2015年10月26日月曜日

【20】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート7・佐賀横尾氏のルーツ!山陰系に横尾あり?!〜

 前回は、石見地方を中心にしながら



① 相模波多野氏が石見に根付いて「横尾」を名乗った例があるらしいこと。

② 石見の益田氏・吉見氏と結びついて「益田系波多野氏」「吉見系波多野氏」を生んだらしいこと。


を仮説として挙げることに成功した。


 しかし、波多野氏について読み解くならば「石見説」はよいとして「因幡説」について補完ができていないことに気付かされる。しかし、


 因幡の「波多野」はどうしていたのだろうか?


 そして、この地における「横尾」の動きは?


 今回は、このあたりに注目してお届けしよう。


==========

 さて、もういちど確認しておこう。丹波波多野氏における各説は以下のようになっている。



説①  丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)


説②  丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)


説③  波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)


説④  丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)


説⑤  因幡の国侍波多野氏(因幡志)


説⑥  因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)




 このうち、説③についてはクリアした。しかし、残りの説についてはどうだろう。


 実は


 鳥取の中世の城 さんのブログ
 http://tottorijou.skr.jp/totchiyu4.html


などにもあるように南北朝時代に鳥取に「波多野」という氏族がおり、それが日下部流や田公流と推定されることから、


その因幡の波多野氏が丹波に来た


ということを真実かこじつけかはわからないけれど、推測している、ということなのである。




 さて、丹波波多野氏の真実のルーツが、相模系なのか、日下部系なのか、そのあたりのことは誰にもわかりようがない。


 しかし、波多野敬直が「横尾は実は波多野氏である」という伝承を持っていなければ、そもそも波多野に改名したりはしないであろうから、ポイントはやはりそのあたりにあるのではなかろうか。


 前回記事では、「横尾・波多野」の点と線が石見にあることをつきとめたが、因幡や伯耆には横尾氏は存在するのであろうか?


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 ちなみに「太平記」には横尾氏は登場せず、少なくとも「太平記における波多野氏と横尾氏の関連性」は見つけられていない。


 では、因幡付近における「横尾」の動向はどうなっているのであろう。

 以下、リストアップしてみた。


① 江戸時代も後半だが、因幡鳥取藩3代藩主池田吉泰の側室が横尾氏(荘園院)であり、その娘(瑤台院・亀姫)が肥前佐賀藩6代藩主鍋島宗教(1718-1780)の婚約者になっている。


 因幡鳥取藩と佐賀藩の関係の濃さについては


 和左衛門さんのブログ
 http://hizenkoku.sagafan.jp/d2012-04.html


 にて詳細がリサーチされている。


 あるいは因幡横尾氏から「横尾姓と波多野姓の関係」が佐賀にもたらされたのかもしれないが、そこは未詳。




② 因幡国巨濃郡(岩井郡)の山名支流に「中嶋氏、一上氏、横尾氏、篠部氏など」あり。現在の岩美町「横尾の棚田」の近辺か?




③ 美作国英田郡に江見氏という一族があり、「横尾氏」と関わりがある。

 
 氏族の追跡さんのブログ
 http://tomioka.at.webry.info/201106/article_24.html


 これによると、江見氏の女性が平忠度に嫁ぎ、その子孫が横尾氏となり、信濃小県郡に入る、と繋がるそうである。

 しかし、美作と横尾にダイレクトに繋がるかどうかは不明。



④ 因幡に入った木下氏(荒木村重の家臣)が智頭郡等を秀吉から与えられ、その家臣に横尾氏がいるらしい。そのため智頭近辺に横尾姓が現存する。



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 こうしてみると、最もリアリティがありそうなのは山名から分かれ出た横尾氏が、因幡に存在したらしい、ということはわかるものの、どうにも波多野氏との接点はなさそうに思える。


 
 まとめてみると、次のまとめができそうだ。


『波多野氏は、石見系(相模より)と因幡系(地元より)の2種類存在し、横尾氏は石見系(菖蒲氏)と因幡系(山名氏)がある。そして、その両者がクロスするのは、やはり石見波多野・横尾氏においてほかはない』




