山形県にも横尾姓は多いのだが、「東根市」というところに「横尾家(住宅)」なるものが残っていることが判明。
山形県の町並みと歴史建築 さん
http://www.dewatabi.com/murayama/higasine/yoko.html
ここにはズバリ「横尾家の先祖は、戦国時代に山形全域を支配した最上義光の家臣で、長谷堂城を任されていた志村伊豆守」と書いてある。
元和8年(1622)に最上家がお家騒動で改易になった際に土着し、「郡中総代」から明治以降も地主として続いたとのこと。
現在は酒蔵の作りになっているそうである。
==========
さて、志村伊豆守については、なんとウィキペディアに解説が!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
残念ながら「志村」氏の出自やルーツについては説明なしだが、最上家臣として活躍したようである。
2014年12月17日水曜日
2014年12月10日水曜日
【6】兵庫県の横尾家 直近のルーツ・先祖が判明!
ブログの更新があまり出来ていない間に、当家のルーツについての「下流」からの調査が随分と進んだので報告しておこう。
まず、私の実家に現存している過去帳から名前を辿ってみると、過去帳に
「源氏」
の名があることが判明。とりあえずの真偽のほどはさておき、
源姓横尾氏
なるものが存在することを、この段階では提案しておきたい。
☆このことは、後にいろいろな横尾氏のルーツを追跡する上で、一定のヒントになろうと思うので、要チェックである。☆
この過去帳の記載から考えると、「源曹軒~」なる人物は、横尾A家から出て、分家横尾B家の最先祖となったことがわかる。
残念ながら俗名の記載がなく、戒名だけなので「源曹軒~」がどのような人物なのかは、現時点では不明だが、逆に考えると当家「横尾家」について、まだその先に遡れるということでもある。
このように当家直近の先祖についてわかる資料は取り急ぎこの過去帳とお墓しかないのだが、実はお墓については、当家のみならずおなじ一族の「横尾家」全体の祖先らしき人物の墓が残されている。
それが、
この墓碑。ちょっと読みにくいと思うが、「元祖横尾正政之墓」と刻まれている。
つまり、当家を含む「横尾一族」は、この「横尾正政」を先祖として認識しており、祀ってきたということが、まず事実としてあるわけである。
さて、この墓碑、裏面にいくつか文字が刻んであるのだが、実は判別にとても苦労している。しかし、その中でちょっと注目すべき記載を発見した。
少し画像を見やすくしているが、「天正十一年」のように読める。
~~~~~~~~~~~
さて、この墓碑についての「注意点」をまとめておこう。
① この墓碑は横尾正政が生きていた時代のものではない。(もっと後代になって造られている)
② 天正十一年に何があったかが、よくわからない。
③ 仮定として「天正十一年に横尾正政が当地に居た」ということは推測できる。
より詳しいことを言えば、「元祖」とついている時点でこの墓碑は後世の子孫が祖先を祀ったものだとわかるし、何より天正時代の墓碑の形と現存する墓碑が年代的に合わないため、後世の作だと考えられるわけだ。
さらに、普通に考えれば天正十一年は横尾正政の没年だと推定できるが、あるいは「天正十一年に当地にやってきた等の説明書きが刻まれている可能性」もあるのでここは断定を避けたい。
全体としての印象は、天正十一年にこの地に存在していた横尾正政を偲んで墓碑を子孫が建てたか、あるいは古いものを改葬したものと思われる。
~~~~~~~~~~
というわけで徐々に謎が明らかになりつつある「横尾氏」のルーツであるが、いったい天正時代に何があったのか?!
