2015年6月25日木曜日

【資料】 ご先祖さまの辿り方 名字、苗字の由来 家系図 先祖調べ ルーツ 家系調査  ~参考になるサイト・資料一覧~

 この記事では、

 ご先祖さまの辿り方 名字、苗字の由来 家系図 先祖調べ ルーツ 家系調査

などについて、参考になるサイトや資料の一覧を示しておきます。


 ご先祖さまについて調べてみたい!

 一族の歴史を知りたい!

 名字の由来やルーツを知りたい!


といった時に、ぜひ参考になさってくださいね。


最終更新日 平成27年6月25日

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【家系図について参考になるサイト・資料】


  整理中


【名字・苗字について参考になるサイト・資料】


■ 『姓氏家系辞書』 太田亮 磯部甲陽堂1920


■ 『姓氏家系大辞典』3巻 太田亮 角川書店1963


 
■ 『新編姓氏家系辞書』 太田亮・丹羽基二 秋田書店1979


■ 『山口県姓氏家系大辞典』 角川書店1991


■ 『富山県姓氏家系大辞典』 角川書店1992


■ 『姓氏苗字事典』 丸山浩一 金園社1992


■ 『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店1992


■ 『宮城県姓氏家系大辞典』 角川書店1994


■ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』 角川書店1994


■ 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川書店1995


■ 『静岡県姓氏家系大辞典』 角川書店1995


■ 『全国名字辞典』 森岡浩 東京堂出版1997


■ 『新編日本姓氏辞典』 千葉琢穂編 展望社1997


■ 日本の姓氏 大総鑑』 日正出版1997


■ 『神奈川県姓氏家系大辞典』 角川書店1998


■ 『日本名字家系大事典』 森岡浩 東京堂出版2002


■ 『姓氏家系大事典』 丹羽基二 新人物往来社2002


■ 『日本家系系図大事典』 奥富敬之 東京堂出版2008


■ 『全国名字大辞典』 森岡浩 東京堂出版2011


■ 『苗字辞典』 新藤正則 湘南社2011





【家紋について参考になるサイト・資料】


■ 『家紋大図鑑』 丹羽基二 秋田書店1971


■ 『上州の苗字と家紋』 萩原進編 上毛新聞社1979


■ 『日本家紋総覧』 能坂利雄 新人物往来社1990


■ 『姓氏・地名・家紋総合辞典』 丹羽基二 新人物往来社1990


■ 『家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1995


■ 『続家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1998


■ 『日本家紋総鑑』 千鹿野茂 角川書店1993


■ 『家紋大全5116紋』 本田總一郎 梧桐書院2004


■ 『家紋の事典』 高澤等・千鹿野茂 東京堂出版2008


■ 『苗字から引く家紋の辞典』 高澤等 東京堂出版2011


■ 『寛政重修諸家譜家紋〔オンデマンド版〕』 千鹿野茂 八木書店2014



【その他】


☆藩の分限帳について☆

■  『全国諸藩分限帳総覧』
    http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

■ 『未翻刻全国諸藩分限帳リスト』
  http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7590.html


2015年6月24日水曜日

【資料】 横尾姓の記載がある分限帳 一覧


 この記事では、藩政期・江戸時代における各藩の分限帳(藩士録)について、【横尾】姓がみられるらしいものについて列記しています。


 各地の横尾さんのルーツを考える上での参考になさってください。


 ☆判明したものから掲載していますので随時更新されます。


 ☆最終更新日 平成27年6月24日



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■ 「肥前鍋島家分限帳」 青潮社1994


■ 「(肥後熊本)加藤家侍帳」 


■「

 

【資料】 横尾姓の有名人一覧 

 横尾姓の中でも、いろんな活躍をなさっている方、有名人の横尾さんをまとめてみました。

 
 随時新しい方を追加するかもしれません。



 ☆ 最終更新日 平成27年6月24日



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■ 横尾要

 プロゴルファー。

 1972年生 東京都出身。かとうれいこさんの夫なので、かとうれいこさんは、現在「横尾房江」さんだそうです(←本名)


■ 横尾香代子

 女優。

 1953年生 佐賀県出身


■ 横尾三郎

 俳優。70年代より活躍するベテラン。

 1950年生 新潟県上越市出身




■ 横尾泰輔

 NHKアナウンサー。災害・震災報道のスペシャリスト。

 1975年生 神奈川県横浜市出身



■ 横尾忠則 

 おそらく日本一有名な横尾さんの一人。美術家・グラフィックデザイナー。

 1936年生 兵庫県西脇市出身。



■ 横尾初喜

 映像作家、映画監督。

 1979年 長崎県佐世保市出身。



■ 横尾まり

 声優。 東京都出身



■ 横尾渉

 ジャニーズ事務所に所属するアイドルさんです。kis-my-ft2&舞祭組のメンバー。

 1986年生 神奈川県出身

 

