2022年2月25日金曜日

【23】 兵庫県の横尾氏の全貌が判明した! 〜横尾氏は、赤松一族有田(在田)氏か〜

 

 前回の記事からけっこう時間が経ってしまったが、今回、「これが丹波横尾氏の真実であろう」という全貌がようやく判明したので、その解明をお届けしたい。

 

 丹波横尾氏の祖は「横尾四郎大夫正政」と記録され、天正11年5月2日に死去したことがわかっている。

 

 今回はその続報である。

 

 まずは、氷上郡で、明治期からの「奇人」ともよばれた松井拳堂が書いた「増訂丹波史年表」から引用してみる。

 

 ○小新屋村横尾正政加西郡桑原村で死す

 

 たった一行であるが、氷上郡小新屋村の「横尾正政」は、なぜか加西郡桑原村で死去していることが書かれている。


 なぜ桑原村なのか?

 なぜ加西郡なのか?


 実は挙堂は、それ以上の詳細について何も書いていないのだが、何がしかの典拠に基づいてこれを書いたのだろうと思われる。

 

 ちなみに、挙堂については

 

  松井挙堂(丹波新聞)

 https://tanba.jp/2016/07/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%8B%B3%E5%A0%82/

 

を参照されたい。

 

 さて、横尾正政については、これ以上の記述はないのだが、実はおなじ松井挙堂が書いた「丹波人物志」に興味深いことが載っていたのである。


 それは、おなじく氷上郡小新屋村に生まれた「横尾孝之亮」氏についての記述であった。

 

 横尾孝之亮は、

https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12036998131.html

などにも説明があるが、明治以降に大阪の繊維業界で活躍した大物である。(正政の子孫である)

 

 さて、拳堂の記述だ。

 

”横尾孝之亮は石山と号し、明治元年氷上郡小新屋に生れた。父は有田氏、与三郎と称した。長兄敬蔵”

 

とある。 

 この記述は、他の孝之亮のプロフィールとほぼ変わらないが、一点だけ気になることがあるのだ。

 

「現代氷上郡人物史」には、こうある。

 

”氏は明治元年9月16日、氷上郡和田村の内、小新屋生る。祖先を横尾家政と称し、数十第に渡る舊家にて夙に里人の崇敬を受く。前代を與三郎と云ひ、氏は其の次男たり”

 

*注 「家政」は「正政」の誤記なのか、それとも正政の子に「家政」がいたのか、不明。

 

 

「大日本人物名鑑」も見てみよう。

 

”君は兵庫県人横尾與三郎氏の二男にして、明治元年9月16日を以って生まれ、同30年6月家督を相続す”

 

となっている。

 

 実はこれらの記述は、すべて初期から把握していたのだが、私は個人的に大きな見落としというか、大きな勘違いをしていたらしい。

 

 というのも、私の先祖である横尾家は、播磨・野間山城(多可郡八千代町)のふもとにある赤松氏とかなり濃密な通婚があり、たとえば私の曾祖母は赤松の人間であり、また叔母は赤松に養女に行き、また赤松の妻になっているので、「有田」と聞いても、野間山の有田氏(在田氏)としか、思わなかったのである!

 

 どういうことかというと、現在の多可郡八千代区下野間の「赤松氏」は、赤松氏の分かれである「在田氏」の居城である「野間山城」のふもとに住んでいて、普通に考えれば、同族であると推定されるので、孝之亮の父が「有田氏」だと聞いても、

 

 『ああ、野間あたりから来たんだな』

 

くらいにしか思わなかったということだ。

 

 つまり、「丹波人物志」の記述をぱっと読むと、孝之亮の父親が有田から来た養子か何かではないか?と思ってしまうのは、完全にこちらサイドの早とちりだったかもしれないのだ。

 

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 さて、ここで少し冷静になって、客観的に考えてみよう。挙堂の書き方も多少誤解を生みやすい表現ではあるのだが、「横尾家は有田氏である」ということを伝えたかったのだとすれば、実は

 

 バラバラだった点と線が、すっきりと一つに繋がる!

