2017年10月25日水曜日
【22】 丹波横尾氏の家祖、判明!~天正期の戦国武将~
兵庫県丹波市に一定の分布がある丹波横尾氏は「丹波志」にも記載がある古家である。
前回、その氏族についてのリサーチで中断していたが、
新仮説?丹波横尾氏のルーツは「山名氏」にあった?”!
https://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html
を参照されたい。
ところが、仮説を挙げたばっかりで申し訳ないのだが、本当に山名系かどうかは怪しくなってきた。
というのも、今回、調査によってこの丹波横尾氏のその地における家祖が判明したからである。
結論から言えば、その人物は、
「横尾四郎大夫正政」
という、おそらくなんらかの事情で該当エリアを領地とした戦国武将で、亡くなった日付が
「天正11年5月2日」
であることも明記されている。
この地の横尾氏は、彼より先の記録がなく、逆にいくつかの分家が、この人物を家祖として記載していることから
「横尾四郎大夫は、天正頃なんらかの事情で丹波にやってきて、そして亡くなった」
と言えるだろう。
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さて、天正時代・丹波と聞けばマニアはすぐ思い出すのだが、この時実は明智光秀によって「丹波攻め」がなされている時期と符合する。
丹波攻めのクライマックスは、天正7年の八上城陥落であり、その直後丹後も攻め落として平定、天正8年には光秀は丹波一国の主となり、亀岡と福知山に入ることはご存知の通り。
ところが、天正10年5月には、本能寺の変が起きてしまい、信長も光秀も死んでしまう。
丹波地域は、いわばすっぽりと空白地帯になっている期間に、横尾四郎大夫はなくなったというのだ。
とすればこれは戦死ではない。
むしろ、不安定ながらに一時の安定を得た時期に、彼は亡くなっている。
しかし、そうなると不可思議である。天正期を迎える前に、彼はどこかからかやってきた。そして、丹波の地に、なぜか小さな領地を得た。
はてさて、どこから来たというのだろうか。謎は深まる一方である。
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