2015年6月14日日曜日

【10】大分県の横尾姓情報

 九州地方の「横尾」姓というのは、いわゆる旧佐賀藩の支配領域にたくさん見られ、この地方独自の一派を形成していると考えられるのだが、今日はそのメイン氏族ではなく、隅っこをつついてみたい。


 今日、紹介するのは大分県の横尾姓情報で、


 くすまるわかりサイト さん
 http://www.kusu-shokokai.jp/kiyoharasiogaerimura.html


によれば、こんなことが書いてある。


 大分県玖珠地方に魚返氏という氏族がおり、もともとは舎人親王からはじまる清原氏という平安時代の中堅貴族の一派であるという。

 その清原氏のうち豊後清原氏というのが大分で栄えたのだが、清原より粟野・魚返・横尾・小田氏などに分かれたらしい。


 実際豊後には


大分県豊後大野市千歳町新殿横尾

大分県大分市大字横尾


の地名が現在まで残っているくらい。関係あるかどうかは、調査中ということで。



 基本的には、これらの氏族は佐賀系とは別だと思われ。






 豊後清原氏については、こんな情報も。


 豊後の城と合戦さんのサイト
 http://www.oct-net.ne.jp/~moriichi/story2.html


 清原正高 → 長野氏・山田氏・飯田氏 → 横尾へ



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 実は大分県日田市には、横尾姓がたくさん現存しており、地域的にはこの流れの横尾氏が可能性が高いと思っている。


 詳細ご存知の方があればぜひ!





【9-3】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~

 前回までの考察で、どうやら守護地頭などの「赴任地」として


 信濃・丹波ライン


のようなものがあるのではないか、ということがなんとなくわかってきた。


 なぜ、このことが横尾氏のルーツに関係があるかといえば、その名もズバリ


横尾丹波守


という人物が長野にいるからである。


 参考) 以前の記事
 http://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html



 ちなみに、ここでいう「横尾丹波守」の丹波守は正式な官位ではなく、時の戦国武将たちが勝手につけたり勝手に名乗った官位なので、あまり重要ではないのだが、


長野の氏族にとって、「丹波」は特別な地域(所領)を意味していた


ことは間違いないと考えられる。



 これを逆に考えると、兵庫県に存在する「横尾氏」(源氏)は、あるいは長野から何らかの事情で移住してきたのではないか?と考えることもできる。


 しかし、現時点では確証がなく、状況証拠が散見されるだけなのではあるが。



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 当家横尾氏において、現在わかっていることは下記のとおりである。



①本姓は源氏であるらしい。

②家祖は天正時代に現地に来たらしい。

③その土地の近くに、信濃から来た氏族が治めた戦国時代の城がある。

④秀吉軍の侵攻により、それらの城や城主は滅亡。

⑤当家は藩政期に庄屋をしている。



 これらのことと、信濃・丹波ラインを考えると以下のような仮説が考えられるのだが、いかがだろうか。



①当家横尾氏は滋野氏流源氏を称する信濃国の武家であった。

②あるいは信濃から兵庫に来た氏族の家臣であり、その当主も源氏であった。

③当主の一族は戦国武将化し、戦乱に巻き込まれたが、当家横尾氏は早々に秀吉軍に恭順。

④そこで、秀吉軍より「五三桐紋」をもらった。

⑤天正期に帰農、藩政期までにはその領地を認定され「土地持ち百姓」として庄屋の任に当たった。



 これが、現在推定している当家横尾氏の動きである。


 この傍証として、当家横尾氏は、播州の赤松氏の一族との姻戚関係があり、互いに嫁をもらったり、嫁を出したりしあっていることがわかっている。


 伝承では、「横尾家は、古くからの家柄であるため、それに釣り合う赤松家との交流があった」とされている。


 実際に婚姻関係があるのは、赤松氏の中でも播磨の辺部に位置する支流であるため、赤松本流ではないが、少なくとも


「戦国武将→帰農→土地持ち百姓(領地を有する)」


の運命を辿った氏族同士だったのではないか、と考察できるわけだ。




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 しかし、ここで押さえておかなくてはいけない大事な点がある。