 さらに重要ポイントを押さえておく。


『波多野敬直が受け継いだ、佐賀横尾氏は波多野姓であったという話が成立するためには、石見系波多野・横尾ラインが想定できる』


しかし、


『丹波波多野氏が石見系であれば、波多野敬直は、たしかに丹波波多野氏と源流を同じくするが、丹波波多野氏が因幡系であれば、波多野敬直は丹波波多野氏とつながらないかもしれない』



 いかがだろうか?少しずつ真実に近づいてきているような気がするのだが、いよいよ大団円を迎えるのであろうか?!



(まて次回。この章つづく)






2015年10月25日日曜日

【19】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート6・佐賀横尾氏のルーツ!中国地方にカギがある?〜

 前回は丹波地方の波多野氏のルーツについて調査したが、そこで気になる「因幡」という言葉が頻出していることに気付いた。


 よって、今回は因幡=鳥取地方へ飛ぼう!というわけだが、ちょっと飛びすぎて



「石見」


地方へと着陸してしまったところから始まる。


 地理が苦手なあなたのために、もう一度確認しておこう



長崎  佐賀  福岡   関門海峡   山口  島根      鳥取     兵庫   京都
肥前  肥前  筑前            長門  石見出雲   伯耆因幡  但馬 丹波


 西日本から特に山陰道ルートで京都を目指すと、現在の県名と旧国名は上のようになる。
 

 このルート、実は国道9号線として現在も残っており、古来から京と九州を結ぶ重要な道であった。



 なぜ、因幡ではなく石見なのか。その理由はすぐに判明する。



 西国の山城さんのブログ
 http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html 



を参考にすると、なかなか興味深い話が浮かび上がってくるのだ。簡単に概略を説明しよう。



 まず、島根県益田市(石見国)に「黒谷横山城という古い城があるところから話ははじまる。



 この城、鎌倉時代に菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)なる人物が、黒谷の地頭に任命されて築城されたのだが、この菖蒲氏こそ相模波多野氏の一派である菖蒲氏の一族だと考えられるのだ。


 その証拠として、この地の城主は代々「波多野」氏を名乗っている。


 ブログでは「波多野彦次郎」「波多野彦三郎」「波多野彦六郎」などの説明と、「波多野氏秀」などが存在することが紹介されている。


 中でも波多野氏秀は、もと益田氏だともされるが、この時代当地を治めたものは益田氏に属するものも、敵対する吉見氏に属するものもどちらも「波多野」を名乗っているらしく両方の系統の波多野氏が入り混じる事態になっているようだ。



 おそらくこういう考え方ができよう。鎌倉時代に本来の苗字が「波多野」である相模菖蒲氏(藤原姓)が入り、そこから「波多野」の名跡がこの地でカッコたるものとなった。


 ところがある時は石見の益田氏(藤原姓)に侵食され、またある時は石見の吉見氏(源姓)に侵食され、それぞれに付き従うように分派し、婚姻を繰り返していった結果、


「もと相模系波多野」「吉見系波多野」「益田姓波多野」


の3種類が成立していったと考えられるのである。


(この意味では、前回登場した説③


波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)


という話がにわかに真実味を帯びてくるではないか!



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 そしてここからが真骨頂である。


 黒谷横山城に居した菖蒲五郎は、「益田市誌」によれば当地に伝承の残る


 横尾右衛門


と同一人物ではないか、というのだ!!!


 仮に、同一人物ではないとしても、横尾氏が菖蒲氏つまり波多野氏と非常に近しい一族であることは容易に想像できる。


 そうなのだ。これで

 横尾=波多野ライン



が繋がったのである!!!



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 さて、石見にかなり古い時代に存在した「横尾・波多野氏」が関門海峡をこえて何故肥前佐賀へ移動したのか、については別に解説するが、問題は



「石見から因幡への波多野氏の移動」


という課題が残っている。


 ここから先は、次回を待たれよ。


(この章つづく)








2015年10月24日土曜日

【18】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート5・ついにわかった?!佐賀横尾氏のルーツ!〜

 実に面白い。


 ↑上記セリフは先日結婚なさった福山雅治さん風に読んでいただければOK!