続きはまた今度。
まず、私の実家に現存している過去帳から名前を辿ってみると、過去帳に
「源氏」
の名があることが判明。とりあえずの真偽のほどはさておき、
源姓横尾氏
なるものが存在することを、この段階では提案しておきたい。
☆このことは、後にいろいろな横尾氏のルーツを追跡する上で、一定のヒントになろうと思うので、要チェックである。☆
この過去帳の記載から考えると、「源曹軒~」なる人物は、横尾A家から出て、分家横尾B家の最先祖となったことがわかる。
残念ながら俗名の記載がなく、戒名だけなので「源曹軒~」がどのような人物なのかは、現時点では不明だが、逆に考えると当家「横尾家」について、まだその先に遡れるということでもある。
このように当家直近の先祖についてわかる資料は取り急ぎこの過去帳とお墓しかないのだが、実はお墓については、当家のみならずおなじ一族の「横尾家」全体の祖先らしき人物の墓が残されている。
それが、
この墓碑。ちょっと読みにくいと思うが、「元祖横尾正政之墓」と刻まれている。
つまり、当家を含む「横尾一族」は、この「横尾正政」を先祖として認識しており、祀ってきたということが、まず事実としてあるわけである。
さて、この墓碑、裏面にいくつか文字が刻んであるのだが、実は判別にとても苦労している。しかし、その中でちょっと注目すべき記載を発見した。
少し画像を見やすくしているが、「天正十一年」のように読める。
~~~~~~~~~~~
さて、この墓碑についての「注意点」をまとめておこう。
① この墓碑は横尾正政が生きていた時代のものではない。(もっと後代になって造られている)
② 天正十一年に何があったかが、よくわからない。
③ 仮定として「天正十一年に横尾正政が当地に居た」ということは推測できる。
より詳しいことを言えば、「元祖」とついている時点でこの墓碑は後世の子孫が祖先を祀ったものだとわかるし、何より天正時代の墓碑の形と現存する墓碑が年代的に合わないため、後世の作だと考えられるわけだ。
さらに、普通に考えれば天正十一年は横尾正政の没年だと推定できるが、あるいは「天正十一年に当地にやってきた等の説明書きが刻まれている可能性」もあるのでここは断定を避けたい。
全体としての印象は、天正十一年にこの地に存在していた横尾正政を偲んで墓碑を子孫が建てたか、あるいは古いものを改葬したものと思われる。
~~~~~~~~~~
というわけで徐々に謎が明らかになりつつある「横尾氏」のルーツであるが、いったい天正時代に何があったのか?!
続きはまた今度。
2014年11月8日土曜日
【5】長野県の横尾姓情報② ~横尾采女を追う~
前回たどりついた長野県の横尾城と城主横尾采女正であるが、彼自身は横尾城で戦死したらしい。
というわけで、そのあたりの事情を
山城めぐり さんのサイト ①
http://tomioka.at.webry.info/201204/article_20.html
群馬無線倶楽部 さんのサイト ②
http://www12.plala.or.jp/huv7k1/newpage5.index.html
から読み取ってみようと思う。
信州村上義清の幕下にあった横尾采女は、天文年間の「上田原の戦い」にて戦死する。しかし、その子どもである
横尾紋十郎(のちの横尾丹波)
は大桁山山麓に隠れ住み、その子孫がまた別の家に仕えながら生き延びてゆく、というわけである。
系譜を辿ると
横尾采女 - 横尾丹波守 - 横尾掃助・横尾権助・横尾帯刀
また、横尾丹波守のきょうだいに横尾飛騨守がおり、その子孫に横尾丹後がいるらしい。
おさらいだが、
大竹屋旅館さんのサイト
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
によれば、横尾采女の子供・家臣は上州へ移ったとのこと。
というわけで、そのあたりの事情を
山城めぐり さんのサイト ①
http://tomioka.at.webry.info/201204/article_20.html
群馬無線倶楽部 さんのサイト ②
http://www12.plala.or.jp/huv7k1/newpage5.index.html
から読み取ってみようと思う。
信州村上義清の幕下にあった横尾采女は、天文年間の「上田原の戦い」にて戦死する。しかし、その子どもである
横尾紋十郎(のちの横尾丹波)
は大桁山山麓に隠れ住み、その子孫がまた別の家に仕えながら生き延びてゆく、というわけである。
系譜を辿ると
横尾采女 - 横尾丹波守 - 横尾掃助・横尾権助・横尾帯刀
また、横尾丹波守のきょうだいに横尾飛騨守がおり、その子孫に横尾丹後がいるらしい。
おさらいだが、
大竹屋旅館さんのサイト
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
によれば、横尾采女の子供・家臣は上州へ移ったとのこと。
2014年7月10日木曜日
【4】長野県の横尾姓情報①
というわけで、全国の「横尾姓」について、まずはネット上からいろいろと情報を拾ってみる。
最初は
長野県上田市の横尾城
というところがあるらしいので、そこからスタート!
