身。
■ 横尾初喜
映像作家、映画監督。
1979年 長崎県佐世保市出身。
■ 横尾まり
声優。 東京都出身
■ 横尾渉
ジャニーズ事務所に所属するアイドルさんです。kis-my-ft2&舞祭組のメンバー。
1986年生 神奈川県出身
2015年6月14日日曜日
【10】大分県の横尾姓情報
九州地方の「横尾」姓というのは、いわゆる旧佐賀藩の支配領域にたくさん見られ、この地方独自の一派を形成していると考えられるのだが、今日はそのメイン氏族ではなく、隅っこをつついてみたい。
今日、紹介するのは大分県の横尾姓情報で、
くすまるわかりサイト さん
http://www.kusu-shokokai.jp/kiyoharasiogaerimura.html
によれば、こんなことが書いてある。
大分県玖珠地方に魚返氏という氏族がおり、もともとは舎人親王からはじまる清原氏という平安時代の中堅貴族の一派であるという。
その清原氏のうち豊後清原氏というのが大分で栄えたのだが、清原より粟野・魚返・横尾・小田氏などに分かれたらしい。
実際豊後には
大分県豊後大野市千歳町新殿横尾
大分県大分市大字横尾
の地名が現在まで残っているくらい。関係あるかどうかは、調査中ということで。
基本的には、これらの氏族は佐賀系とは別だと思われ。
豊後清原氏については、こんな情報も。
豊後の城と合戦さんのサイト
http://www.oct-net.ne.jp/~moriichi/story2.html
清原正高 → 長野氏・山田氏・飯田氏 → 横尾へ
==========
実は大分県日田市には、横尾姓がたくさん現存しており、地域的にはこの流れの横尾氏が可能性が高いと思っている。
詳細ご存知の方があればぜひ!
今日、紹介するのは大分県の横尾姓情報で、
くすまるわかりサイト さん
http://www.kusu-shokokai.jp/kiyoharasiogaerimura.html
によれば、こんなことが書いてある。
大分県玖珠地方に魚返氏という氏族がおり、もともとは舎人親王からはじまる清原氏という平安時代の中堅貴族の一派であるという。
その清原氏のうち豊後清原氏というのが大分で栄えたのだが、清原より粟野・魚返・横尾・小田氏などに分かれたらしい。
実際豊後には
大分県豊後大野市千歳町新殿横尾
大分県大分市大字横尾
の地名が現在まで残っているくらい。関係あるかどうかは、調査中ということで。
基本的には、これらの氏族は佐賀系とは別だと思われ。
豊後清原氏については、こんな情報も。
豊後の城と合戦さんのサイト
http://www.oct-net.ne.jp/~moriichi/story2.html
清原正高 → 長野氏・山田氏・飯田氏 → 横尾へ
==========
実は大分県日田市には、横尾姓がたくさん現存しており、地域的にはこの流れの横尾氏が可能性が高いと思っている。
詳細ご存知の方があればぜひ!
【9-3】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~
前回までの考察で、どうやら守護地頭などの「赴任地」として
信濃・丹波ライン
のようなものがあるのではないか、ということがなんとなくわかってきた。
なぜ、このことが横尾氏のルーツに関係があるかといえば、その名もズバリ
横尾丹波守
という人物が長野にいるからである。
参考) 以前の記事
http://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
ちなみに、ここでいう「横尾丹波守」の丹波守は正式な官位ではなく、時の戦国武将たちが勝手につけたり勝手に名乗った官位なので、あまり重要ではないのだが、
長野の氏族にとって、「丹波」は特別な地域(所領)を意味していた
ことは間違いないと考えられる。
これを逆に考えると、兵庫県に存在する「横尾氏」(源氏)は、あるいは長野から何らかの事情で移住してきたのではないか?と考えることもできる。
しかし、現時点では確証がなく、状況証拠が散見されるだけなのではあるが。
========
当家横尾氏において、現在わかっていることは下記のとおりである。
①本姓は源氏であるらしい。
②家祖は天正時代に現地に来たらしい。
③その土地の近くに、信濃から来た氏族が治めた戦国時代の城がある。
④秀吉軍の侵攻により、それらの城や城主は滅亡。
⑤当家は藩政期に庄屋をしている。
これらのことと、信濃・丹波ラインを考えると以下のような仮説が考えられるのだが、いかがだろうか。
①当家横尾氏は滋野氏流源氏を称する信濃国の武家であった。
②あるいは信濃から兵庫に来た氏族の家臣であり、その当主も源氏であった。
③当主の一族は戦国武将化し、戦乱に巻き込まれたが、当家横尾氏は早々に秀吉軍に恭順。
④そこで、秀吉軍より「五三桐紋」をもらった。
⑤天正期に帰農、藩政期までにはその領地を認定され「土地持ち百姓」として庄屋の任に当たった。
これが、現在推定している当家横尾氏の動きである。
この傍証として、当家横尾氏は、播州の赤松氏の一族との姻戚関係があり、互いに嫁をもらったり、嫁を出したりしあっていることがわかっている。
伝承では、「横尾家は、古くからの家柄であるため、それに釣り合う赤松家との交流があった」とされている。
実際に婚姻関係があるのは、赤松氏の中でも播磨の辺部に位置する支流であるため、赤松本流ではないが、少なくとも
「戦国武将→帰農→土地持ち百姓(領地を有する)」
の運命を辿った氏族同士だったのではないか、と考察できるわけだ。
==========
しかし、ここで押さえておかなくてはいけない大事な点がある。
長野県の横尾氏といえば、横尾城主の「横尾采女」が有名ではあるのだが、この一族は
平氏であって源氏ではない
というところが大きく違う。
氏族の追跡(横尾氏)さんのサイト
http://tomioka.at.webry.info/201005/article_2.html
によれば、横尾丹波守は
横尾丹波守平朝臣吉信記
という名前であり、ズバリ平氏なのである。
ということは、この横尾氏は、少なくとも信濃の滋野氏・海野氏流横尾氏とは「違う氏族」だと判定できる。
少しややこしいが、信濃には
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
の2パターンが存在したというわけだ。
信濃・丹波ライン
のようなものがあるのではないか、ということがなんとなくわかってきた。
なぜ、このことが横尾氏のルーツに関係があるかといえば、その名もズバリ
横尾丹波守
という人物が長野にいるからである。
参考) 以前の記事
http://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
ちなみに、ここでいう「横尾丹波守」の丹波守は正式な官位ではなく、時の戦国武将たちが勝手につけたり勝手に名乗った官位なので、あまり重要ではないのだが、
長野の氏族にとって、「丹波」は特別な地域(所領)を意味していた
ことは間違いないと考えられる。
これを逆に考えると、兵庫県に存在する「横尾氏」(源氏)は、あるいは長野から何らかの事情で移住してきたのではないか?と考えることもできる。
しかし、現時点では確証がなく、状況証拠が散見されるだけなのではあるが。
========
当家横尾氏において、現在わかっていることは下記のとおりである。
①本姓は源氏であるらしい。
②家祖は天正時代に現地に来たらしい。
③その土地の近くに、信濃から来た氏族が治めた戦国時代の城がある。
④秀吉軍の侵攻により、それらの城や城主は滅亡。
⑤当家は藩政期に庄屋をしている。
これらのことと、信濃・丹波ラインを考えると以下のような仮説が考えられるのだが、いかがだろうか。
①当家横尾氏は滋野氏流源氏を称する信濃国の武家であった。
②あるいは信濃から兵庫に来た氏族の家臣であり、その当主も源氏であった。
③当主の一族は戦国武将化し、戦乱に巻き込まれたが、当家横尾氏は早々に秀吉軍に恭順。
④そこで、秀吉軍より「五三桐紋」をもらった。
⑤天正期に帰農、藩政期までにはその領地を認定され「土地持ち百姓」として庄屋の任に当たった。
これが、現在推定している当家横尾氏の動きである。
この傍証として、当家横尾氏は、播州の赤松氏の一族との姻戚関係があり、互いに嫁をもらったり、嫁を出したりしあっていることがわかっている。
伝承では、「横尾家は、古くからの家柄であるため、それに釣り合う赤松家との交流があった」とされている。