 ・・・というわけで、すでに5回目に突入している佐賀横尾氏のルーツ孝。


佐賀の横尾氏はどこから来たのか、そして波多野氏との接点はどこにあるのか!



 今回はいよいよ、その核心に迫る回である。



 と、その前に、もう一度じっくりと確認しておきたいことがある。それは丹波波多野氏のルーツについてであるが、ここに詳細を教えてくださるサイトがあるので、まずはそこを読んでいただきたい。



 播磨屋さんのサイトから  武家家伝 波多野氏
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatano_k.html



 上記にある諸説のうち、ポイントだけを抜き出してみると、丹波波多野氏の祖先は、次のようになっている。


説①  丹波波多野氏は、因幡国の八上郡を領しており、八上殿と呼ばれていた。山名宗全率いる山名氏に従って京に上り、波多野秀長が丹波に来た。よって多紀郡の城を八上城とした。(丹波志)


説②  丹波波多野氏は相模波多野氏の義通の子孫であり、波多野経基が丹波に来た。その父義基は【伯耆(国)波多野】となり、その子経秀は【美作(国)波多野】となって、因幡・伯耆・美作の3箇所の守護となった。よってこの3家は同族で、あるとき丹波波多野家に世継ぎが絶えたので、因幡の波多野家から養子をとったのである。(籾井日記)


説③  波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)


説④  丹波豪族日下部氏の末裔、田公氏(姓氏家系大辞典)


説⑤  因幡の国侍波多野氏(因幡志)


説⑥  因幡八上郡田公氏説(姓氏家系大辞典)




 ここでちょっとややこしいが、タイムをひとつ入れておこう。


 前回の記事では、丹波多紀郡を所領としたのは「波多野秀長(ひでなが)」を挙げた。ところが、今回、波多野氏の祖として「波多野清秀(きよひで)」を挙げている。



 この2人の関係がいまいちよくわからないのが歴史上のポイントで、清秀がきちんと存在していた証拠は現存するものの、秀長については不明。


 ただし、どちらも細川勝元について丹波を領地としていることはわかっており、同一人物とされている解釈もあるようだ。


 その子、波多野元清(稙通)こそが八上城の築城者であり、結局のところ丹波波多野氏は「元清」の代から勢力が拡大している、というわけである。



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 それはさておき、上記に挙げたすべての説が、ひとつの事象を指し示していることにお気づきの方が多いに違いない。


 そう、それは



 事件は因幡で起きているんだ!!!



ということである。



 波多野秀長か元清かはよくわからないし、その原点が相模の氏族なのか丹波の氏族なのかはわからないが、



「すべての話が、何故か一旦因幡を経由している」



ということはけして偶然ではあるまい。


 丹波波多野氏が、どこかの時点で他の波多野氏の威厳を借りようと仮冒したのかもしれないが、そこに因幡を絡めることは必須だったと思われる。


 だからこそ、



 私たちは因幡に飛ばなくてはならない!!!



 のであった。



(この章さらにつづく。ごめんなさい引っ張ります^^;;



2015年10月23日金曜日

【17】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート4・波多野氏族総覧・波多野さん・波多野姓のすべて〜

 佐賀横尾氏に「もと波多野」の伝承があるらしいことは前回説明したが、ではそこにどんな謎が潜んでいるのか。

 今回は全国の「波多野姓」について考察しながら、その点と線を結んでいきたいと思う。


 そこで、全国にはどのような系統の「波多野」さんがいるのかを調査してみた。そこから肥前国との接点がありそうな波多野氏をピックアップしてみよう、というわけである。



(最新情報は2015.10.22)

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 波多野姓・波多野さん・波多野氏 完全総覧



A 波多野氏  甲斐国 藤原秀郷流(支流・子孫に【川村】【中島】【西島】)


B 波多野氏  丹波国 藤原秀郷流(支流・子孫に【酒井】【荒木】)


