しばらく期間があいたが、丹波・栗作郷を巡る氏族のルーツを辿る旅を再開しよう。
これまでの調査で判明している内容を簡単にまとめると
◆ 丹波・栗作郷は、中世以降こそ「新補地頭の久下氏」が隆盛しているが
◆ もともとは、この地で栗を作っていて、朝廷に栗を献上していた一族が勢力を持っていたと思われる。
◆ その一族を太田亮は「山畦党」と表現しているが、このブループが何者なのかは、ほかにほとんど記述が見つからないため、よくわからない。
◆ このグループに属すると思われる栗作郷近辺の氏族は【勝岡・若林・原田・植木】などの苗字で現在に続いていると推定される。
◆ 特に、このグループには「用明天皇の時代から栗作りを認められている」という伝承が共通して残っており、それは丹波地域から離れたところにいる、同族と思われる氏族にも同様に伝わっている。
ということであった。
不可思議なのは「用明天皇」についての異常なほどのこだわりで、なぜかどの氏族も「用明天皇の時代から」という点を強調した伝承があるのだが、いったいその時に何があったというのだろう。
========
そこで、改めて「用明天皇」とその周辺について調べてみよう。
用明天皇(Wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
用明天皇は585年〜587年にかけて在位した第31代の天皇であるが、実は「聖徳太子」のお父さんとしても有名である。
時代は「古墳時代」の人であるから、謎の部分も多いが、
◆ その次の第32代が崇峻天皇であり、唯一暗殺された天皇である。
◆ 息子が聖徳太子であり、第33代が推古天皇(女帝)である。聖徳太子は、推古天皇を支えた。
というあたりを補足してやると、時代背景が少し見えてくるものもあるだろう。
崇峻天皇は、蘇我馬子によって擁立されたと考えられていて、一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとするが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって暗殺されてしまう、というきな臭い時代真っ只中でもある。
そして、馬子の命令を受けた東漢駒に、崇峻天皇は暗殺されてしまうので、とにかくこの時の朝廷はヤバい意外に感想が見当たらない(苦笑)」
最終的に空位となった天皇の位についたのが、史上初の女帝である推古天皇であり、甥の聖徳太子が「皇太子」扱いで、政治を執り行った、とされている。
==========
さて、時代背景がざっくりわかったところで、用明天皇に戻ろう。用明天皇自身は、病気で亡くなっており、在位期間は短いものの、「はじめて仏法への帰依を表明した天皇」としても知られているようだ。
推古天皇から見れば、用明天皇は「同じお母さんから生まれたお兄ちゃん」にあたり、聖徳太子とも血が近かったこともよくわかる。
用明天皇の記事は、その大半が「蘇我馬子VS物部守屋」の話で占められていて、崇仏派の「蘇我氏」と廃仏派の「物部氏」の対立の中で、仏教支持に傾いたのが用明天皇であり、推古天皇であり、聖徳太子である、という雰囲気になっている。
(実際に、用明天皇の祖父は蘇我稲目であり、蘇我氏に近い系統なのである)
さて、問題はここからである。用明天皇周辺の人物を確認していて、驚いた。
それは本当に無知ゆえに驚いた!のである。
<用明天皇の男子>
第一皇子 田目皇子(多米王・豊浦皇子)
第二皇子 厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王)
第三皇子 当麻皇子(麻呂子皇子)
第四皇子 来目皇子(久米王)
第五皇子 殖栗皇子
第六皇子 茨田皇子
このほか用明天皇には女子が一人いるが、気になるのは「殖栗皇子」という名称である。
栗作郷の伝承と用明天皇が固く結びついているとした場合「栗を植える皇子」とは、いったいどういうことなのだろうか!
殖栗皇子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E6%A0%97%E7%9A%87%E5%AD%90
この人物、Wikiでもそれほど詳しく説明されているわけでもないが、
◆ 子どもに 衣縫王 がいる。
◆ 子孫は 蜷淵真人 らしい。
◆ 天武天皇の時代に「殖栗王」という人物名があるが、同一人物か不明
といったことがわかっているという。
「蘇我氏の研究」(客野 2015)では
”来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子の三人の弟がおられたが、来目皇子は来目氏、殖栗皇子は殖栗氏、茨田皇子は茨田氏が資養したらしい。来目臣は蘇我氏の枝族の一つであった。殖栗連は山城国久世郡殖栗郷に名を残す氏族で物部氏系の一族と考えられる。”
とあり、直接丹波地域との関連を示すものではなさそうだ。
というわけで、この謎解きは、まだまだ続くのであった!
0 件のコメント:
コメントを投稿