大竹屋旅館 さんより 長野県上田市横尾城
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
横尾城というのは、長野県上田市、真田町の「横尾神社」の北方山中にあるという。もちろん、現在は遺構が失われているが、別名「尾引城」としてちょっとした山登りができるように整備されているらしい。
横尾城城主は、宝永年間(1704~1710)の図面に「横尾采女正の城」とあるという。
ここでちょっとおさらい。宝永というのは、徳川綱吉の頃なので、これは図面が「宝永期」に描かれた、ということ。
横尾采女正さんが生きていた時代とは、ずれているので気をつけて!
このことについて
上田市文化材マップ さん
http://museum.umic.jp/map/document/dot119.html
にはもう少し詳しいことが載っている。
宝永期の図面とは「信濃国郡絵図」で、そこには「横尾采女正(よこおうねめのじょう)の城跡」と書かれているわけで、江戸時代から見て、昔のことを指していることになる。
~~~~~~~~~~
さて、では横尾采女正とは何者なのか。
岩櫃城興亡史 さんのサイト
http://www.denno2488.com/index.php?%E5%B0%BE%E5%BC%95%E5%9F%8E
にちょっと詳しい話が載っていた。
上記記事によると、横尾采女正は「葛尾城主村上義清の一族」であるという。そして、横尾采女は、村上氏とともに「上州に落ちた」という話が書かれている。
さて、横尾氏がいなくなった後に、この地を手に入れたのが真田幸隆で、「信綱寺」という当時は横尾氏の菩提寺であったであろう寺まで
フライングゲット
してしまったようなのだ。
ちなみに、さ来年のNHK大河ドラマは「真田丸」らしいので、真田氏についてもリサーチしておこう。
◇ 真田幸隆 甲斐武田氏の家臣。真田幸村のおじいちゃん。息子に真田信綱・真田昌幸がいる。
◇ 真田信綱 「信綱寺」に弔われている人。幸隆を継いで真田家当主となったが、天正3年長篠の戦いにて死去。真田家は弟の昌幸が継いだ。
◇ 真田昌幸 家康が最も恐れた男の一人で、はじめ武田氏に仕え、のち秀吉に仕えた。息子は真田幸村。
◇ 真田幸村 大阪夏の陣・冬の陣で活躍した。猿飛佐助ら真田十勇士の親分とされているが、史実はどうなんだか。
◇ 真田広之 千葉真一の弟子。アクションスター。元嫁は手塚里美。真田一族とは全く無関係。
~~~~~~~~~~
話がずれてしまったが、村上氏とともに上州へ去っていった横尾氏はいったいどうなってしまったのか。
まて次回!
最初は
長野県上田市の横尾城
というところがあるらしいので、そこからスタート!
大竹屋旅館 さんより 長野県上田市横尾城
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
横尾城というのは、長野県上田市、真田町の「横尾神社」の北方山中にあるという。もちろん、現在は遺構が失われているが、別名「尾引城」としてちょっとした山登りができるように整備されているらしい。
横尾城城主は、宝永年間(1704~1710)の図面に「横尾采女正の城」とあるという。
ここでちょっとおさらい。宝永というのは、徳川綱吉の頃なので、これは図面が「宝永期」に描かれた、ということ。
横尾采女正さんが生きていた時代とは、ずれているので気をつけて!