C 波多野氏  相模国余綾郡波多野より起こる。藤原秀郷流(支流・子孫に【松田】【渋川】【沼田】【菖蒲】)


C’ 波多野氏  尾張国 藤原秀郷流・波多野義通後裔(支流・子孫に【野間】【門奈】)


C’ 波多野氏  もと山田を称し、波多野に復姓。藤原秀郷流。波多野義通後裔


D 波多野氏  三河国 藤原秀郷流(支流・子孫に【河村】)


F 波多野氏  淡路国 日下部氏の末裔


G 波多野氏  大伴氏~佐伯氏を経て波多野氏


H 波多野氏  桓武平氏~宗氏を経て波多野氏


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 以上ざっと概観してわかる興味深いことは、特に「相模系波多野氏」など「秀郷流」の分岐がやたら多いことである。


 それぞれ拠点とする地域は全くことなるが、仮冒の可能性も含めてとにかく「秀郷流」を称する波多野氏がとても多いことから、真偽はともかく


「波多野といえば秀郷流」


という認識が古くからあったことをうかがわせる。




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 ところで、前回「丹波波多野氏」について着目したが、ウィキペディアによるとこの丹波波多野氏は



出自が不詳



と言ってよいのだそうである。



 丹波波多野氏
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
 


 説としては


① 相模波多野氏である「波多野義通」がルーツ。

② 因幡国八上郡田公氏の一族。

③ 桓武平氏より三浦氏の出。

④ 丹波国豪族の日下部氏がルーツ。


の4つの説が挙げられており、つまりはまったくわからないということである(苦笑)



 どこかで見た構図ではあるが、丹波波多野氏は、ある時期突然現れたに等しいわけで、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において


「細川勝元についた波多野秀長という武将が、丹波国多紀郡を与えられた」


ところからスタートし、とにかく因幡か相模かしらんけどどこかから来た秀長の子孫が丹波に根付いた、と続いていくのであった。




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 ところが、話を戻したいのだが、波多野をおいかけていると「横尾」は全然出てこない。このままでは果たして横尾と波多野の接点がまったく見つからないのだが、困ったものである。


 もちろん、丹波地域にも「横尾」という氏族はいるのだが、この丹波横尾氏のもっとも古い記録は天正期であり、波多野氏のほうがはるかに古く、かつ現在のところ接点が見つかっていない。


☆ちなみに丹波横尾氏は源氏であり、波多野氏は藤原氏である。



 だとすると、波多野=横尾ラインはどこにあるのか。


 その謎を解くカギとなる



 有力な可能性のある情報!



を今回探検隊は発見したのである!



(この章つづく。まて次回!)





2015年10月22日木曜日

【16】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート3・横尾=波多野姓の謎を解く〜

 前回までのパート1・パート2で、佐賀県の横尾氏の初出がおおよそ戦国期である、ということまではわかってきた。


 そして、おそらくその子孫だと思われる各横尾姓の人物が、「北肥戦誌」などにもたびたび登場し、佐賀藩のみならずその支藩においても横尾姓の武士の記載がみられる、というのが現時点でわかっていることである。



 このように佐賀横尾氏の源流探しは、とりあえずここで置いておいて、今度は逆に下流から上流へと遡ってみよう、という試みを提案したい。


 というのも佐賀藩の関係者でこんな人物がいるからである。


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波多野敬直
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%Aえ2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4


 佐賀藩には3つの支藩があり、それぞれ蓮池・小城・鹿島藩という。波多野敬直は明治大正期の子爵であり、もともとは小城藩士であった。


 
 興味深いことに、この「波多野氏」は小城藩時代には「横尾姓」を名乗っており、ところがこの一族には


「横尾は本来【波多野】という姓であり、それにより波多野に姓を戻す」


という伝承があったことで波多野氏になった、というのである。


 さて、波多野敬直は

”丹波の戦国武将である波多野氏の一族・波多野宗高の末裔にあたる。”

