前回の続き、あまりにもいいところで終わったしまったので、今回は
丹波国と信濃国の謎の接点
について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。
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現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。
藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、
ウィキペディアより 松本藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9
中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。
藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、
”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”
なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。
おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。
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近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。
江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。
そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。
■ 千野氏
信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。
慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。
■ 丹波上原氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html
を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。
また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。
■ 園部藩小出氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html
を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。
また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f
園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。
■ 信濃村上氏
ウィキペディアより村上藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9
村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は
歴史の勉強 さんのサイト
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html
を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。
戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp
によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。
■ 氷上郡和田氏
城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/
を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。
谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。
■ 鶴牧藩水野氏
和田代官所 さんのサイト
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm
を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。
ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。
■ 荻野氏 芦田氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html
にはもっと面白いことが載っている。
”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。
また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。
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こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。
そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。
別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は
「兵庫から九州へ」
の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。
このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。
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