このことについて
上田市文化材マップ さん
http://museum.umic.jp/map/document/dot119.html
にはもう少し詳しいことが載っている。
宝永期の図面とは「信濃国郡絵図」で、そこには「横尾采女正(よこおうねめのじょう)の城跡」と書かれているわけで、江戸時代から見て、昔のことを指していることになる。
~~~~~~~~~~
さて、では横尾采女正とは何者なのか。
岩櫃城興亡史 さんのサイト
http://www.denno2488.com/index.php?%E5%B0%BE%E5%BC%95%E5%9F%8E
にちょっと詳しい話が載っていた。
上記記事によると、横尾采女正は「葛尾城主村上義清の一族」であるという。そして、横尾采女は、村上氏とともに「上州に落ちた」という話が書かれている。
さて、横尾氏がいなくなった後に、この地を手に入れたのが真田幸隆で、「信綱寺」という当時は横尾氏の菩提寺であったであろう寺まで
フライングゲット
してしまったようなのだ。
ちなみに、さ来年のNHK大河ドラマは「真田丸」らしいので、真田氏についてもリサーチしておこう。
◇ 真田幸隆 甲斐武田氏の家臣。真田幸村のおじいちゃん。息子に真田信綱・真田昌幸がいる。
◇ 真田信綱 「信綱寺」に弔われている人。幸隆を継いで真田家当主となったが、天正3年長篠の戦いにて死去。真田家は弟の昌幸が継いだ。
◇ 真田昌幸 家康が最も恐れた男の一人で、はじめ武田氏に仕え、のち秀吉に仕えた。息子は真田幸村。
◇ 真田幸村 大阪夏の陣・冬の陣で活躍した。猿飛佐助ら真田十勇士の親分とされているが、史実はどうなんだか。
◇ 真田広之 千葉真一の弟子。アクションスター。元嫁は手塚里美。真田一族とは全く無関係。
~~~~~~~~~~
話がずれてしまったが、村上氏とともに上州へ去っていった横尾氏はいったいどうなってしまったのか。
まて次回!
2014年6月24日火曜日
【3】横尾姓・横尾氏・苗字「横尾」のルーツと分布
前回、姓氏家系辞典による横尾氏について概観したところだが、では一体全国にどれくらいの「横尾」さんの分布があるのか、ということで調査してみた。
同姓同名探しと名前ランキング
というサイトで、電話帳ベースによる苗字の分布がわかるので、さっそく入力!
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&firstname=&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
検索結果は上のとおりである。
データを少し整理してみよう。
① 全国に「横尾」姓は3600軒あるらしい。
② 横尾姓が多い順位は
佐賀県 381軒
新潟県 300軒
山形県 274軒
東京都 259軒
群馬県 259軒
千葉県 227軒
福岡県 227軒
といった具合。
③ 我らが兵庫県の「横尾」姓は 97軒。少なくもないが、めちゃくちゃ多くもない。
④ 分布として目立つのは
新潟・山形 などの北の地方
東京・埼玉・群馬・千葉・神奈川 の関東地方
佐賀・長崎・福岡・大分 の九州に多く分布
そして大阪・兵庫に一定数のひろがり
~~~~~~~~~~
というわけで、上の4つの山(分布)を中心にそれぞれの氏族を見てゆくと概略はなんとなく掴めそうな気がするのだが、果たしてどうなることか。
もちろん、これらが相互に関係するのか、それともあまり関係ないのか、今の時点ではさっぱりわかっていません。
というわけで、次回へ続く!
同姓同名探しと名前ランキング
というサイトで、電話帳ベースによる苗字の分布がわかるので、さっそく入力!
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&firstname=&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
検索結果は上のとおりである。
データを少し整理してみよう。
① 全国に「横尾」姓は3600軒あるらしい。
② 横尾姓が多い順位は
佐賀県 381軒
新潟県 300軒
山形県 274軒
東京都 259軒
群馬県 259軒
千葉県 227軒
福岡県 227軒
といった具合。
③ 我らが兵庫県の「横尾」姓は 97軒。少なくもないが、めちゃくちゃ多くもない。
④ 分布として目立つのは
新潟・山形 などの北の地方
東京・埼玉・群馬・千葉・神奈川 の関東地方
佐賀・長崎・福岡・大分 の九州に多く分布
そして大阪・兵庫に一定数のひろがり
~~~~~~~~~~
というわけで、上の4つの山(分布)を中心にそれぞれの氏族を見てゆくと概略はなんとなく掴めそうな気がするのだが、果たしてどうなることか。
もちろん、これらが相互に関係するのか、それともあまり関係ないのか、今の時点ではさっぱりわかっていません。
というわけで、次回へ続く!
