前回までの考察で、どうやら守護地頭などの「赴任地」として
信濃・丹波ライン
のようなものがあるのではないか、ということがなんとなくわかってきた。
なぜ、このことが横尾氏のルーツに関係があるかといえば、その名もズバリ
横尾丹波守
という人物が長野にいるからである。
参考) 以前の記事
http://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
ちなみに、ここでいう「横尾丹波守」の丹波守は正式な官位ではなく、時の戦国武将たちが勝手につけたり勝手に名乗った官位なので、あまり重要ではないのだが、
長野の氏族にとって、「丹波」は特別な地域(所領)を意味していた
ことは間違いないと考えられる。
これを逆に考えると、兵庫県に存在する「横尾氏」(源氏)は、あるいは長野から何らかの事情で移住してきたのではないか?と考えることもできる。
しかし、現時点では確証がなく、状況証拠が散見されるだけなのではあるが。
========
当家横尾氏において、現在わかっていることは下記のとおりである。
①本姓は源氏であるらしい。
②家祖は天正時代に現地に来たらしい。
③その土地の近くに、信濃から来た氏族が治めた戦国時代の城がある。
④秀吉軍の侵攻により、それらの城や城主は滅亡。
⑤当家は藩政期に庄屋をしている。
これらのことと、信濃・丹波ラインを考えると以下のような仮説が考えられるのだが、いかがだろうか。
①当家横尾氏は滋野氏流源氏を称する信濃国の武家であった。
②あるいは信濃から兵庫に来た氏族の家臣であり、その当主も源氏であった。
③当主の一族は戦国武将化し、戦乱に巻き込まれたが、当家横尾氏は早々に秀吉軍に恭順。
④そこで、秀吉軍より「五三桐紋」をもらった。
⑤天正期に帰農、藩政期までにはその領地を認定され「土地持ち百姓」として庄屋の任に当たった。
これが、現在推定している当家横尾氏の動きである。
この傍証として、当家横尾氏は、播州の赤松氏の一族との姻戚関係があり、互いに嫁をもらったり、嫁を出したりしあっていることがわかっている。
伝承では、「横尾家は、古くからの家柄であるため、それに釣り合う赤松家との交流があった」とされている。
実際に婚姻関係があるのは、赤松氏の中でも播磨の辺部に位置する支流であるため、赤松本流ではないが、少なくとも
「戦国武将→帰農→土地持ち百姓(領地を有する)」
の運命を辿った氏族同士だったのではないか、と考察できるわけだ。
==========
しかし、ここで押さえておかなくてはいけない大事な点がある。
長野県の横尾氏といえば、横尾城主の「横尾采女」が有名ではあるのだが、この一族は
平氏であって源氏ではない
というところが大きく違う。
氏族の追跡(横尾氏)さんのサイト
http://tomioka.at.webry.info/201005/article_2.html
によれば、横尾丹波守は
横尾丹波守平朝臣吉信記
という名前であり、ズバリ平氏なのである。
ということは、この横尾氏は、少なくとも信濃の滋野氏・海野氏流横尾氏とは「違う氏族」だと判定できる。
少しややこしいが、信濃には
源氏の横尾氏と平氏の横尾氏
の2パターンが存在したというわけだ。
2015年6月14日日曜日
2015年6月13日土曜日
【9-2】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~
前回の続き、あまりにもいいところで終わったしまったので、今回は
丹波国と信濃国の謎の接点
について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。
==========
現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。
藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、
ウィキペディアより 松本藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9
中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。
藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、
”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”
なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。
おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。
==========
近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。
江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。
そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。
■ 千野氏
信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。
慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。
■ 丹波上原氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html
を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。
また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。
■ 園部藩小出氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html
を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。
また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f
園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。
■ 信濃村上氏
ウィキペディアより村上藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9
