2023年2月20日月曜日

【26】 点と線 横尾村がもうひとつあった?

 

 兵庫県の横尾姓、特に丹波地域を中心とするものについて、 そのルーツの全容が見えてきたところであるが、ざっくり言えば

 

■ 播磨国加西郡横尾 (現在の加西市北条町横尾)

 

を苗字の地として、戦国時代に

 

■ 丹波国氷上郡小新屋 (現在の丹波市山南町小新屋)

 

にやってきたのが、”横尾四郎太夫正政”という武将だったという話である。

 

 ついでに

 

■ 天正11年に、横尾正政は、加西郡桑原村で亡くなった

 

という記録もあり、実際加西市桑原田には「横尾」姓の家があった。

 

 

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 ところが、面白いことに古記録を当たっていると

 

■ 多可郡横尾

 

という村があったらしいのである。

 

 

「兵庫県警察の誕生」草山・1984

多可郡の田高・明楽寺・横尾の各村 を結ぶ線以内とした。”

 

「神戸市史 第二巻」1921

播磨國多可郡高明樂寺・横尾諸村迄とせり。”

 

 (田高は黒田庄・明楽寺は西脇である)

 

 

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 ところが、この村名、明治期の外国人居留地に関するものしか出てこない。

 

 

 「遊歩地域」

https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8A%E6%AD%A9%E5%8C%BA%E5%9F%9F 

 

”兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。”


 もしかすると横尾村についてのみは「加西郡」横尾のことを言っているのかもしれないが、要確認である。

 

 

 

 

 

 

2022年3月3日木曜日

【25】 横尾氏と笹倉氏 〜播磨笹倉氏は赤松系〜

 

 前回の記事で、すべての謎はほぼ解明され、兵庫県の「横尾氏」、特に播磨〜丹波の氏族についてそのルーツを述べることができた。

 

 今回はその補足、補完になるが、おなじ氷上郡における「笹倉氏」の動向を少しだけ確認しておきたい。

 

 さて、この記事を書いている私は、丹波横尾につながる子孫だが、近くに「笹倉」という名字が多く、知り合いや関わりがある。

 

 そこで、笹倉という苗字について分布を調べると、とてもおもしろいことがわかったのである。

 

 笹倉姓は、「兵庫」「富山」「大分」「青森」に大きなまとまりがある名字で、それぞれは別系統だろう。

 中でも兵庫県は200軒ほどあり、突出している。その次は120軒ばかり分布する富山だ。

 

 兵庫県の笹倉姓もおもしろい。その内訳は「多可郡中町」「西脇市」「黒田庄」「多可郡八千代」などに集中しており、そのほとんどが「多可郡」近辺にしかないと言ってよいくらいである。

 

 村ごとの母集団を見ると、以下のようになっている。

 

約40軒 多可郡中町中安田

約30軒 氷上郡山南町奥

約25軒 西脇市羽安

約25軒 西脇市野村

・・・以下ほとんど西脇市内の集落が続く。

 

 このように、笹倉氏は旧多可郡一帯に広がる氏族だが、突然「氷上郡」に大きなまとまりが見られるのだ。だからおなじ氷上郡の横尾氏の知り合いに笹倉氏が多いことと矛盾しないわけだ。


 実は丹波横尾氏の本拠である氷上郡小新屋村から、奥村は、直に隣接してはいないものの、その距離1キロ以下である。

 

 かなり近い位置に「横尾」の集団と「笹倉」の集団があることに気づかされる。

 

 

 では、「笹倉氏」の本拠、ルーツはどこか?

 

 これはもうすでに多数の論考があり、判明しているのだが、名字の由来は現在の「加西市笹倉町」である。


 場所は、そう!


 加西郡「在田」の500m南で、かつ加西郡「横尾」の500m東である。隣接地帯と言ってよい!