2014年6月19日木曜日
【2】横尾姓・横尾氏のルーツ 苗字「横尾」の出自
というわけで始まった「横尾姓」「横尾氏」「苗字・横尾」のルーツ探しの旅であるが、
まず最初にやるべきこと
というのがあるわけで。
それは、「自分の苗字のルーツを探そうとする者」にとっては必読のあの本を読むことである。
そう、太田亮大先生の「姓氏家系辞書」「姓氏家系大辞典」から、最初の知識を仕入れてみよう、というわけである。
==========
「姓氏家系辞書」(太田亮)より <注 現代語に直している>
■ 横尾氏 【清和源氏芳美氏族】 和田系図に芳美貞俊-俊家(横尾)-俊真-俊重と記載。
■ 横尾氏 【称平氏】 中村氏の末裔。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
==========
「姓氏家系大辞典」(太田亮)より <注 現代語に直している>
■ 横尾 ・・・信濃・上野などにこの地名が存在する。
1 清和源氏芳美氏族 和田系図裏書に「芳美太郎貞俊-俊家(横尾)-又二郎俊真-次郎太郎俊重-俊秦(三木彦次郎入道)」と見える。
2 上野 吾妻郡横尾邑(ムラ)より起こる。
3 滋野姓 海野氏の族にして、信濃国小縣郡横尾村より起こり、横尾城を拠点とする。岩下豊後守幸久の孫、幸兼の男幸成、横尾三郎と言い、後に但馬守と称する。この人物かと思われる。
横尾城は村上義清のために落城する。
4 平姓 中村氏の末裔。六右衛門昭平(與左衛門、行隆、享保幕臣)に至り、この氏を称する。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
5 豊後(地方) 當国の豪族で、圃田帳に「玖珠郡山田郷山階村二十五丁三段云々、地頭職小田左衛門尉重成、横尾十郎成資跡」とある。また「飯田郷恵良村云々、本庄横尾十郎成資跡」とある。
6 中国(地方) 山名家臣に横尾軍兵衛が見え、また、尼子家臣に横尾源助久盛、また因幡木下家臣に横尾氏がある。(子孫は智頭郡にいる)
7 その他 「東鑑」第27巻に横尾左近将監が載っている。また佐賀藩に横尾定(静安)がいる。同国の儒学者横尾文輔道賢は紫洋と名乗った。また仙台藩士横尾東作は南島の開拓に功績があったという。そのほか、豊前、武蔵、山城、摂津、播磨などに横尾姓が存在する。
==========
ちなみに、上記2冊は太田亮先生が亡くなってすでに50年が経過し、著作権が消滅している。(刊本としてはいずれも絶版)
ざっと概観した限りでは、「兵庫県の横尾氏」は
摂津・播磨などの横尾姓
なのかなあ、と思うが、まだまだ詳細は明らかになっていない。
当家の伝承とつき合わせてみると、阪神間に親戚が多いこと、本家の位置が播磨にも近いこと、などから上記のことを念頭に置くのだが、それだと「姓氏家系辞書・大辞典」的には
ノーマークの横尾氏
ということになる。
というわけで、さらなる調査を続行するのであった。
まず最初にやるべきこと
というのがあるわけで。
それは、「自分の苗字のルーツを探そうとする者」にとっては必読のあの本を読むことである。
そう、太田亮大先生の「姓氏家系辞書」「姓氏家系大辞典」から、最初の知識を仕入れてみよう、というわけである。
==========
「姓氏家系辞書」(太田亮)より <注 現代語に直している>
■ 横尾氏 【清和源氏芳美氏族】 和田系図に芳美貞俊-俊家(横尾)-俊真-俊重と記載。
■ 横尾氏 【称平氏】 中村氏の末裔。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
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「姓氏家系大辞典」(太田亮)より <注 現代語に直している>
■ 横尾 ・・・信濃・上野などにこの地名が存在する。
1 清和源氏芳美氏族 和田系図裏書に「芳美太郎貞俊-俊家(横尾)-又二郎俊真-次郎太郎俊重-俊秦(三木彦次郎入道)」と見える。
2 上野 吾妻郡横尾邑(ムラ)より起こる。