実際に婚姻関係があるのは、赤松氏の中でも播磨の辺部に位置する支流であるため、赤松本流ではないが、少なくとも
「戦国武将→帰農→土地持ち百姓(領地を有する)」
の運命を辿った氏族同士だったのではないか、と考察できるわけだ。
==========
しかし、ここで押さえておかなくてはいけない大事な点がある。
長野県の横尾氏といえば、横尾城主の「横尾采女」が有名ではあるのだが、この一族は
平氏であって源氏ではない
というところが大きく違う。
氏族の追跡(横尾氏)さんのサイト
http://tomioka.at.webry.info/201005/article_2.html
によれば、横尾丹波守は
横尾丹波守平朝臣吉信記
という名前であり、ズバリ平氏なのである。
ということは、この横尾氏は、少なくとも信濃の滋野氏・海野氏流横尾氏とは「違う氏族」だと判定できる。
少しややこしいが、信濃には
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
の2パターンが存在したというわけだ。
2015年6月13日土曜日
【9-2】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~
前回の続き、あまりにもいいところで終わったしまったので、今回は
丹波国と信濃国の謎の接点
について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。
==========
現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。
藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、
ウィキペディアより 松本藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9
中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。
藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、
”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”
なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。
おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。
==========
近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。
江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。
そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。
■ 千野氏
信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。
慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。
■ 丹波上原氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html
を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。
また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。
■ 園部藩小出氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html
を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。
また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f
園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。
■ 信濃村上氏
ウィキペディアより村上藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9
村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は
歴史の勉強 さんのサイト
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html
を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。
戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp
によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。
■ 氷上郡和田氏
城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/
を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。
谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。
■ 鶴牧藩水野氏
和田代官所 さんのサイト
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm
を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。
ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。
■ 荻野氏 芦田氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html
にはもっと面白いことが載っている。
”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。
また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。
==========
こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。
そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。
別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は
「兵庫から九州へ」
の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。
このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。
丹波国と信濃国の謎の接点
について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。
==========
現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。
藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、
ウィキペディアより 松本藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9
中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。
藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、
”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”
なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。
おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。