村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は
歴史の勉強 さんのサイト
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html
を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。
戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp
によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。
■ 氷上郡和田氏
城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/
を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。
谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。
■ 鶴牧藩水野氏
和田代官所 さんのサイト
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm
を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。
ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。
■ 荻野氏 芦田氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html
にはもっと面白いことが載っている。
”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。
また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。
==========
こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。
そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。
別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は
「兵庫から九州へ」
の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。
このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。
丹波国と信濃国の謎の接点
について、どんどん状況証拠を挙げていきたい。ぜひ、みなさんもこのミステリーを考えてみてほしい。
==========
現代の側から歴史を紐解いてゆくと、まずはこんな事実が挙げられる。
藩政時代、信濃(松本)藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったのだが、
ウィキペディアより 松本藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%97%A9
中でも、戸田松平家では、「丹波守」(たんばのかみ)を受領している藩主がたくさんいる。
藩主となった戸田松平氏のうち「丹波守」となったのは、合計9人、
”「追分節」のザレ唄の中に「松本丹波の糞丹波 糞といわれても銭ださぬ」というものがあり、参勤交代の道中での松本藩主松平丹波守の吝嗇ぶりが歌われている。”
なんてことがウィキに載っているとおり、松本藩の藩主はすなわち丹波守である、という一般認識も生じていたのである。
おなじ、松本藩主に水野氏も存在するが、この水野氏も信濃だけでなく、丹波にも所領があり、ここでも藩政における信濃・丹波ラインが存在することがわかるのである。
==========
近世江戸時代における信濃・丹波の接点は、どうして生じたのか?より古い時代へと目を向けてみよう。
江戸時代というのは徳川家の采配によって大名は各地へ赴任させられたのだが、その割り振りにはまったく意味がないわけではない。そこには、どうしても各氏族の「本領」(本来の領地)が尊重されている部分があるし、中世の土地支配理論が継承されている場合が多い。
そこで、今度は中世氏族に目を向けて、戦国時代やそれ以前の信濃と丹波の接点を探ってみたい。
■ 千野氏
信濃諏訪地方に、諏訪氏の末と言われる千野氏がいるが、彼らは江戸時代には諏訪藩の重臣となっている。
慶長時代、諏訪頼水の家臣に千野丹波守房清がおり、千野氏は鎌倉時代から続く古い家柄である。
■ 丹波上原氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_ueha.html
を参考にすれば、応仁の乱ごろに丹波に突然現れて勢力を振るった上原氏は、源頼朝より丹波国何鹿郡の土地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡に来たらしい。
また、『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領したという記述もあり、信濃人である上原氏が丹波国に赴任したことは間違いないと思われる。
■ 園部藩小出氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koide_k.html
を参考にすると、丹波園部藩を治めた小出氏も信濃国伊那郡が本貫地であるらしい。慶長時代より秀吉から但馬出石や播磨龍野を受領し、丹波園部に移った者が園部藩を立藩している。
また国立国会図書館の資料を参考にすれば、
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007281793-00?ar=4e1f
園部藩主小出氏は「小出信濃守」という官位なのがわかる。
■ 信濃村上氏
ウィキペディアより村上藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9
村上藩は越後国であるが、その藩主となった村上氏は、どうやら信濃村上氏の出である可能性が高い。ところが、この一族のうち、村上氏は
歴史の勉強 さんのサイト
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-murakami.html