3 滋野姓 海野氏の族にして、信濃国小縣郡横尾村より起こり、横尾城を拠点とする。岩下豊後守幸久の孫、幸兼の男幸成、横尾三郎と言い、後に但馬守と称する。この人物かと思われる。
横尾城は村上義清のために落城する。
4 平姓 中村氏の末裔。六右衛門昭平(與左衛門、行隆、享保幕臣)に至り、この氏を称する。家紋は丸に蔓柏、丸に花沢瀉、五本骨扇に日の丸。
5 豊後(地方) 當国の豪族で、圃田帳に「玖珠郡山田郷山階村二十五丁三段云々、地頭職小田左衛門尉重成、横尾十郎成資跡」とある。また「飯田郷恵良村云々、本庄横尾十郎成資跡」とある。
6 中国(地方) 山名家臣に横尾軍兵衛が見え、また、尼子家臣に横尾源助久盛、また因幡木下家臣に横尾氏がある。(子孫は智頭郡にいる)
7 その他 「東鑑」第27巻に横尾左近将監が載っている。また佐賀藩に横尾定(静安)がいる。同国の儒学者横尾文輔道賢は紫洋と名乗った。また仙台藩士横尾東作は南島の開拓に功績があったという。そのほか、豊前、武蔵、山城、摂津、播磨などに横尾姓が存在する。
==========
ちなみに、上記2冊は太田亮先生が亡くなってすでに50年が経過し、著作権が消滅している。(刊本としてはいずれも絶版)
ざっと概観した限りでは、「兵庫県の横尾氏」は
摂津・播磨などの横尾姓
なのかなあ、と思うが、まだまだ詳細は明らかになっていない。
当家の伝承とつき合わせてみると、阪神間に親戚が多いこと、本家の位置が播磨にも近いこと、などから上記のことを念頭に置くのだが、それだと「姓氏家系辞書・大辞典」的には
ノーマークの横尾氏
ということになる。
というわけで、さらなる調査を続行するのであった。
2014年6月13日金曜日
【1】ご先祖様探し・ルーツ探しをはじめるに当って
「横尾」というちょっと変わった苗字を受け継ぐことになった私であるが、いよいよご先祖様探しに取り掛かりたい。
そこで、当家に関わる基本的事項をまずはおさらいしておこうと思う。
もちろん、現在私は、私たちの「横尾一族の本家」には住んでおらず、どちらかというと私の親は末っ子の流派なので、本家とは少し離れてしまっている。
というわけで、ここで説明する「横尾一族の拠点」というのは、現在の私が住んでいる地域とは大きく異なることを理解しておいてほしい。
まず、基本的な情報として私が知っている「横尾家」の姿とは、以下の通りである。
~~~~~~~~~~
①本家のある場所は、兵庫県のとある地域、である。
②本家は、昭和期には「農業」を営んでいたが、「林業」にも関わりがあったように聞いている。
曽祖父は山の売買なども行っていたようだ。
③家紋は「五三の桐」である。
親が言うには「秀吉の勢力が強かったところは、みんなそうじゃないの~?」と大して気に留めていない。
④本家の本家と呼ばれる一族が居て、「神戸の材木問屋だった」とかなんとか聞いている。また、別の本家筋の一族は「尼崎にいる」らしい。
⑤阪神間で「おもちゃ屋」さんをしている(ちょっとしたチェーン店)人は親戚だという。
~~~~~~~~~~
という伝承を中心にいよいよ調査開始しようと思うが、ここで一点だけお断りをしておきたい。
しょっぱなから「なんじゃそりゃ!」とつっこまれること請け合いだが、実は私の現在の姓は「横尾」ではない。
しかし、諸事情により、私の親のきょうだい、その子供達が全部で何十人もいるのだが、えらいことに、嫁いで姓がだんなさんのものとなっていたり、子供が女子ばかりだったりで、
どうやら、次の世代に「横尾」の姓を受け継ぐ者がいなくなりそうな状況
なのである。
これは、たいへんに残念なことで、特に親のきょうだいなんか「全部で6人」もいる第一次ベビーブーマーだったのに、そんなことになるなんて!と驚きを隠せないのだが、致し方ない。
そんなこともあって、ここは横尾一族の末席に座る私が、申し訳ないながら、当ブログを通じて兵庫近辺の「横尾氏」の証を残そうとする次第なのだ。
読者諸君の中で、「横尾」にゆかりのある方はぜひ、当ブログに参加していただければ、嬉しく思うこと間違いない!