==========
近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。
江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。
そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。
■ 千野氏
信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。
慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。
■ 丹波上原氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html
を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。
また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。
■ 園部藩小出氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html
を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。
また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f
園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。
■ 信濃村上氏
ウィキペディアより村上藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9
村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は
歴史の勉強 さんのサイト
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html
を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。
戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp
によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。
■ 氷上郡和田氏
城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/
を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。
谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。
■ 鶴牧藩水野氏
和田代官所 さんのサイト
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm
を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。
ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。
■ 荻野氏 芦田氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html
にはもっと面白いことが載っている。
”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。
また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。
==========
こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。
そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。
別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は
「兵庫から九州へ」
の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。
このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。
2015年6月12日金曜日
【9】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~
どうも怪しい。
どんどん深みに入っているけれど、どうも怪しい!というのが現在の状況。
現在、兵庫県のとある地域に存在する「横尾」という名字について調査を重ねているのであるが、江戸時代の文献にはその家柄について記載があるものの、出自・ルーツについては触れていないため、基本的には他の証拠を調べまくる、ということしか方法がないわけで。
しかし、確たる証拠はまったくないのだけれど、その周辺で見え隠れするひとつの事象がたしかに存在しており、それは
長野県
に関わるものなのであーる。
このブログでも、長野県に存在する「横尾」姓については、少しだけあたりをつけたことがあるが、その段階では、点と線は直接結びついてはいない。
しかし、あやしい。あやしいったらありゃしない。
少し話を整理してみよう。兵庫県というのは、もともといくつかの旧国から成立している。
姫路近辺は「播磨国」だし、神戸近辺は「摂津国」である。真ん中あたりは「丹波国」であり、北のほうは丹波から分かれた「但馬国」であることはご承知のとおり。
現在でも、播磨・北摂・丹波・但馬などは地方名、地域名としてふだんから使われている。
ここに、突然長野県の旧国名である「信濃」が出てきたら、ふつうの人は
へ???
とハテナに包まれることだろう。 兵庫県と、長野県はそれはそれはものすごく離れている。信越地方と近畿地方、という括りで考えても、
全然地理的な接点がない
と感じるのは、現代人なら当たり前である。
歴史を知っている人なら、たとえば
「京都と福井はサバ街道で繋がっている」
とか、同様に距離が離れていたとしても
「丹波と出雲は、なるほど山陰道のメインルートだね」
とか、
「福岡と京都の関係か~。それは大宰府と都とのつながりがあるかもね」
とか、そういう風に歴史的にどんな関係性があるのかについてピン!とくるものがあってもよいわけだ。
それらと同じような考え方でみたときに、果たして「長野と兵庫にどんな関係があるというのか」が横尾一族の謎をとく鍵ではないか、と考えるのである。
では、具体的にそのミステリーの点と線をひもといてゆくことにしよう!
==========
最初からズバリ言っておくが、兵庫県と長野県のミステリーを解く中で、ポイントとなるのは旧国名で言えば
「丹波国と信濃国」
である。いろいろと精査した結果、現在の目線では兵庫と長野だが、ポイントを絞れば、播磨でも摂津でもなく
「丹波と信濃」
には、ものすごく深い縁というか接点があることがわかってきたのである!!!!!
(この節つづく)
どんどん深みに入っているけれど、どうも怪しい!というのが現在の状況。
現在、兵庫県のとある地域に存在する「横尾」という名字について調査を重ねているのであるが、江戸時代の文献にはその家柄について記載があるものの、出自・ルーツについては触れていないため、基本的には他の証拠を調べまくる、ということしか方法がないわけで。
しかし、確たる証拠はまったくないのだけれど、その周辺で見え隠れするひとつの事象がたしかに存在しており、それは
長野県
に関わるものなのであーる。
このブログでも、長野県に存在する「横尾」姓については、少しだけあたりをつけたことがあるが、その段階では、点と線は直接結びついてはいない。
しかし、あやしい。あやしいったらありゃしない。
少し話を整理してみよう。兵庫県というのは、もともといくつかの旧国から成立している。
姫路近辺は「播磨国」だし、神戸近辺は「摂津国」である。真ん中あたりは「丹波国」であり、北のほうは丹波から分かれた「但馬国」であることはご承知のとおり。
現在でも、播磨・北摂・丹波・但馬などは地方名、地域名としてふだんから使われている。
ここに、突然長野県の旧国名である「信濃」が出てきたら、ふつうの人は
へ???