 

のであった。

 

 

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 実は笹倉は在田氏の本拠でもある。殿原城あるいは笹倉城と呼ばれる在田の城こそ、在田氏の本拠地であったから、当然笹倉氏も赤松系なのだ。

  

 殿原城は、赤松朝範とその子赤松範康の二代で滅んだのだが、その跡を継いだ「赤松兵庫頭弥四郎祐利」が笹倉城を改修して本拠とし、「笹倉氏」を名乗った。

 

 しかし、笹倉氏本流は、別所氏に組して三木合戦で秀吉軍に敗れ、子孫が近江長浜に逃れたことから「長浜氏」と改姓したという。

 のちに長浜氏は笹倉に戻り、現代にまで子孫が続いているらしい。

 

 とまあ、本家は長浜姓に変わっているが、笹倉一族が北播磨に大いに広がっているのは、こうした理由からであった。

 

 興味深いのは、大半の笹倉氏が多可郡近辺にいるのに対して、 氷上郡に移動したグループがあるということである。

 

 これは横尾氏の動きと非常に似ている。

 

 残念ながら横尾については、横尾を名乗った武将本人のみか、ごくわずかな親族しか氷上に移っていないと思われるが、笹倉は母集団から分かれて、これも数名が氷上に移っているのであろう。

 

 あるいは笹倉氏が氷上に移動した経緯などを参照してゆけば、横尾の動きも推測できるのではなかろうか。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 さて、その氷上郡奥村には興味深い話がある。 奥村には「篠倉豊後守」なる人物がいて、その屋敷後があるというのだ。


丹波霧の里 さんの記事

 

http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm 

 

 残念なことに篠倉豊後守がどのような人物だったかは記録にないようだが、「横尾四郎太夫正政」と「篠倉(笹倉か)豊後守」という2人の武将が、播磨から丹波に入っていることは間違いなさそうだ。

 

 余談ながらこの近くには、三木別所氏が破れた後に丹波に入った「依藤氏」がいることも確認されている。

 どうも三木合戦の後、という時期が怪しい感じもする。

 

 

2022年3月1日火曜日

【24】 横尾氏と家紋 ~ 五三桐の謎を解明 ~

 

 丹波横尾氏のルーツについて、一気に解明が進んだ前回だが、家紋について補足しておきたい。

 

 当家横尾氏の家紋は、「五三桐」の桐紋である。十大家紋にも入っているのでポピュラーな家紋ではあるのだが、うちの親族の重鎮である叔母からは、


「豊臣秀吉にもらったんちゃう?」


という話を聞かされていた。


 たしかに、戦国期において、豊臣秀吉は恩賞として「桐紋」の使用をけっこう許可していたので、そうしたこともあるだろうとぼんやり考えていたが、だとすれば、天正前後において「丹波攻め」などで一定の功績があったか、丹波侵攻の武将(たとえば光秀など)との「絡み」があってしかるべきだろう、なんてことも思っていた。


 横尾四郎太夫(大夫)が、天正11年に死んだのであれば、旧来の丹波の支配者からではなく、織田方から一定の許可を得ていなければ話が合わない。

 

 三木城攻めは天正6年、八上城が落ちたのは天正7年である。

 和田の岩尾城が落ちたのも天正7年であり、おおむねこの前後に集中している。

 

  岩尾城の話で言えば、天正14年に木戸十乗坊(佐野下総守)が入っており、天正11年はちょうどその間のすっぽぬけた時期とも言える。

 

 木戸十乗坊は近江の人で、滋賀県大津市の木戸城に「佐野秀方」が確認できる。

https://masakishibata.wordpress.com/2015/09/12/kido/ 


 この人物は、前田玄以の家臣・光秀配下などを経て、豊臣方となったようだ。



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 さて、当初、丹波横尾氏の出自がまったく不明のおりには、この木戸氏や佐野氏などに従って、和田城下にやってきたものか?という推測をしていた。


 あるいはそれより以前の信濃出身「谷氏」(和田氏)の家臣だったのか?とも考えた。たしかに信濃には「横尾」の氏族がいるから、その想定はありえないわけではなかったのである。

 

 しかし、谷氏や木戸氏うんぬんはともかく、丹波は秀吉の支配下になったのであるから、そこでもし功績があれば、「桐紋」くらいは貰っていても不思議ではない、というのが当初の仮説であったわけだ。

 

 ところが、結果的にはまったく違う。家紋の由来はもっとそのものズバリで、「当初から、五三桐を使っていた」と考えて差し支えなさそうなのだ。

 

 

 なぜなら、赤松氏の家紋は「三つ巴/五三桐(五七桐)/両引」だからである!!

