2015年10月20日火曜日

【15】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート2・佐賀藩と関わる横尾一族の動き〜

 現在も佐賀県に多数分布している「横尾姓」であるが、その初出を探るべく



 横尾七左衛門


なる人物について調査していたが、いよいよ結果が出てきた。


 「多久市史」を研究なさっている方から、上記人物の解説を頂いたので紹介しておこう。


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 出典 「参宮人帳」【天理大学図書館蔵】 (伊勢神宮の参詣者リスト)


天正拾年卯月十二日
四人 肥前国 多久庄
御供
銀子十二メ(文)目        石井藤七兵衛殿
同   五メ(文)目 御坊布施 同人
銀   六メ(文)目      よこ尾七左衛門尉殿
同   三メ(文)目 御坊布施 同人
脇差一ツ半御供          田中宗二郎殿
銀拾弐メ(文)目        石井九左衛門殿


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 横尾七左衛門尉は、天正10(1582)年に肥前多久にいることがわかる。当時肥前多久地域を治めていたのは、龍造寺長信で、前多久氏から梶峰城を奪って住み着いている時(2回目)、ということになろう。


 天正15年には、長信は秀吉から正式に多久藩主に任ぜられ、息子の龍造寺家久はのちに「多久安順」を名乗って後多久氏の祖となる、といった具合である。




 さて、上記史料は、天正10年にすでに多久地区に横尾氏がおり、龍造寺家臣として存在することを示すものだが、


 初出


うんぬんに関していえば、前回に北肥戦誌にて読み解いた「横尾刑部少輔広正」のほうが古いことが判明した。


 北肥戦誌は、一次資料ではなく江戸時代に書かれたものだが、少なくとも年表的には、


 天文14年(1545)


が、佐賀横尾氏の最も古い記録、となりそうである。


 しかし、これまたぶっちゃけひとくくりにすれば、簡単にまとめて次のようなことが言えそうである。



 佐賀横尾氏は、戦国時代に突然現れた


と。


 これがいったいどういうことを意味するのか、もう少し絡め手から調査してゆくことにする。




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 まず、わかったことは以下のようなポイントである。


【1】横尾刑部少輔は、天文期に川副・予賀にいて龍造寺家兼に従った。

【2】それから約三十数年後、天正期に横尾七左衛門尉は、龍造寺長信について多久にいた。

【3】同僚の武将として「田中氏」「石井氏」がいるということ。



 この中で面白いのは「石井氏」の経歴である。


 石井氏は肥前の名族であり、ウィキペディアでも詳細が書かれている。



 肥前石井氏
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
 


 これによると、石井氏は本姓藤原姓であり、下総を本拠として石井を名乗り、千葉氏の親戚となった。

 この関係で肥前千葉氏との繋がりが出来、下総から肥前へと移住するのだが、肥前千葉氏の衰退とともに龍造寺との結びつきが強くなってゆく、という流れになっている。


 戦国時代には龍造寺隆信のもと、家臣第三位の領地を持ち(鍋島・納富に次ぐ)、当然鍋島氏とも結びつきが強くなってゆく。



 前回、千葉氏の動向についても着目したが、このあたりも大いに目が離せそうにない。



(この章つづく)
 


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