 

のである。散らばっていたすべてのピースが、ぴったりハマるのが、

 

「横尾=有田(在田)説」

 

なのだ。


 そもそも在田氏は、私はたまたま「野間山城」の在田・有田を思い浮かべてしまったが、それも間違いのもとだった。

 

「在田氏」(播磨屋さんのサイトから)

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ak_arita.html

 

 ↑は、私の心の師匠で、実は私の自宅から10mくらいのところに住んでおられる播磨屋さんの解説だが、在田氏は、バリバリの赤松氏であり、「播磨国加茂郡在田」が本拠地であった。

 

 そして、在田氏の城としては、まず第一に「河内城」が挙げられ、その次に「野間山城」が挙げられる、ということになる。

 

 ところが、私の場合は、ついつい在田=野間山のイメージが先に来てしまい、その源流をたどることをすっかり忘れていたわけである。これは完全なミスに違いない。

 

 

 さあ、では謎解きを完成させるために、地図を見てみよう。

 

「加西市”在田”(在田郵便局周辺)上野町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220008/

 

 行政上の町名としては「在田」は残っていないが、郵便局や学校などの名称としては多数残っている。

 

 ここが在田氏(有田氏)発祥の地である。

 

そして、そこから西南に移動すると

 

「加西市北条町横尾」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220092/ 


 に到達する。その距離わずか3キロである!

 

「加西市桑原田町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220028/ 


は、横尾から東南に5キロである。

 

 なるほど、横尾正政がそこで亡くなったとしても、まったく不思議ではない。すべては加西市内で起きていて、横尾氏が在田氏であれば、むしろホームグラウンドである。

 

 逆に言えば、横尾正政は、「なんらかの事情」で、氷上郡小新屋に移動していたというわけだ。

 

 そして、付け加えるならば、丹波側から播磨側に入ったその境界地域が、野間城のエリア、ということにもなるだろう。

 

 横尾氏は加西・播磨から丹波へ行ったのだ!

 

 

==========

 

 

 最後に、電話番号ベースで見た「兵庫県における横尾姓の分布」を見てみよう。

 

 個人情報もあるのでざっくりで説明するが、

 

■ 氷上郡小新屋+和田 約10軒

■ 神戸市須磨区横尾 わずか

■ たつの市龍野町 約10軒

 

という3つの山が、県内の横尾姓分布の「まとまり」である。

 

 このうち、須磨区横尾はそのままズバリの地名なので、そこに横尾さんがいるのはわかる。

そして、たつの市のほうは、赤穂郡有年村横尾と関わると思われる。この地は相生にほど近く、龍野と赤穂の中間と言えばわかりやすいだろうか。

(ちなみに赤穂藩領ではなく、宍粟郡の安志藩領であった)

 

 とすると、残る氷上郡の横尾は、今回の点と線のリンクで


「加西の北条横尾」


であると推定するのが、あながち間違いではない、とわかるのではなかろうか。そして、ついでに言えば、その出自は加西一帯を領した「在田」氏であると!


(もっと言えば、だからこそ横尾氏は、野間・在田系赤松氏と通婚を繰り返しているのである。なぜなら、そもそも同族だからだ)

 

 加西が横尾の本拠であるとすれば、天正11年に横尾正政が加西桑原村に行っていた理由も理解できる。

 

 そして、もっとすごいことに、電話帳では、加西市桑原には、たしかに横尾姓がごくわずかに分布するのである!

 これは、天正時代に分かれた氷上郡横尾氏との同族ということもあるだろう!

 

 なんだかすごいロマンである!

 

 

<追記>


 休日を利用して、実際に氷上郡小新屋から北条横尾まで車で走ってみたところ、興味深い事実がわかった。

 

  地図上ではなかなかわかりにくいが、天正年間の「道、街道」をイメージすると、

 

◆ 和田村の岩尾城から県道86で南下(この道しか播磨に抜ける道はない)

◆  多可郡鍛冶屋へ入り、国道427に並走(実は86の小道のまま)

◆ 実はほとんど分岐せず、そのままの道だが、427から県道24へ入り中区へ

◆  そのまま八千代区野間城を横目に南下

◆ 県道24は、西脇妙楽寺を過ぎ、加西市別所へ(ここがほぼ在田に相当)

◆ 県道24にて越水町を過ぎればそのまま北条横尾の交差点

 

というルートになり、

 

「完全に一本道」

 

であることが判明したのである!

 

 つまり、「横尾」「在田」「野間」「小新屋」はまっすぐ一本道上に並んでおり、これは推測以上の「ほぼまちがいない仮説」だと言って過言ではないと思われる。

 

 

 在田一族の動きが、手に取るように実際に見える道筋であった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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