を参考にすれば、丹波篠山へ流罪になっている。
戦国時代をおいかけて さんのサイト
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-364.html?sp
によれば、供養塔まで丹波にあるらしい。
■ 氷上郡和田氏
城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/iwao-jyo/
を参考にすれば、丹波国氷上郡和田は信濃国南和田より、谷氏が地頭として入ったことに由来するという。
谷氏のあとを継いだ和田氏も信濃より来ており、和田日向守を称した。
■ 鶴牧藩水野氏
和田代官所 さんのサイト
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/wadadaikan/wadadaikan.htm
を参考にすれば、上記の氷上郡和田氏の所領であった地域は、藩政時代には「鶴牧藩水野氏」の領地になっていることがわかる。
ところが面白いことに、この時水野氏に与えられたのはなぜか「信濃で5000石、丹波で2000石」となっている。いくら飛び地の領地だとしても、なぜ信濃と丹波なのか。
■ 荻野氏 芦田氏
播磨屋さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_02.html
にはもっと面白いことが載っている。
”芦田まなだよ”で有名な(←そっちはモノマネ)の芦田氏や荻野氏は丹波でも多数の子孫を有する名族であるが、芦田氏は平安時代末に源満実の三男井上家光が 信濃国芦田庄小室から丹波に来て、井上から芦田と改名したことに由来するらしい。
また荻野氏も丹波の豪族葦田・赤井氏と同族で、先祖はおなじく信濃国高井郡井上村から移り住んだ井上大炊介判官代家光だという。
==========
こうして挙げてゆくと、どうもある一定の時期において、「信濃から丹波へ入部させられた氏族」というのが多数存在するような気がしてくるのだがいかがであろう。
そして、それはかなり古い時代であり、早いもので平安時代、あるいは鎌倉時代、室町時代など守護地頭の「戦国期に入るまでのある種固定化された転勤ルート」のようなものがあったのではないか、と仮説を立てることができる。
別の例だが、戦国期以降には、たとえば福岡藩に播磨の黒田氏、久留米藩に播磨摂津の有馬氏、熊本藩に丹波の細川氏などが入部するように、戦国期以降は
「兵庫から九州へ」
の流れが確かに存在するように、それに似た「信濃・丹波ライン」があったのではないか、というわけだ。
このあたり、もっと調べて見る必要が、ありそうだ。
2015年6月12日金曜日
【9】横尾一族の謎は長野にあり? ~兵庫と長野をつなぐ謎の点と線~
どうも怪しい。
どんどん深みに入っているけれど、どうも怪しい!というのが現在の状況。
現在、兵庫県のとある地域に存在する「横尾」という名字について調査を重ねているのであるが、江戸時代の文献にはその家柄について記載があるものの、出自・ルーツについては触れていないため、基本的には他の証拠を調べまくる、ということしか方法がないわけで。
しかし、確たる証拠はまったくないのだけれど、その周辺で見え隠れするひとつの事象がたしかに存在しており、それは
長野県
に関わるものなのであーる。
このブログでも、長野県に存在する「横尾」姓については、少しだけあたりをつけたことがあるが、その段階では、点と線は直接結びついてはいない。
しかし、あやしい。あやしいったらありゃしない。
少し話を整理してみよう。兵庫県というのは、もともといくつかの旧国から成立している。
姫路近辺は「播磨国」だし、神戸近辺は「摂津国」である。真ん中あたりは「丹波国」であり、北のほうは丹波から分かれた「但馬国」であることはご承知のとおり。
現在でも、播磨・北摂・丹波・但馬などは地方名、地域名としてふだんから使われている。
ここに、突然長野県の旧国名である「信濃」が出てきたら、ふつうの人は
へ???
とハテナに包まれることだろう。 兵庫県と、長野県はそれはそれはものすごく離れている。信越地方と近畿地方、という括りで考えても、
全然地理的な接点がない
と感じるのは、現代人なら当たり前である。
歴史を知っている人なら、たとえば
「京都と福井はサバ街道で繋がっている」
とか、同様に距離が離れていたとしても
「丹波と出雲は、なるほど山陰道のメインルートだね」
とか、
「福岡と京都の関係か~。それは大宰府と都とのつながりがあるかもね」
とか、そういう風に歴史的にどんな関係性があるのかについてピン!とくるものがあってもよいわけだ。
それらと同じような考え方でみたときに、果たして「長野と兵庫にどんな関係があるというのか」が横尾一族の謎をとく鍵ではないか、と考えるのである。
では、具体的にそのミステリーの点と線をひもといてゆくことにしよう!
==========
最初からズバリ言っておくが、兵庫県と長野県のミステリーを解く中で、ポイントとなるのは旧国名で言えば
「丹波国と信濃国」
である。いろいろと精査した結果、現在の目線では兵庫と長野だが、ポイントを絞れば、播磨でも摂津でもなく
「丹波と信濃」
には、ものすごく深い縁というか接点があることがわかってきたのである!!!!!
(この節つづく)
どんどん深みに入っているけれど、どうも怪しい!というのが現在の状況。
現在、兵庫県のとある地域に存在する「横尾」という名字について調査を重ねているのであるが、江戸時代の文献にはその家柄について記載があるものの、出自・ルーツについては触れていないため、基本的には他の証拠を調べまくる、ということしか方法がないわけで。
しかし、確たる証拠はまったくないのだけれど、その周辺で見え隠れするひとつの事象がたしかに存在しており、それは
長野県
に関わるものなのであーる。
このブログでも、長野県に存在する「横尾」姓については、少しだけあたりをつけたことがあるが、その段階では、点と線は直接結びついてはいない。
しかし、あやしい。あやしいったらありゃしない。
少し話を整理してみよう。兵庫県というのは、もともといくつかの旧国から成立している。
姫路近辺は「播磨国」だし、神戸近辺は「摂津国」である。真ん中あたりは「丹波国」であり、北のほうは丹波から分かれた「但馬国」であることはご承知のとおり。
現在でも、播磨・北摂・丹波・但馬などは地方名、地域名としてふだんから使われている。
ここに、突然長野県の旧国名である「信濃」が出てきたら、ふつうの人は
へ???