 

赤松氏

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F

 

 ウィキペディアにも桐紋(五七桐)のことは少し載っている。その詳細は、播磨屋さんのサイトに詳しい。

 

赤松氏の家紋

http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.html 


”『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。”

 

 つまり、朝廷から桐紋を賜り、将軍から両引紋を賜った、とされており、のちに巴紋も用いたというのである。

 

 余談ながら、丹波横尾氏と通婚があった多可郡野間の赤松氏は「三つ巴」紋を用いている。これは私から見ても叔父の家紋が三つ巴であり、墓所も確認しているので間違いない。

 

 こうした事情を総合して考えると、

 

 丹波横尾氏の桐紋は、赤松氏を示す

 

ということになる。 結果的には、まったくもって教科書通りのような、家紋の由来だったというわけだ。秀吉は関係なく、元から桐紋だったというのが真実だろう。



2022年2月25日金曜日

【23】 兵庫県の横尾氏の全貌が判明した! 〜横尾氏は、赤松一族有田(在田)氏か〜

 

 前回の記事からけっこう時間が経ってしまったが、今回、「これが丹波横尾氏の真実であろう」という全貌がようやく判明したので、その解明をお届けしたい。

 

 丹波横尾氏の祖は「横尾四郎大夫正政」と記録され、天正11年5月2日に死去したことがわかっている。

 

 今回はその続報である。

 

 まずは、氷上郡で、明治期からの「奇人」ともよばれた松井拳堂が書いた「増訂丹波史年表」から引用してみる。

 

 ○小新屋村横尾正政加西郡桑原村で死す

 

 たった一行であるが、氷上郡小新屋村の「横尾正政」は、なぜか加西郡桑原村で死去していることが書かれている。


 なぜ桑原村なのか?

 なぜ加西郡なのか?


 実は挙堂は、それ以上の詳細について何も書いていないのだが、何がしかの典拠に基づいてこれを書いたのだろうと思われる。

 

 ちなみに、挙堂については

 

  松井挙堂(丹波新聞)

 https://tanba.jp/2016/07/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%8B%B3%E5%A0%82/

 

を参照されたい。

 

 さて、横尾正政については、これ以上の記述はないのだが、実はおなじ松井挙堂が書いた「丹波人物志」に興味深いことが載っていたのである。


 それは、おなじく氷上郡小新屋村に生まれた「横尾孝之亮」氏についての記述であった。

 

 横尾孝之亮は、

https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12036998131.html

などにも説明があるが、明治以降に大阪の繊維業界で活躍した大物である。(正政の子孫である)

 

 さて、拳堂の記述だ。

 

”横尾孝之亮は石山と号し、明治元年氷上郡小新屋に生れた。父は有田氏、与三郎と称した。長兄敬蔵”

 

とある。 

 この記述は、他の孝之亮のプロフィールとほぼ変わらないが、一点だけ気になることがあるのだ。

 

「現代氷上郡人物史」には、こうある。

 

”氏は明治元年9月16日、氷上郡和田村の内、小新屋生る。祖先を横尾家政と称し、数十第に渡る舊家にて夙に里人の崇敬を受く。前代を與三郎と云ひ、氏は其の次男たり”

 

*注 「家政」は「正政」の誤記なのか、それとも正政の子に「家政」がいたのか、不明。

 

 

「大日本人物名鑑」も見てみよう。

 

”君は兵庫県人横尾與三郎氏の二男にして、明治元年9月16日を以って生まれ、同30年6月家督を相続す”

 

となっている。

 

 実はこれらの記述は、すべて初期から把握していたのだが、私は個人的に大きな見落としというか、大きな勘違いをしていたらしい。

 

 というのも、私の先祖である横尾家は、播磨・野間山城(多可郡八千代町)のふもとにある赤松氏とかなり濃密な通婚があり、たとえば私の曾祖母は赤松の人間であり、また叔母は赤松に養女に行き、また赤松の妻になっているので、「有田」と聞いても、野間山の有田氏(在田氏)としか、思わなかったのである!