として波多野に複姓している。


 これが、佐賀横尾氏のルーツと関係あるのではないか、とがぜん興味深くなってくるのである。



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 丹波波多野氏は、丹波戦国期を知るものには有名な一族で、篠山市の八上城を拠点に丹波地域で勢力を振るっていた。


 波多野宗高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%AB%98


 宗高はその一族の武将であり、「丹波鬼」と呼ばれた勇猛な人物であったらしい。


 ところが、佐賀における横尾氏の初出は1545年であり、波多野宗高の存命期間は1511~1570(あるいは1582)であることを考えると



 完全に同時代の人たち


ということになる。


 これはどういうことかといえば、波多野敬直が宗高の子孫になるためには、波多野宗高が丹波で周囲の氏族と戦いまくっている時に、


 誰か1人、宗高のこどもが丹波から離脱し、肥前に移動して佐賀勢の家臣となる


ことが必要になる。



 宗高の本来のこどもは宗長というのだが、



 波多野宗長
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%95%B7



 この人物は、播磨別所氏や織田氏と戦って天正7年(1579)に滅びている。


 そのため、いくらなんでも、お兄ちゃんたちが丹波で必死になっているのに、弟のうち誰か1人が肥前に飛んでいる、というのはどうにもおかしな話だと思わざるをえない。



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 では、いったい佐賀横尾氏=波多野氏に何が起こっているのであろうか。これはもちろん、波多野敬直氏の一族にそのような伝承があったことを尊重しなくてはならないのだが、あるいは何か


「横尾と波多野をつなぐ線」


のようなものが潜んでいるのではないか、と考える。


 というわけで、次回はその謎を読み解いてゆきたい。







2015年10月20日火曜日

【15】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート2・佐賀藩と関わる横尾一族の動き〜

 現在も佐賀県に多数分布している「横尾姓」であるが、その初出を探るべく



 横尾七左衛門


なる人物について調査していたが、いよいよ結果が出てきた。


 「多久市史」を研究なさっている方から、上記人物の解説を頂いたので紹介しておこう。


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 出典 「参宮人帳」【天理大学図書館蔵】 (伊勢神宮の参詣者リスト)


天正拾年卯月十二日
四人 肥前国 多久庄
御供
銀子十二メ(文)目        石井藤七兵衛殿
同   五メ(文)目 御坊布施 同人
銀   六メ(文)目      よこ尾七左衛門尉殿
同   三メ(文)目 御坊布施 同人
脇差一ツ半御供          田中宗二郎殿
銀拾弐メ(文)目        石井九左衛門殿


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 横尾七左衛門尉は、天正10(1582)年に肥前多久にいることがわかる。当時肥前多久地域を治めていたのは、龍造寺長信で、前多久氏から梶峰城を奪って住み着いている時(2回目)、ということになろう。


 天正15年には、長信は秀吉から正式に多久藩主に任ぜられ、息子の龍造寺家久はのちに「多久安順」を名乗って後多久氏の祖となる、といった具合である。




 さて、上記史料は、天正10年にすでに多久地区に横尾氏がおり、龍造寺家臣として存在することを示すものだが、


 初出


うんぬんに関していえば、前回に北肥戦誌にて読み解いた「横尾刑部少輔広正」のほうが古いことが判明した。


 北肥戦誌は、一次資料ではなく江戸時代に書かれたものだが、少なくとも年表的には、


 天文14年(1545)