とハテナに包まれることだろう。 兵庫県と、長野県はそれはそれはものすごく離れている。信越地方と近畿地方、という括りで考えても、
全然地理的な接点がない
と感じるのは、現代人なら当たり前である。
歴史を知っている人なら、たとえば
「京都と福井はサバ街道で繋がっている」
とか、同様に距離が離れていたとしても
「丹波と出雲は、なるほど山陰道のメインルートだね」
とか、
「福岡と京都の関係か~。それは大宰府と都とのつながりがあるかもね」
とか、そういう風に歴史的にどんな関係性があるのかについてピン!とくるものがあってもよいわけだ。
それらと同じような考え方でみたときに、果たして「長野と兵庫にどんな関係があるというのか」が横尾一族の謎をとく鍵ではないか、と考えるのである。
では、具体的にそのミステリーの点と線をひもといてゆくことにしよう!
==========
最初からズバリ言っておくが、兵庫県と長野県のミステリーを解く中で、ポイントとなるのは旧国名で言えば
「丹波国と信濃国」
である。いろいろと精査した結果、現在の目線では兵庫と長野だが、ポイントを絞れば、播磨でも摂津でもなく
「丹波と信濃」
には、ものすごく深い縁というか接点があることがわかってきたのである!!!!!
(この節つづく)
2015年4月29日水曜日
【8】 全国の「横尾」地名一覧 横尾姓のルーツ?!
今回の記事では、日本中の「横尾」という地名を列挙することで、もしかしたら「横尾姓」のルーツと関係あるかもしれない、という情報を集めてみることにした。
収集の順番は、目についたものから収録してゆくので順不同だが、お許しを。
<< 最終更新日 2016年10月20日 >>
■ 富山県下新川郡朝日町横尾
■ 長野県埴科郡坂城町南条入横尾
■ 長野県松本市安曇上高地横尾
■ 長野県小県郡真田町横尾
■ 群馬県吾妻郡中之条町横尾
■ 千葉県鴨川市横尾
■ 千葉県君津市横尾
■ 東京都青梅市沢井上分字横尾
■ 神奈川県三浦市金田横尾
■ 静岡県浜松市北区引佐町横尾
■ 静岡県浜松市横尾
■ 富山県下新川郡朝日町横尾
■ 岐阜県大野郡丹生川村横尾
■ 京都府長岡京市金ケ原横尾
■ 京都府南丹市園部町船岡横尾
■ 京都府長岡京市金ケ原横尾 横尾毘沙門堂
■ 大阪府柏原市雁多尾畑横尾
■ 兵庫県神戸市須磨区横尾
■ 兵庫県神戸市垂水区名谷町横尾
■ 兵庫県加西市北条町横尾
■ 兵庫県赤穂市有年横尾
■ 兵庫県川辺郡猪名川町槻並横尾
■ 兵庫県佐用郡佐用町奥長谷横尾
■ 岡山県岡山市横尾
■ 岡山県美作市横尾 (古くは 英田郡河会村横尾)
■ 岡山県邑久郡邑久町横尾
■ 岡山県苫田郡奥津町西谷横尾
■ 岡山県津山市横尾
■ 広島県福山市横尾町
■ 山口県宇部市東岐波横尾山
■ 鳥取県岩美郡岩美町横尾
■ 鳥取県隠岐郡都万村上那久横尾
■ 島根県益田市上黒谷横尾
■ 香川県三豊郡詫間町志々島横尾
■ 徳島県美馬市美馬町横尾
■ 徳島県阿南市椿町横尾
■ 熊本県山鹿市菊鹿町横尾
■ 熊本県熊本市北区植木町横尾
■ 大分県大分市横尾
■ 大分県豊後大野市千歳町新殿横尾
■ 大分県東国東郡姫島村横尾
■ 大分県玖珠郡玖珠町山田下横尾
■ 大分県玖珠郡九重町横尾
■ 大分県大野郡千歳村神殿横尾
■ 長崎県長崎市横尾
■ 長崎県佐世保市横尾町
■ 宮崎県都城市高崎町縄瀬字横尾
■ 宮崎県東臼杵郡椎葉村中塔横尾
■ 宮崎県都城市下長飯横尾原
■ 宮崎県東臼杵郡北方町下鹿川横尾
■ 鹿児島県出水市文化町横尾
■ 鹿児島県曽於郡志布志町横尾
==========
抜けているものがあれば、随時追加予定!