 

 どういうことかというと、現在の多可郡八千代区下野間の「赤松氏」は、赤松氏の分かれである「在田氏」の居城である「野間山城」のふもとに住んでいて、普通に考えれば、同族であると推定されるので、孝之亮の父が「有田氏」だと聞いても、

 

 『ああ、野間あたりから来たんだな』

 

くらいにしか思わなかったということだ。

 

 つまり、「丹波人物志」の記述をぱっと読むと、孝之亮の父親が有田から来た養子か何かではないか?と思ってしまうのは、完全にこちらサイドの早とちりだったかもしれないのだ。

 

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 さて、ここで少し冷静になって、客観的に考えてみよう。挙堂の書き方も多少誤解を生みやすい表現ではあるのだが、「横尾家は有田氏である」ということを伝えたかったのだとすれば、実は

 

 バラバラだった点と線が、すっきりと一つに繋がる!

 

のである。散らばっていたすべてのピースが、ぴったりハマるのが、

 

「横尾=有田(在田)説」

 

なのだ。


 そもそも在田氏は、私はたまたま「野間山城」の在田・有田を思い浮かべてしまったが、それも間違いのもとだった。

 

「在田氏」(播磨屋さんのサイトから)

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ak_arita.html

 

 ↑は、私の心の師匠で、実は私の自宅から10mくらいのところに住んでおられる播磨屋さんの解説だが、在田氏は、バリバリの赤松氏であり、「播磨国加茂郡在田」が本拠地であった。

 

 そして、在田氏の城としては、まず第一に「河内城」が挙げられ、その次に「野間山城」が挙げられる、ということになる。

 

 ところが、私の場合は、ついつい在田=野間山のイメージが先に来てしまい、その源流をたどることをすっかり忘れていたわけである。これは完全なミスに違いない。

 

 

 さあ、では謎解きを完成させるために、地図を見てみよう。

 

「加西市”在田”(在田郵便局周辺)上野町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220008/

 

 行政上の町名としては「在田」は残っていないが、郵便局や学校などの名称としては多数残っている。

 

 ここが在田氏(有田氏)発祥の地である。

 

そして、そこから西南に移動すると

 

「加西市北条町横尾」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220092/ 


 に到達する。その距離わずか3キロである!

 

「加西市桑原田町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220028/ 


は、横尾から東南に5キロである。

 

 なるほど、横尾正政がそこで亡くなったとしても、まったく不思議ではない。すべては加西市内で起きていて、横尾氏が在田氏であれば、むしろホームグラウンドである。

 

 逆に言えば、横尾正政は、「なんらかの事情」で、氷上郡小新屋に移動していたというわけだ。

 

 そして、付け加えるならば、丹波側から播磨側に入ったその境界地域が、野間城のエリア、ということにもなるだろう。

 

 横尾氏は加西・播磨から丹波へ行ったのだ!

 

 

==========

 

 

 最後に、電話番号ベースで見た「兵庫県における横尾姓の分布」を見てみよう。

 

 個人情報もあるのでざっくりで説明するが、

 

■ 氷上郡小新屋+和田 約10軒

■ 神戸市須磨区横尾 わずか

■ たつの市龍野町 約10軒

 

という3つの山が、県内の横尾姓分布の「まとまり」である。

 

 このうち、須磨区横尾はそのままズバリの地名なので、そこに横尾さんがいるのはわかる。

そして、たつの市のほうは、赤穂郡有年村横尾と関わると思われる。この地は相生にほど近く、龍野と赤穂の中間と言えばわかりやすいだろうか。

(ちなみに赤穂藩領ではなく、宍粟郡の安志藩領であった)

 

 とすると、残る氷上郡の横尾は、今回の点と線のリンクで


「加西の北条横尾」


であると推定するのが、あながち間違いではない、とわかるのではなかろうか。そして、ついでに言えば、その出自は加西一帯を領した「在田」氏であると!


(もっと言えば、だからこそ横尾氏は、野間・在田系赤松氏と通婚を繰り返しているのである。なぜなら、そもそも同族だからだ)

 

 加西が横尾の本拠であるとすれば、天正11年に横尾正政が加西桑原村に行っていた理由も理解できる。

 

 そして、もっとすごいことに、電話帳では、加西市桑原には、たしかに横尾姓がごくわずかに分布するのである!