ではでは。
そこで、当家に関わる基本的事項をまずはおさらいしておこうと思う。
もちろん、現在私は、私たちの「横尾一族の本家」には住んでおらず、どちらかというと私の親は末っ子の流派なので、本家とは少し離れてしまっている。
というわけで、ここで説明する「横尾一族の拠点」というのは、現在の私が住んでいる地域とは大きく異なることを理解しておいてほしい。
まず、基本的な情報として私が知っている「横尾家」の姿とは、以下の通りである。
~~~~~~~~~~
①本家のある場所は、兵庫県のとある地域、である。
②本家は、昭和期には「農業」を営んでいたが、「林業」にも関わりがあったように聞いている。
曽祖父は山の売買なども行っていたようだ。
③家紋は「五三の桐」である。
親が言うには「秀吉の勢力が強かったところは、みんなそうじゃないの~?」と大して気に留めていない。
④本家の本家と呼ばれる一族が居て、「神戸の材木問屋だった」とかなんとか聞いている。また、別の本家筋の一族は「尼崎にいる」らしい。
⑤阪神間で「おもちゃ屋」さんをしている(ちょっとしたチェーン店)人は親戚だという。
~~~~~~~~~~
という伝承を中心にいよいよ調査開始しようと思うが、ここで一点だけお断りをしておきたい。
しょっぱなから「なんじゃそりゃ!」とつっこまれること請け合いだが、実は私の現在の姓は「横尾」ではない。
しかし、諸事情により、私の親のきょうだい、その子供達が全部で何十人もいるのだが、えらいことに、嫁いで姓がだんなさんのものとなっていたり、子供が女子ばかりだったりで、
どうやら、次の世代に「横尾」の姓を受け継ぐ者がいなくなりそうな状況
なのである。
これは、たいへんに残念なことで、特に親のきょうだいなんか「全部で6人」もいる第一次ベビーブーマーだったのに、そんなことになるなんて!と驚きを隠せないのだが、致し方ない。
そんなこともあって、ここは横尾一族の末席に座る私が、申し訳ないながら、当ブログを通じて兵庫近辺の「横尾氏」の証を残そうとする次第なのだ。
読者諸君の中で、「横尾」にゆかりのある方はぜひ、当ブログに参加していただければ、嬉しく思うこと間違いない!
ではでは。
2014年6月3日火曜日
【はじめに】 ~全国の『横尾』なみなさんへ~
みなさんこんにちは
そして、全国の「横尾」さん、はじめましてこんにちは。
当ブログは、横尾一族の末裔である「横尾某」ことワタクシが、自分のご先祖さまと家系について、自由闊達に想像を巡らせた
エンターテイメント系ご先祖様探訪ブログ
です。
日本全国におられる「横尾」さんは世帯数でおおむね3500軒くらいと言われていますが、そのルーツは全て同じというわけではありません。
でも、せっかくおなじ「横尾」姓なのですから、どこかで繋がってみるのも面白いと思います。
というわけで、「横尾」なルーツ探しの旅の始まりです!
そして、全国の「横尾」さん、はじめましてこんにちは。
当ブログは、横尾一族の末裔である「横尾某」ことワタクシが、自分のご先祖さまと家系について、自由闊達に想像を巡らせた
エンターテイメント系ご先祖様探訪ブログ
です。
日本全国におられる「横尾」さんは世帯数でおおむね3500軒くらいと言われていますが、そのルーツは全て同じというわけではありません。
でも、せっかくおなじ「横尾」姓なのですから、どこかで繋がってみるのも面白いと思います。
というわけで、「横尾」なルーツ探しの旅の始まりです!
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