が、佐賀横尾氏の最も古い記録、となりそうである。


 しかし、これまたぶっちゃけひとくくりにすれば、簡単にまとめて次のようなことが言えそうである。



 佐賀横尾氏は、戦国時代に突然現れた


と。


 これがいったいどういうことを意味するのか、もう少し絡め手から調査してゆくことにする。




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 まず、わかったことは以下のようなポイントである。


【1】横尾刑部少輔は、天文期に川副・予賀にいて龍造寺家兼に従った。

【2】それから約三十数年後、天正期に横尾七左衛門尉は、龍造寺長信について多久にいた。

【3】同僚の武将として「田中氏」「石井氏」がいるということ。



 この中で面白いのは「石井氏」の経歴である。


 石井氏は肥前の名族であり、ウィキペディアでも詳細が書かれている。



 肥前石井氏
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
 


 これによると、石井氏は本姓藤原姓であり、下総を本拠として石井を名乗り、千葉氏の親戚となった。

 この関係で肥前千葉氏との繋がりが出来、下総から肥前へと移住するのだが、肥前千葉氏の衰退とともに龍造寺との結びつきが強くなってゆく、という流れになっている。


 戦国時代には龍造寺隆信のもと、家臣第三位の領地を持ち(鍋島・納富に次ぐ)、当然鍋島氏とも結びつきが強くなってゆく。



 前回、千葉氏の動向についても着目したが、このあたりも大いに目が離せそうにない。



(この章つづく)
 


2015年10月19日月曜日

【14】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート1・謎の士族「横尾氏」〜

 日本中の横尾姓について追いかけているところだが、今回からその中でもトップクラスの世帯数を誇る


 佐賀横尾一族


のルーツについて、綿密な調査を繰り広げてゆきたいと思う。


 名前ランキングさんのサイト
 http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD


によると、381世帯の佐賀横尾氏はもちろんトップ。名字研究の上では、上越や長野の横尾氏族については判明していることが多いものの、佐賀横尾氏はまだ「詳細不明」であり、よくわかっていないのが実状である。


 そんな佐賀横尾氏族のルーツについて、一石を投じようというのがこれから始まる冒険・探検の記事である。


 しばらく連載が続くことになろうが、ぜひ楽しんでいただきたい。



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 さて、そもそも佐賀やその周辺の福岡など、北部九州の「横尾姓」はどのような状況なのか、確認しておこう。


 歴史的に見て、最も古いと考えられる「横尾姓人物」は、佐賀県立図書館の人名検索システムによれば



「横尾七左衛門」



なる人物だと結果が挙がってくるのだが、現在彼については詳細を調査中なので、しばらく結果をお待ちいただきたい。



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 さて、佐賀の歴史において「横尾」姓の人物が、活躍し始めるのは、戦国時代のことである。

北部九州の歴史書である「北肥戦誌」にも、たくさんの横尾姓の人物が記載され、その一部が佐賀藩士として後の世に続いてゆくことになるのだが、その中でもっとも古いものは、


 横尾刑部少輔広正


のようである。



 時は天文十四(1545)年、佐賀の戦国武将龍造寺家兼は、主君少弐資元が大内氏から攻撃された際に助けようとしなかったとして批難され、少弐家臣にして傍流の馬場頼周によって息子と孫が殺され、かろうじて筑後に逃れ蒲池氏に助けを求める、という事件があった。

 そののち、筑後から佐賀に帰還する際、川副・与賀勢として龍造寺氏を出迎えたメンバーの中に横尾刑部少輔がおり、これが横尾氏の記述の初出となるわけである。


 また、龍造寺家兼は、その曾孫である龍造寺隆信らとともに、馬場を討ち、龍造寺氏を再興して隆信に後を任せ、この隆信の右腕であった鍋島信生(のちの直茂)が佐賀藩主へとつながってゆく、というのが佐賀の歴史であったりする。



 ということは、ここまでで判明する横尾氏の状況としては



① 戦国期における拠点は、佐賀の「川副・与賀近辺」


② 龍造寺氏側にいる、ということは少弐=馬場氏ラインとは敵対していた?と考えられる。


③ のち龍造寺・鍋島軍団にしっかりと付き従っている。


ということが挙げられると思う。




===========

 では、その川副周辺。戦国時代を通じてすでに龍造寺の息がかかっていることはなんとなく想像がつくが、それ以前はどうであろう。


 「川副町誌」によると、室町時代においては


 佐賀近辺は肥前千葉氏の支配下(小城・杵島・佐賀) = 千葉常胤の一族


 ならびに


 与賀・川副は今川氏の支配下 =九州探題・今川了俊の一族


がこの付近を固めていたらしい。



 ところが、応仁の乱以降戦国期に入り、今川氏が千葉氏に敗れてこのエリアも千葉配下になり、それから少弐氏の力が強くなってきて、龍造寺・高木系氏族が少弐に付き、大内氏が九州へ侵攻してくると千葉が敗れて大内の支配下になった、という。

 

 ・・・・まさに戦国!


