前回までの考察で、どうやら守護地頭などの「赴任地」として
信濃・丹波ライン
のようなものがあるのではないか、ということがなんとなくわかってきた。
なぜ、このことが横尾氏のルーツに関係があるかといえば、その名もズバリ
横尾丹波守
という人物が長野にいるからである。
参考) 以前の記事
http://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
ちなみに、ここでいう「横尾丹波守」の丹波守は正式な官位ではなく、時の戦国武将たちが勝手につけたり勝手に名乗った官位なので、あまり重要ではないのだが、
長野の氏族にとって、「丹波」は特別な地域(所領)を意味していた
ことは間違いないと考えられる。
これを逆に考えると、兵庫県に存在する「横尾氏」(源氏)は、あるいは長野から何らかの事情で移住してきたのではないか?と考えることもできる。
しかし、現時点では確証がなく、状況証拠が散見されるだけなのではあるが。
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当家横尾氏において、現在わかっていることは下記のとおりである。
①本姓は源氏であるらしい。
②家祖は天正時代に現地に来たらしい。
③その土地の近くに、信濃から来た氏族が治めた戦国時代の城がある。
④秀吉軍の侵攻により、それらの城や城主は滅亡。
⑤当家は藩政期に庄屋をしている。
これらのことと、信濃・丹波ラインを考えると以下のような仮説が考えられるのだが、いかがだろうか。
①当家横尾氏は滋野氏流源氏を称する信濃国の武家であった。
②あるいは信濃から兵庫に来た氏族の家臣であり、その当主も源氏であった。
③当主の一族は戦国武将化し、戦乱に巻き込まれたが、当家横尾氏は早々に秀吉軍に恭順。
④そこで、秀吉軍より「五三桐紋」をもらった。
⑤天正期に帰農、藩政期までにはその領地を認定され「土地持ち百姓」として庄屋の任に当たった。
これが、現在推定している当家横尾氏の動きである。
この傍証として、当家横尾氏は、播州の赤松氏の一族との姻戚関係があり、互いに嫁をもらったり、嫁を出したりしあっていることがわかっている。
伝承では、「横尾家は、古くからの家柄であるため、それに釣り合う赤松家との交流があった」とされている。
実際に婚姻関係があるのは、赤松氏の中でも播磨の辺部に位置する支流であるため、赤松本流ではないが、少なくとも
「戦国武将→帰農→土地持ち百姓(領地を有する)」
の運命を辿った氏族同士だったのではないか、と考察できるわけだ。
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しかし、ここで押さえておかなくてはいけない大事な点がある。
長野県の横尾氏といえば、横尾城主の「横尾采女」が有名ではあるのだが、この一族は
平氏であって源氏ではない
というところが大きく違う。
氏族の追跡(横尾氏)さんのサイト
http://tomioka.at.webry.info/201005/article_2.html
によれば、横尾丹波守は
横尾丹波守平朝臣吉信記
という名前であり、ズバリ平氏なのである。
ということは、この横尾氏は、少なくとも信濃の滋野氏・海野氏流横尾氏とは「違う氏族」だと判定できる。
少しややこしいが、信濃には
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
の2パターンが存在したというわけだ。
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