2014年12月17日水曜日
【7】山形県の横尾姓情報
山形県にも横尾姓は多いのだが、「東根市」というところに「横尾家(住宅)」なるものが残っていることが判明。
山形県の町並みと歴史建築 さん
http://www.dewatabi.com/murayama/higasine/yoko.html
ここにはズバリ「横尾家の先祖は、戦国時代に山形全域を支配した最上義光の家臣で、長谷堂城を任されていた志村伊豆守」と書いてある。
元和8年(1622)に最上家がお家騒動で改易になった際に土着し、「郡中総代」から明治以降も地主として続いたとのこと。
現在は酒蔵の作りになっているそうである。
==========
さて、志村伊豆守については、なんとウィキペディアに解説が!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
残念ながら「志村」氏の出自やルーツについては説明なしだが、最上家臣として活躍したようである。
山形県の町並みと歴史建築 さん
http://www.dewatabi.com/murayama/higasine/yoko.html
ここにはズバリ「横尾家の先祖は、戦国時代に山形全域を支配した最上義光の家臣で、長谷堂城を任されていた志村伊豆守」と書いてある。
元和8年(1622)に最上家がお家騒動で改易になった際に土着し、「郡中総代」から明治以降も地主として続いたとのこと。
現在は酒蔵の作りになっているそうである。
==========
さて、志村伊豆守については、なんとウィキペディアに解説が!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
残念ながら「志村」氏の出自やルーツについては説明なしだが、最上家臣として活躍したようである。
2014年12月10日水曜日
【6】兵庫県の横尾家 直近のルーツ・先祖が判明!
ブログの更新があまり出来ていない間に、当家のルーツについての「下流」からの調査が随分と進んだので報告しておこう。
まず、私の実家に現存している過去帳から名前を辿ってみると、過去帳に
「源氏」
の名があることが判明。とりあえずの真偽のほどはさておき、
源姓横尾氏
なるものが存在することを、この段階では提案しておきたい。
☆このことは、後にいろいろな横尾氏のルーツを追跡する上で、一定のヒントになろうと思うので、要チェックである。☆
この過去帳の記載から考えると、「源曹軒~」なる人物は、横尾A家から出て、分家横尾B家の最先祖となったことがわかる。
残念ながら俗名の記載がなく、戒名だけなので「源曹軒~」がどのような人物なのかは、現時点では不明だが、逆に考えると当家「横尾家」について、まだその先に遡れるということでもある。
このように当家直近の先祖についてわかる資料は取り急ぎこの過去帳とお墓しかないのだが、実はお墓については、当家のみならずおなじ一族の「横尾家」全体の祖先らしき人物の墓が残されている。
それが、
この墓碑。ちょっと読みにくいと思うが、「元祖横尾正政之墓」と刻まれている。
つまり、当家を含む「横尾一族」は、この「横尾正政」を先祖として認識しており、祀ってきたということが、まず事実としてあるわけである。
さて、この墓碑、裏面にいくつか文字が刻んであるのだが、実は判別にとても苦労している。しかし、その中でちょっと注目すべき記載を発見した。
少し画像を見やすくしているが、「天正十一年」のように読める。
~~~~~~~~~~~
さて、この墓碑についての「注意点」をまとめておこう。
① この墓碑は横尾正政が生きていた時代のものではない。(もっと後代になって造られている)
② 天正十一年に何があったかが、よくわからない。
③ 仮定として「天正十一年に横尾正政が当地に居た」ということは推測できる。
より詳しいことを言えば、「元祖」とついている時点でこの墓碑は後世の子孫が祖先を祀ったものだとわかるし、何より天正時代の墓碑の形と現存する墓碑が年代的に合わないため、後世の作だと考えられるわけだ。
さらに、普通に考えれば天正十一年は横尾正政の没年だと推定できるが、あるいは「天正十一年に当地にやってきた等の説明書きが刻まれている可能性」もあるのでここは断定を避けたい。
全体としての印象は、天正十一年にこの地に存在していた横尾正政を偲んで墓碑を子孫が建てたか、あるいは古いものを改葬したものと思われる。
~~~~~~~~~~
というわけで徐々に謎が明らかになりつつある「横尾氏」のルーツであるが、いったい天正時代に何があったのか?!