 長野県の横尾氏といえば、横尾城主の「横尾采女」が有名ではあるのだが、この一族は


 平氏であって源氏ではない


というところが大きく違う。



 氏族の追跡(横尾氏)さんのサイト
http://tomioka.at.webry.info/201005/article_2.html


によれば、横尾丹波守は

横尾丹波守平朝臣吉信記

という名前であり、ズバリ平氏なのである。


 ということは、この横尾氏は、少なくとも信濃の滋野氏・海野氏流横尾氏とは「違う氏族」だと判定できる。


 少しややこしいが、信濃には


源氏の横尾氏と平氏の横尾氏


の2パターンが存在したというわけだ。




2015年6月13日土曜日

【9-2】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~

 前回の続き、あまりにもいいところで終わったしまったので、今回は


 丹波国と信濃国の謎の接点


について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。




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 現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。


 藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、



 ウィキペディアより 松本藩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9



 中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。

 藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、


”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”


なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。



 おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。


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 近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。


 江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。

 そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。




■ 千野氏

 信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。 

 慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。



■ 丹波上原氏

 播磨屋さんのサイト
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html

 を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。

また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。



■ 園部藩小出氏

 播磨屋さんのサイト
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html


 を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。


 また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f

 園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。



■ 信濃村上氏

 ウィキペディアより村上藩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9


 村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は


 歴史の勉強 さんのサイト
 http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html


を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。


 戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp


によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。



■ 氷上郡和田氏

 城郭放浪記 さんのサイト
 http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/


を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。

 谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。



■ 鶴牧藩水野氏

 和田代官所 さんのサイト
 http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm

を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。

 ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。


■ 荻野氏 芦田氏

 播磨屋さんのサイト
 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html


にはもっと面白いことが載っている。

 ”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。

 また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。



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 こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。


 そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。



 別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は


「兵庫から九州へ」

の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。



 このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。




 



2015年6月12日金曜日

【9】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~

 どうも怪しい。

 どんどん深みに入っているけれど、どうも怪しい!というのが現在の状況。


 現在、兵庫県のとある地域に存在する「横尾」という名字について調査を重ねているのであるが、江戸時代の文献にはその家柄について記載があるものの、出自・ルーツについては触れていないため、基本的には他の証拠を調べまくる、ということしか方法がないわけで。


 しかし、確たる証拠はまったくないのだけれど、その周辺で見え隠れするひとつの事象がたしかに存在しており、それは


 長野県


に関わるものなのであーる。


 このブログでも、長野県に存在する「横尾」姓については、少しだけあたりをつけたことがあるが、その段階では、点と線は直接結びついてはいない


 しかし、あやしい。あやしいったらありゃしない。




 少し話を整理してみよう。兵庫県というのは、もともといくつかの旧国から成立している。


 姫路近辺は「播磨国」だし、神戸近辺は「摂津国」である。真ん中あたりは「丹波国」であり、北のほうは丹波から分かれた「但馬国」であることはご承知のとおり。


 現在でも、播磨・北摂・丹波・但馬などは地方名、地域名としてふだんから使われている。


 ここに、突然長野県の旧国名である「信濃」が出てきたら、ふつうの人は


へ???


とハテナに包まれることだろう。 兵庫県と、長野県はそれはそれはものすごく離れている。信越地方と近畿地方、という括りで考えても、


 全然地理的な接点がない


と感じるのは、現代人なら当たり前である。



 歴史を知っている人なら、たとえば

「京都と福井はサバ街道で繋がっている」

とか、同様に距離が離れていたとしても

「丹波と出雲は、なるほど山陰道のメインルートだね」

とか、

「福岡と京都の関係か~。それは大宰府と都とのつながりがあるかもね」

とか、そういう風に歴史的にどんな関係性があるのかについてピン!とくるものがあってもよいわけだ。


 それらと同じような考え方でみたときに、果たして「長野と兵庫にどんな関係があるというのか」が横尾一族の謎をとく鍵ではないか、と考えるのである。


  では、具体的にそのミステリーの点と線をひもといてゆくことにしよう!


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 最初からズバリ言っておくが、兵庫県と長野県のミステリーを解く中で、ポイントとなるのは旧国名で言えば


「丹波国と信濃国」

である。いろいろと精査した結果、現在の目線では兵庫と長野だが、ポイントを絞れば、播磨でも摂津でもなく


「丹波と信濃」


には、ものすごく深い縁というか接点があることがわかってきたのである!!!!!


 (この節つづく)