2015年10月19日月曜日

【14】佐賀県の横尾姓を追え! 〜パート1・謎の士族「横尾氏」〜

 日本中の横尾姓について追いかけているところだが、今回からその中でもトップクラスの世帯数を誇る


 佐賀横尾一族


のルーツについて、綿密な調査を繰り広げてゆきたいと思う。


 名前ランキングさんのサイト
 http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%A8%AA%E5%B0%BE&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD


によると、381世帯の佐賀横尾氏はもちろんトップ。名字研究の上では、上越や長野の横尾氏族については判明していることが多いものの、佐賀横尾氏はまだ「詳細不明」であり、よくわかっていないのが実状である。


 そんな佐賀横尾氏族のルーツについて、一石を投じようというのがこれから始まる冒険・探検の記事である。


 しばらく連載が続くことになろうが、ぜひ楽しんでいただきたい。



==========

 さて、そもそも佐賀やその周辺の福岡など、北部九州の「横尾姓」はどのような状況なのか、確認しておこう。


 歴史的に見て、最も古いと考えられる「横尾姓人物」は、佐賀県立図書館の人名検索システムによれば



「横尾七左衛門」



なる人物だと結果が挙がってくるのだが、現在彼については詳細を調査中なので、しばらく結果をお待ちいただきたい。



==========

 さて、佐賀の歴史において「横尾」姓の人物が、活躍し始めるのは、戦国時代のことである。

北部九州の歴史書である「北肥戦誌」にも、たくさんの横尾姓の人物が記載され、その一部が佐賀藩士として後の世に続いてゆくことになるのだが、その中でもっとも古いものは、


 横尾刑部少輔広正


のようである。



 時は天文十四(1545)年、佐賀の戦国武将龍造寺家兼は、主君少弐資元が大内氏から攻撃された際に助けようとしなかったとして批難され、少弐家臣にして傍流の馬場頼周によって息子と孫が殺され、かろうじて筑後に逃れ蒲池氏に助けを求める、という事件があった。

 そののち、筑後から佐賀に帰還する際、川副・与賀勢として龍造寺氏を出迎えたメンバーの中に横尾刑部少輔がおり、これが横尾氏の記述の初出となるわけである。


 また、龍造寺家兼は、その曾孫である龍造寺隆信らとともに、馬場を討ち、龍造寺氏を再興して隆信に後を任せ、この隆信の右腕であった鍋島信生(のちの直茂)が佐賀藩主へとつながってゆく、というのが佐賀の歴史であったりする。



 ということは、ここまでで判明する横尾氏の状況としては



① 戦国期における拠点は、佐賀の「川副・与賀近辺」


② 龍造寺氏側にいる、ということは少弐=馬場氏ラインとは敵対していた?と考えられる。


③ のち龍造寺・鍋島軍団にしっかりと付き従っている。


ということが挙げられると思う。




===========

 では、その川副周辺。戦国時代を通じてすでに龍造寺の息がかかっていることはなんとなく想像がつくが、それ以前はどうであろう。


 「川副町誌」によると、室町時代においては


 佐賀近辺は肥前千葉氏の支配下(小城・杵島・佐賀) = 千葉常胤の一族


 ならびに


 与賀・川副は今川氏の支配下 =九州探題・今川了俊の一族


がこの付近を固めていたらしい。



 ところが、応仁の乱以降戦国期に入り、今川氏が千葉氏に敗れてこのエリアも千葉配下になり、それから少弐氏の力が強くなってきて、龍造寺・高木系氏族が少弐に付き、大内氏が九州へ侵攻してくると千葉が敗れて大内の支配下になった、という。

 

 ・・・・まさに戦国!


 さて、文明18年の千葉氏分裂に当たっては、大内氏に育てられていた「千葉興常」が東千葉氏の初代となり、彼は大内氏が少弐政資を滅ぼした際、


 肥前守護代


として、肥前の管理を任されるようになる。


 この頃、千葉興常は、幼き日の神代勝利を養育しており、神代勝利はのちに佐賀の北部を手中に納めることになるわけである。




(この章つづく)




0 件のコメント:

コメントを投稿