とハテナに包まれることだろう。 兵庫県と、長野県はそれはそれはものすごく離れている。信越地方と近畿地方、という括りで考えても、
全然地理的な接点がない
と感じるのは、現代人なら当たり前である。
歴史を知っている人なら、たとえば
「京都と福井はサバ街道で繋がっている」
とか、同様に距離が離れていたとしても
「丹波と出雲は、なるほど山陰道のメインルートだね」
とか、
「福岡と京都の関係か~。それは大宰府と都とのつながりがあるかもね」
とか、そういう風に歴史的にどんな関係性があるのかについてピン!とくるものがあってもよいわけだ。
それらと同じような考え方でみたときに、果たして「長野と兵庫にどんな関係があるというのか」が横尾一族の謎をとく鍵ではないか、と考えるのである。
では、具体的にそのミステリーの点と線をひもといてゆくことにしよう!
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最初からズバリ言っておくが、兵庫県と長野県のミステリーを解く中で、ポイントとなるのは旧国名で言えば
「丹波国と信濃国」
である。いろいろと精査した結果、現在の目線では兵庫と長野だが、ポイントを絞れば、播磨でも摂津でもなく
「丹波と信濃」
には、ものすごく深い縁というか接点があることがわかってきたのである!!!!!
(この節つづく)
2015年4月29日水曜日
【8】 全国の「横尾」地名一覧 横尾姓のルーツ?!
今回の記事では、日本中の「横尾」という地名を列挙することで、もしかしたら「横尾姓」のルーツと関係あるかもしれない、という情報を集めてみることにした。
収集の順番は、目についたものから収録してゆくので順不同だが、お許しを。
<< 最終更新日 2016年10月20日 >>
■ 富山県下新川郡朝日町横尾
■ 長野県埴科郡坂城町南条入横尾
■ 長野県松本市安曇上高地横尾
■ 長野県小県郡真田町横尾
■ 群馬県吾妻郡中之条町横尾
■ 千葉県鴨川市横尾
■ 千葉県君津市横尾
■ 東京都青梅市沢井上分字横尾
■ 神奈川県三浦市金田横尾
■ 静岡県浜松市北区引佐町横尾
■ 静岡県浜松市横尾
■ 富山県下新川郡朝日町横尾
■ 岐阜県大野郡丹生川村横尾
■ 京都府長岡京市金ケ原横尾
■ 京都府南丹市園部町船岡横尾
■ 京都府長岡京市金ケ原横尾 横尾毘沙門堂
■ 大阪府柏原市雁多尾畑横尾
■ 兵庫県神戸市須磨区横尾
■ 兵庫県神戸市垂水区名谷町横尾
■ 兵庫県加西市北条町横尾
■ 兵庫県赤穂市有年横尾
■ 兵庫県川辺郡猪名川町槻並横尾
■ 兵庫県佐用郡佐用町奥長谷横尾
■ 岡山県岡山市横尾
■ 岡山県美作市横尾 (古くは 英田郡河会村横尾)
■ 岡山県邑久郡邑久町横尾
■ 岡山県苫田郡奥津町西谷横尾
■ 岡山県津山市横尾
■ 広島県福山市横尾町
■ 山口県宇部市東岐波横尾山
■ 鳥取県岩美郡岩美町横尾
■ 鳥取県隠岐郡都万村上那久横尾
■ 島根県益田市上黒谷横尾
■ 香川県三豊郡詫間町志々島横尾
■ 徳島県美馬市美馬町横尾
■ 徳島県阿南市椿町横尾
■ 熊本県山鹿市菊鹿町横尾
■ 熊本県熊本市北区植木町横尾
■ 大分県大分市横尾
■ 大分県豊後大野市千歳町新殿横尾
■ 大分県東国東郡姫島村横尾
■ 大分県玖珠郡玖珠町山田下横尾
■ 大分県玖珠郡九重町横尾
■ 大分県大野郡千歳村神殿横尾
■ 長崎県長崎市横尾
■ 長崎県佐世保市横尾町
■ 宮崎県都城市高崎町縄瀬字横尾
■ 宮崎県東臼杵郡椎葉村中塔横尾
■ 宮崎県都城市下長飯横尾原
■ 宮崎県東臼杵郡北方町下鹿川横尾
■ 鹿児島県出水市文化町横尾
■ 鹿児島県曽於郡志布志町横尾
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抜けているものがあれば、随時追加予定!
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