丹波横尾氏のルーツについて、一気に解明が進んだ前回だが、家紋について補足しておきたい。
当家横尾氏の家紋は、「五三桐」の桐紋である。十大家紋にも入っているのでポピュラーな家紋ではあるのだが、うちの親族の重鎮である叔母からは、
「豊臣秀吉にもらったんちゃう?」
という話を聞かされていた。
たしかに、戦国期において、豊臣秀吉は恩賞として「桐紋」の使用をけっこう許可していたので、そうしたこともあるだろうとぼんやり考えていたが、だとすれば、天正前後において「丹波攻め」などで一定の功績があったか、丹波侵攻の武将(たとえば光秀など)との「絡み」があってしかるべきだろう、なんてことも思っていた。
横尾四郎太夫(大夫)が、天正11年に死んだのであれば、旧来の丹波の支配者からではなく、織田方から一定の許可を得ていなければ話が合わない。
三木城攻めは天正6年、八上城が落ちたのは天正7年である。
和田の岩尾城が落ちたのも天正7年であり、おおむねこの前後に集中している。
岩尾城の話で言えば、天正14年に木戸十乗坊(佐野下総守)が入っており、天正11年はちょうどその間のすっぽぬけた時期とも言える。
木戸十乗坊は近江の人で、滋賀県大津市の木戸城に「佐野秀方」が確認できる。
https://masakishibata.wordpress.com/2015/09/12/kido/
この人物は、前田玄以の家臣・光秀配下などを経て、豊臣方となったようだ。
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さて、当初、丹波横尾氏の出自がまったく不明のおりには、この木戸氏や佐野氏などに従って、和田城下にやってきたものか?という推測をしていた。
あるいはそれより以前の信濃出身「谷氏」(和田氏)の家臣だったのか?とも考えた。たしかに信濃には「横尾」の氏族がいるから、その想定はありえないわけではなかったのである。
しかし、谷氏や木戸氏うんぬんはともかく、丹波は秀吉の支配下になったのであるから、そこでもし功績があれば、「桐紋」くらいは貰っていても不思議ではない、というのが当初の仮説であったわけだ。
ところが、結果的にはまったく違う。家紋の由来はもっとそのものズバリで、「当初から、五三桐を使っていた」と考えて差し支えなさそうなのだ。
なぜなら、赤松氏の家紋は「三つ巴/五三桐(五七桐)/両引」だからである!!
赤松氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
ウィキペディアにも桐紋(五七桐)のことは少し載っている。その詳細は、播磨屋さんのサイトに詳しい。
赤松氏の家紋
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.html
”『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。”
つまり、朝廷から桐紋を賜り、将軍から両引紋を賜った、とされており、のちに巴紋も用いたというのである。
余談ながら、丹波横尾氏と通婚があった多可郡野間の赤松氏は「三つ巴」紋を用いている。これは私から見ても叔父の家紋が三つ巴であり、墓所も確認しているので間違いない。
こうした事情を総合して考えると、
丹波横尾氏の桐紋は、赤松氏を示す
ということになる。 結果的には、まったくもって教科書通りのような、家紋の由来だったというわけだ。秀吉は関係なく、元から桐紋だったというのが真実だろう。
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