 これは、天正時代に分かれた氷上郡横尾氏との同族ということもあるだろう!

 

 なんだかすごいロマンである!

 

 

<追記>


 休日を利用して、実際に氷上郡小新屋から北条横尾まで車で走ってみたところ、興味深い事実がわかった。

 

  地図上ではなかなかわかりにくいが、天正年間の「道、街道」をイメージすると、

 

◆ 和田村の岩尾城から県道86で南下(この道しか播磨に抜ける道はない)

◆  多可郡鍛冶屋へ入り、国道427に並走(実は86の小道のまま)

◆ 実はほとんど分岐せず、そのままの道だが、427から県道24へ入り中区へ

◆  そのまま八千代区野間城を横目に南下

◆ 県道24は、西脇妙楽寺を過ぎ、加西市別所へ(ここがほぼ在田に相当)

◆ 県道24にて越水町を過ぎればそのまま北条横尾の交差点

 

というルートになり、

 

「完全に一本道」

 

であることが判明したのである!

 

 つまり、「横尾」「在田」「野間」「小新屋」はまっすぐ一本道上に並んでおり、これは推測以上の「ほぼまちがいない仮説」だと言って過言ではないと思われる。

 

 

 在田一族の動きが、手に取るように実際に見える道筋であった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月10日月曜日

大河ドラマ「西郷どん」が凄かった3つの理由

 2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」、いよいよ次回が最終回となってしまいました。

 12月9日放送の「西南戦争」の回では、いよいよ西郷隆盛にも死亡フラグが立ち、事実を知っている私達からみても「ああ、覚悟の時が来たなあ」という感じがひしひしと伝わるわけですが、ふだんはいちおう「歴史的なものを調べている身」としてこの大河ドラマ「西郷どん」が素晴らしかった理由を3つほど挙げてみたいと思います。

 近年の大河ドラマは、特に戦国モノを中心にどれも出来がよく、「真田丸」「おんな城主 直虎」あたりは、特に歴史に詳しくない一般の方が視聴しても十二分に「面白い!」と言える出来だったように思います。

 今回の「西郷どん」も、基本的にはこの「わかりやすい」「一般向け」な演出が豊富に入っていて、個性的なキャラクターや、心が動かされる名場面もたくさん盛り込まれていました。
 しかし、それとは別に、「西郷どん」のここが良かった!という点は3つあります。




【西郷どんのスゴイ!ポイント その1】

 尊皇攘夷から、開国・維新へと至るプロセスの理由付けが明快だった点。

 実は「外国を打ち払え・日本を守るんだ!」という発想と、明治維新による「開国しよう・文明開化だ!」という発想は、単純に考えると真逆で、これがいつのまにか入れ替わってしまうのが明治維新のイデオロギーのわかりにくいところです。

 私も、実はこれまでここが一番わかりにくくて嫌いでした(笑)

 これも大河ドラマでありましたが、「新撰組」なんかを見ていると、「ところで、今誰が敵で誰が味方で、なんのために戦ってるんだっけ?」ということがわけわからなくなるんですが、今回の「西郷どん」では、とくに「ひー様(徳川慶喜)」という人物をうまく使うことで、「尊皇攘夷の理想は、諸外国との現実を前にしたときに、矛盾したり・そのままではうまくいかないだろう」ということが誰にでもよくわかる筋書きになっていました。

 このあたりは、すっごく良かった!幕末の混乱が一番「理解しやすい・わかりやすい」話になっていたと思います。(ただ、うまくやらないとフランスに日本の一部が取られちゃってたかも、という辺りは、盛りすぎだったかもしれませんが)




【西郷どんのスゴイ!ポイント その2】

 善悪二元論っぽく描きながら「物事には裏がある」ことをちゃんと示した点
 ひー様が、なぜ「先手を打って大政奉還したか」とか、そのあたりにも関わってくるのですが、ドラマの軸は「善の西郷VS悪の人物」という雰囲気で描かれています。

