兵庫県の丹波地方にお住まいの横尾氏について、以下のような情報がある。
① 本姓は源氏であり、源氏の記録がある過去帳が現存する。
② 家紋は53桐紋
③ 江戸時代にはすでに「横尾家は旧家である」と記載され、戦国時代までは遡れそうである。
ところが、不思議なことに、丹波横尾氏は、たとえば戦国時代にせよ、江戸時代にせよ、「それ以前」の情報がほとんどなく、
「どこからやってきて、どういう経緯でそこに居住したのか」
がよくわからない。
また、江戸時代の書物に既に「横尾氏」と記載されていることから、明治新姓というわけでもなさそうである。
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そこで、以前の記事では、「丹波国」がなぜか歴史的に「信濃国」と関係が深いことから、信濃系の横尾氏の移住の可能性はあるのかについて、調査と検討を深めてきたものの、じつは決定的な資料や証拠が見つからず、宙に浮いたようになっていたのがこれまでのお話である。
ところが、ここにきて新しい発想・観点が浮かびあがってきたので、今回はそんな仮説を立ててみることにする。
その流れは、丹波に隣接する但馬・日本海側ルートである。
丹波地方というのは、そもそも丹波・但馬を含めて「もとはひとつの丹波」であったというが、丹波と但馬は早い時期に分割され、古墳時代には既に別の地域として認識されていたらしい。ところが、現在においても、「丹波と但馬」・そして舞鶴や若狭に近い「丹後」も含めて、これらの地域はかなり密接な人やモノの交流がある。
場合によっては、この3地方を「三丹」地域と呼称することもあるほどで、文化的には、連続したものがあると言ってよい。
それに加えて、もうひとつ広い文化圏で言えば、「但馬を経ての鳥取地方」も、これまた密接なつながりがあると言ってよい。
実際にこの地域を知っている方にすれば納得していただけると思うが、丹波北部から、但馬、そして鳥取方面には、「国道9号線(いわゆる山陰道)」が走っており、文化的連続が見られる。
車でこの国道9号を走って見ると面白いのだが、現在でも
「丹波地方から、石州屋根瓦黒色」が民家に増え始め、
「鳥取地方に入ると、石州屋根瓦赤色」が増え、
「島根地方に入ると、石州屋根瓦来待色」が増える。
という明確な連続と変化がある。
これらの屋根瓦は、すべて石見地方(島根)から供給されているもので、色の変化はあるものの、製品としては同じ文化に属する。
こうした人とモノの交流は、いわゆる古代出雲と中央の関係ではないが、中世においてもそうした繋がりがあったのではないか、という可能性を伺わせるのである。
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すると、こんな情報が気になるわけである。
旧国名で言えば、
「石見(島根)」「伯耆国(島根・鳥取)」「因幡(鳥取)」「但馬(兵庫)」「丹波(兵庫・京都)」
と国道9号線沿いに連続しているのだが、
戦国時代以前から、因幡には「山名氏」という名族がいた。
山名氏は、室町幕府においては、重鎮中の重鎮、名家である。
本来は清和源氏・河内源氏のバリバリで、現在の群馬県高崎市山名に領地を持ったことから「山名氏」を称することになった。
のちに、室町幕府を開いた足利氏に従って「赤松・京極・一色・山名」が四職として足利体制を支えることになる。
その山名氏、戦国前後には「但馬・因幡・伯耆」守護となり、山陰地方を中心に一大勢力となる。織田・豊臣時代には、これまた山陰の雄であった「毛利氏」と手を組んだり、離れたりしながら結果、秀吉に早い段階で恭順する訳である。
さて、この山名氏の一派に、 巨濃郡(岩井郡)に拠った中嶋氏、一上氏、横尾氏、篠部氏があるというのである。
たしかに、現在でもこの岩井郡あらため岩美郡には、横尾という地名が存在するのである。
http://www.iwami.gr.jp/dd.aspx?menuid=1971
山名氏は、源姓であり、家紋は「五七桐・七葉根笹」を用いる。
丹波の横尾氏は、源姓であり、家紋は「五三桐」である。
もし、この横尾氏が、山名流であり山陰岩井郡から丹波に入ったものだとしたら、点と線が繋がらないわけではない。
(しかし、まだこれといった物証や資料があるわけでもない)
というわけで、丹波地方と因幡地方の関連性は、まだまだ要調査なのであった!
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