現在も佐賀県に多数分布している「横尾姓」であるが、その初出を探るべく
横尾七左衛門
なる人物について調査していたが、いよいよ結果が出てきた。
「多久市史」を研究なさっている方から、上記人物の解説を頂いたので紹介しておこう。
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出典 「参宮人帳」【天理大学図書館蔵】 (伊勢神宮の参詣者リスト)
天正拾年卯月十二日
四人 肥前国 多久庄
御供
銀子十二メ(文)目 石井藤七兵衛殿
同 五メ(文)目 御坊布施 同人
銀 六メ(文)目 よこ尾七左衛門尉殿
同 三メ(文)目 御坊布施 同人
脇差一ツ半御供 田中宗二郎殿
銀拾弐メ(文)目 石井九左衛門殿
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横尾七左衛門尉は、天正10(1582)年に肥前多久にいることがわかる。当時肥前多久地域を治めていたのは、龍造寺長信で、前多久氏から梶峰城を奪って住み着いている時(2回目)、ということになろう。
天正15年には、長信は秀吉から正式に多久藩主に任ぜられ、息子の龍造寺家久はのちに「多久安順」を名乗って後多久氏の祖となる、といった具合である。
さて、上記史料は、天正10年にすでに多久地区に横尾氏がおり、龍造寺家臣として存在することを示すものだが、
初出
うんぬんに関していえば、前回に北肥戦誌にて読み解いた「横尾刑部少輔広正」のほうが古いことが判明した。
北肥戦誌は、一次資料ではなく江戸時代に書かれたものだが、少なくとも年表的には、
天文14年(1545)
が、佐賀横尾氏の最も古い記録、となりそうである。
しかし、これまたぶっちゃけひとくくりにすれば、簡単にまとめて次のようなことが言えそうである。
佐賀横尾氏は、戦国時代に突然現れた
と。
これがいったいどういうことを意味するのか、もう少し絡め手から調査してゆくことにする。
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まず、わかったことは以下のようなポイントである。
【1】横尾刑部少輔は、天文期に川副・予賀にいて龍造寺家兼に従った。
【2】それから約三十数年後、天正期に横尾七左衛門尉は、龍造寺長信について多久にいた。
【3】同僚の武将として「田中氏」「石井氏」がいるということ。
この中で面白いのは「石井氏」の経歴である。
石井氏は肥前の名族であり、ウィキペディアでも詳細が書かれている。
肥前石井氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
これによると、石井氏は本姓藤原姓であり、下総を本拠として石井を名乗り、千葉氏の親戚となった。
この関係で肥前千葉氏との繋がりが出来、下総から肥前へと移住するのだが、肥前千葉氏の衰退とともに龍造寺との結びつきが強くなってゆく、という流れになっている。
戦国時代には龍造寺隆信のもと、家臣第三位の領地を持ち(鍋島・納富に次ぐ)、当然鍋島氏とも結びつきが強くなってゆく。
前回、千葉氏の動向についても着目したが、このあたりも大いに目が離せそうにない。
(この章つづく)
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