 たとえば、「西郷は善、島津久光は悪」 「西郷は善、徳川慶喜は悪」という風に、その折々のタイミングでは、善悪二元論でドラマが展開します。

 もっともクライマックスとなるのはやはり「西郷は善、大久保は悪」という維新後の世界観でした。

 視聴者からすれば、いわゆる勧善懲悪もの「水戸黄門」のように、めっちゃわかりやすいのですね。この構図が。

 ところが、ある程度、物理的にも心理的にもドンパチ争いがあって、話が終わりかけると「実はそれぞれ悪とされた人物にも、彼らなりに信念をもって考えていた善があって、それは西郷と視点が違っていただけなんだ」ということが挿入されるのです。

 慶喜なりに考えた作戦はこうだった。久光なりにこう考えていた。そして「一蔵どんが、天下国家の目線で考えた善はこうだった」ということがちゃんと示されるのです。

 だから、混乱しがちな幕末維新時期の「イデオロギーの変容」もわかりやすくなるし、何より「男たちは、それぞれ全身全霊をかけて本気だったんだ」ということが伝わるから、どちらの立場も「カッコいい!」となるのです。

 このカッコよさは、名作映画「眼下の敵」さながらです。「眼下の敵」はアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦の死闘を描いたものですが、一般的には「アメリカが善で、ナチスドイツは悪なんだけれども、実は水面下ではまさにこうだったんだ!」という点が公平に見て面白いし、そしてどちらの立場であっても「カッコいい!」というものでした。

 近年では「紅の豚」なんかも、こうしたかっこよさを描いていました。




【西郷どんのスゴイ!ポイント その3】

 家族兄弟・女性たち・子供たち・友たちを略さず丹念に描いた点

  歴史上の偉人というのは、庶民から見れば雲の上の人であり、彼らは天下国家のためにいろいろ活動するので、いわゆる「公の仕事」での成果がメインとなって歴史に刻まれます。

 しかし、「西郷どん」では、吉之助の「家族・きょうだい」のその時々の動きや、最期、その後が丹念に描かれます。

 いわば「私(わたくし)の暮らし」が略されなかったのです。
 象徴的なシーン、「川口雪篷がなんでまで西郷家にいるんだ?」とか「東京でも熊吉がいっしょ?」とか、そういう歴史本編からはどーでもいいと思えるような小さい部分をちゃんと描ききったところがすごい。

 だって、本当に史実として川口雪篷は、最後まで西郷家の執事のように男手として家を守るし。熊吉もちゃんとずっと従っているのです。

 あるいは、竹馬の友だったメンバーが、どのように死んでいったり、その後の立場になるのかも、ちゃんと描かれていました。むしろ、公人西郷の姿ではなく、私人西郷を積み重ねることで、歴史本編を描いている感じのほうが強い印象を受けました。

主演の鈴木亮平さんが、変態仮面からいかに西郷隆盛になるのか、いろんな意味でドキドキしていましたが、いよいよ最終回!素晴らしい作品だったと思います。

2018年3月4日日曜日

やりすぎ大河ドラマ「西郷どん」は「暴れん坊将軍」なのか?(笑)



前回も似たようなことを書きましたが、2018年大河ドラマ、「西郷どん」が、あまりに凄すぎて失禁しそうです(爆)


 前回の記事↓

大河ドラマはどこへ行く? 圧倒的好き放題の「西郷どん」が面白すぎる!

https://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2018/02/blog-post.html



 ここ数年の大河ドラマは「史実ではわからないパートは自由に描く」というスタンスが定着しつつありますが、もはや西郷どんは


「史実を踏み台にして、創作する」


ところまできちゃいました。



 別に私は、大河ドラマは何がなんでも史実を描くべきとは思っていない派なのですが、本日の展開


 ヒーさま!


にはビックリでございます。


 女たらしの町人、ヒー様(松田翔太)が、実は世を忍ぶ仮の姿で、その正体は


 徳川慶喜(一橋慶喜)


だというのですから、思わず



桃太郎侍かーい!


松平長七郎江戸日記かーい!



と叫んでしまいました。 いやもう、この際、火消しの「め組」と行動を共にしている新さま(徳田新之助)こと



暴れん坊将軍かーい!