 さて、文明18年の千葉氏分裂に当たっては、大内氏に育てられていた「千葉興常」が東千葉氏の初代となり、彼は大内氏が少弐政資を滅ぼした際、


 肥前守護代


として、肥前の管理を任されるようになる。


 この頃、千葉興常は、幼き日の神代勝利を養育しており、神代勝利はのちに佐賀の北部を手中に納めることになるわけである。




(この章つづく)




2015年10月17日土曜日

【13】島根県の横尾姓情報 謎が謎を呼ぶ九州横尾氏との関係性?!

 少し期間があいたが、島根県の「横尾姓」に関わりそうな情報が入ってきたのでリサーチ。


 西国の山城 さんのサイト
 http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html


によると、島根県益田市柏原町というところに「横山城」という戦国山城があって、その城主が、菖蒲五郎真盛(実盛)というのだが、この城のほど近くに、地区の開拓始祖として



 横尾右衛門


なる人物が墓に祀られているらしいことがわかっている。


 面白いことに「益田市誌」では、「菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことである」という説を取っているらしい。


 個人的に興味深いのは、この城の城主スジが、


波多野彦次郎、波多野彦三郎 波多野彦六郎


という波多野氏族であり、菖蒲五郎なる人物は波多野系であろうと推測できるのである。



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 なぜこの一族に着目するのか、というと、今後じっくり取り上げることになるであろう「肥前佐賀藩の横尾氏」との関係が実にミステリーだからである。



 肥前佐賀には「波多野敬直」という人物がおり、彼の来歴を見ることからこの謎解きを開始したい。



 波多野敬直
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4



 ウィキペディアによれば、佐賀小城藩に「横尾」一族がおり、その旧来の姓は「波多野」だと言う。

 ところが、この”波多野”。丹波の戦国武将の「波多野氏」の末裔であると言うが、ここには恐らく誤解がある。


 私は現在、丹波地域の苗字を調査中であるが、もちろん「波多野さん」の知り合いもたくさんいるものの、残念ながら波多野氏と佐賀の関係性は見つかっていない。


 つまり、波多野敬直が横尾から波多野に改姓した原点は、「もとは波多野であった」という伝承に基づいているものの、それは「丹波波多野ではないのに誤解した」可能性が高いのである。



 では、真実はどこにあるのか。


 その一つの仮説が、この「島根横尾=波多野ライン」ではないのか?


  まずは、島根益田に根付いた「益田氏」の系統を見ていただきたい。




 益田氏
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%B0%8F



 これによれば、室町時代の時点で、益田から波多野に改姓している支流があることがわかる。

 そして、その直後、益田兼堯は、周防の守護大名「大内盛見」について九州へと参戦しているのである。


 このあたりから歴史に詳しい人ならご存知の通り、大内一族は九州へ進出し



大内氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F



周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護



を務めることになるわけである。



 この流れを俯瞰すると、島根の益田氏の一派である波多野氏(横尾氏)は、大内氏に属して九州へ転戦し、北部九州に何らかの形で根付くことになるという仮説が生まれる。



 もっとズバリで言えば、大内氏代13代「大内教弘」の時代には、少弐氏と敵対して



 大内教弘
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%95%99%E5%BC%98




 なんと肥前守護を任官しているのである。

まさにズバリ、佐賀と島根波多野氏がつながった瞬間ではないか?!




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 これまた興味深いことに、佐賀藩の横尾姓は、戦国期においてはじめて突然登場する。これはおそらく、室町末期に取り残された島根系波多野=横尾氏の一派であることの傍証なのではないか、というわけである(^^


 ある情報で、「佐賀藩士の末裔の横尾氏は、本姓藤原氏である」というデータを掴んでいるのだが、


 益田氏は、本姓藤原氏


なのだ!!




 というわけで、このあたりをズビズバと調査すべく、ネタは佐賀へと移動するのであった!!