続きはまた今度。
まず、私の実家に現存している過去帳から名前を辿ってみると、過去帳に
「源氏」
の名があることが判明。とりあえずの真偽のほどはさておき、
源姓横尾氏
なるものが存在することを、この段階では提案しておきたい。
☆このことは、後にいろいろな横尾氏のルーツを追跡する上で、一定のヒントになろうと思うので、要チェックである。☆
この過去帳の記載から考えると、「源曹軒~」なる人物は、横尾A家から出て、分家横尾B家の最先祖となったことがわかる。
残念ながら俗名の記載がなく、戒名だけなので「源曹軒~」がどのような人物なのかは、現時点では不明だが、逆に考えると当家「横尾家」について、まだその先に遡れるということでもある。
このように当家直近の先祖についてわかる資料は取り急ぎこの過去帳とお墓しかないのだが、実はお墓については、当家のみならずおなじ一族の「横尾家」全体の祖先らしき人物の墓が残されている。
それが、
この墓碑。ちょっと読みにくいと思うが、「元祖横尾正政之墓」と刻まれている。
つまり、当家を含む「横尾一族」は、この「横尾正政」を先祖として認識しており、祀ってきたということが、まず事実としてあるわけである。
さて、この墓碑、裏面にいくつか文字が刻んであるのだが、実は判別にとても苦労している。しかし、その中でちょっと注目すべき記載を発見した。
少し画像を見やすくしているが、「天正十一年」のように読める。
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さて、この墓碑についての「注意点」をまとめておこう。
① この墓碑は横尾正政が生きていた時代のものではない。(もっと後代になって造られている)
② 天正十一年に何があったかが、よくわからない。
③ 仮定として「天正十一年に横尾正政が当地に居た」ということは推測できる。
より詳しいことを言えば、「元祖」とついている時点でこの墓碑は後世の子孫が祖先を祀ったものだとわかるし、何より天正時代の墓碑の形と現存する墓碑が年代的に合わないため、後世の作だと考えられるわけだ。
さらに、普通に考えれば天正十一年は横尾正政の没年だと推定できるが、あるいは「天正十一年に当地にやってきた等の説明書きが刻まれている可能性」もあるのでここは断定を避けたい。
全体としての印象は、天正十一年にこの地に存在していた横尾正政を偲んで墓碑を子孫が建てたか、あるいは古いものを改葬したものと思われる。
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というわけで徐々に謎が明らかになりつつある「横尾氏」のルーツであるが、いったい天正時代に何があったのか?!
続きはまた今度。
2014年11月8日土曜日
【5】長野県の横尾姓情報② ~横尾采女を追う~
前回たどりついた長野県の横尾城と城主横尾采女正であるが、彼自身は横尾城で戦死したらしい。
というわけで、そのあたりの事情を
山城めぐり さんのサイト ①
http://tomioka.at.webry.info/201204/article_20.html
群馬無線倶楽部 さんのサイト ②
http://www12.plala.or.jp/huv7k1/newpage5.index.html
から読み取ってみようと思う。
信州村上義清の幕下にあった横尾采女は、天文年間の「上田原の戦い」にて戦死する。しかし、その子どもである
横尾紋十郎(のちの横尾丹波)
は大桁山山麓に隠れ住み、その子孫がまた別の家に仕えながら生き延びてゆく、というわけである。
系譜を辿ると
横尾采女 - 横尾丹波守 - 横尾掃助・横尾権助・横尾帯刀
また、横尾丹波守のきょうだいに横尾飛騨守がおり、その子孫に横尾丹後がいるらしい。
おさらいだが、
大竹屋旅館さんのサイト
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
によれば、横尾采女の子供・家臣は上州へ移ったとのこと。
というわけで、そのあたりの事情を
山城めぐり さんのサイト ①
http://tomioka.at.webry.info/201204/article_20.html
群馬無線倶楽部 さんのサイト ②
http://www12.plala.or.jp/huv7k1/newpage5.index.html
から読み取ってみようと思う。
信州村上義清の幕下にあった横尾采女は、天文年間の「上田原の戦い」にて戦死する。しかし、その子どもである
横尾紋十郎(のちの横尾丹波)
は大桁山山麓に隠れ住み、その子孫がまた別の家に仕えながら生き延びてゆく、というわけである。
系譜を辿ると
横尾采女 - 横尾丹波守 - 横尾掃助・横尾権助・横尾帯刀
また、横尾丹波守のきょうだいに横尾飛騨守がおり、その子孫に横尾丹後がいるらしい。
おさらいだが、
大竹屋旅館さんのサイト
http://otakeya.in.coocan.jp/siro/nagano/uedasi04.htm
によれば、横尾采女の子供・家臣は上州へ移ったとのこと。
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