でもいいです。


 ご成敗にもほどがある!!!(笑)



 いやもう、時代劇ファンには、こういうのは嫌いじゃないのですが、さすがに大河ドラマでやってしまうと、民放の連続時代ドラマと何が違うねん!と格が下がってしまいますので、あまりに無茶はやらないほうがいいのではないかと老婆心ながら思います。


 歴史をまじめに研究するものの立場から言えば、こういう「空想時代小説」が幕末とか明治に跋扈した結果、一般に知られる本物の歴史の伝承がゆがんでしまった問題点もあるので、ある程度の線引きは必要なのではないかなーっと。




2018年2月11日日曜日

大河ドラマはどこへ行く? 圧倒的好き放題の「西郷どん」が面白すぎる!



 いちおう、歴史好きということもあって、ここ数年はこのブログでも「NHK大河ドラマウォッチ」をしてきたわけですが、今年の「西郷どん」は


 個人的にはとても面白いけれど、ブログに書くことがない


という状況が続いています(苦笑)


 もうすでに皆さんお気づきの通り、ここ近年の大河ドラマは「戦国ホームドラマ」とか「歴史もしもifドラマ」と化しておりまして、歴史に関係ない部分や、ぶっちゃけその時歴史がどうなっていたかわからない部分に関しては、



「好き放題してよい」



という不文律がまかり通るようになってしまいました(笑)



 たしか、「軍師官兵衛」までは、ある意味面白くないけれど、

「基本は歴史に忠実になぞってゆく」

という手法で描かれていましたね。

 この方法は、これまでも大河ドラマの王道で、もし物語に個性を出そうとすれば、そこは出演者の俳優さんの魅せ方やそのキャラクター付けで持っていくような感じだったように思います。



 それが「真田丸」では、もちろん三谷脚本ですからキャラクターが面白すぎるのは当然として、それに追加して

「歴史の表に上がってこないところは、伏線を張りまくる」

という書き方が生まれました。これは大いに当たったし、面白かった!


 さて、「おんな城主直虎」になると、そもそも歴史の表に上がってきている部分がごく少ないということもあって、


「もはや、過半数が創作」


という良くも悪くも好き放題な脚本だったわけですが、これはこれで高橋一生くんが格好良かったり、「渡る世間は井伊ばかり」な感じもウケたように感じます。



 さて、そこへ来ての今回の「西郷どん」ですが、史実としての西郷の行動や、その周辺の人々の動きなどは、戦国時代よりはるかに記録や逸話が残っているわけで、本来ならば制約だらけのはずなのです。


 しかし、そこをあえての「好き放題」な描き方をすることで、歴史学的にはむちゃくちゃなんだけれど、そこそこ楽しめてしまう、という面白いドラマが出来上がっております(笑)


 数えあげればきりがありませんが、特に初回から数回は、


「主人公はむしろ斉彬」


とでも言うべき渡辺謙さまのカッコよさで、なんでもかんでも吉之助と斉彬をくっつけてしまうという暴挙に出ているのですが、それなりに見れてしまうという面白さ。

 ロシアンルーレットする渡辺謙とかあかんやろ(><;;


 今日の第6回では、ジョン万次郎ですら西郷との絡みが生まれてしまうという、もはや


 事件の現場には常にいる名探偵コナン君


ぶりを呈している吉之助なのでありました(爆)


 あの、さっきからすき放題やりすぎの件について語ってますが、けしてディスってるわけではないのでそこはよろしく!

 21世紀になって、大河ドラマのあり方も変わってきたなあ!という意味をこめて、事実を語っているだけです。そして意外に、そういうのは嫌いじゃない。


 なんで嫌いじゃないかと言うと、つい昨日やっていた


 本能寺ホテル



を見て思ったんですね。ああ、なんだ近年の大河ドラマはこれなのか!と。


 そう、もはやここまで来ると、いわゆる史実を曲げない限り


 裏では何をやってもいいという信長協奏曲的演出



がなされているわけでwww。


 今後、どんどん西郷の周辺では「ややこしい幕末のお話」が進んでゆくのですが、個人的には今の路線で進んでほしいなあ!と思っています。


 チェスト!!!