2024年11月15日金曜日

【丹波原田氏の謎を解く04】点と点をつなぐ謎の赤松の糸 勝岡氏に新たな真実!

 

 前回までの話で、


 ■ 丹波原田氏は、栗に関係する氏族で、

 ■ 彼らの本村に当たる「上滝」村には「勝岡/若林氏」という一族がおり、

 ■ この3者には共通して「朝廷からのなんらかの許可と、栗づくり」に関しての話が伝わっている

 ■ 勝岡氏には、赤松・比延系の氏族がある

 ■ 鎌倉時代末期に芦屋にもいる


というところまでバラバラの点を集めてきたわけである。


 ところがここに来て、面白い情報が見つかった。それは鎌倉時代から南北朝時代にかけて芦屋にいたらしい「若林隼人佐勝岡」という武将の件であるが、


「神戸古今の姿」岡久彀三郎 昭和4


によると



 荒熊氏の後釜として入り込んだ「若林隼人佐勝岡」は、「村上源氏」だというのである!


 なおかつこの話は、いまの神戸大学の敷地が「赤松城」である、ということと連動しているため、


https://www.city.kobe.lg.jp/c63604/kuyakusho/nadaku/shokai/miryoku/hyakusen/hyakusennokaisisekiikou.html


 これはもう、前回の話やこれまでの話が連動している、と考えてよいだろう。


 つまり


■ 赤松系勝岡・若林氏がいる

■ 比延の一族ともつながり、芦屋にいた武将も赤松に送り込まれており、

■ 若林隼人佐勝岡は、村上源氏=つまり赤松系である


とここまではスッキリ繋がったのである!!ひえー!!


 そうすると、


■ うちの実家の横尾が、野間の赤松氏と通婚したり、青田の原田と通婚しているのは、

■ 全部赤松氏族内での通婚である


とも言えるのではないだろうか???


 これは思っていたよりも、すごいというか恐ろしい話になってきたのだ。


 もちろん、勝岡氏の伝承によれば、その本姓の成り立ちは、「赤松円心登場より遥かに古い」ということになる。


 用明天皇は古墳時代の人で、推古天皇の兄なので、聖徳太子時代の人である。

 赤松氏が仮に本当に村上源氏であったとしても、村上天皇は平安時代の人なので、勝岡の発祥のほうがはるかに古いことになるわけだ。

 ただ、勝岡・若林の名跡については、どこかの段階で姻戚関係などを通じて「赤松化」した可能性が十分にありそうだ。


 もちろん、原田と「勝岡・若林」を直接的につなぐ線はまだないが、「伝承の上では同一の系譜」を持っていることは確かである。


 その意味では、播磨から丹波にかけて(当然摂津も含むが)の「赤松系ネットワーク」のすごさに、あらためて驚かざるを得ないのだ。


 なんなんだこれは!という感じである。



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(捕捉) 摂津若林氏に伝承があるようなので、引用したい。



■ 祥 龍 寺さんのサイトより

http://shoryuji.d.dooo.jp/jishi.htm


「「西摂大観」に「若林家由緒書」が明らかにされているので、その中から祥龍寺関係と、一部興味深いものを掲載する。

 「保元の頃(1156年)篠原村北山に荒熊武蔵守興定城をかまえ、落城の後若林隼人尉範房茲に居城す」と云う。「恐らく祥龍廃寺後の山嶺稍々夷かな所、北山城址ならん」とあるので今の牛小屋山から伯母野の辺であろう。」



■ 「西摂大観」より 若林家の由緒





 用明天皇の時代の朝臣、佐高菅巳之進友成の御兄弟である厳藤太夫重則が先祖。
 安芸の厳島明神に天子の命令で願いに行き、無事に任務を果たして帰ってきたので、菟原郡の郡家、今の南荘を賜った。

 その子孫が若林隼人尉範房で、保元の頃、荒熊武蔵守に代わって北山の城主となった。

 略系譜があり、十九代中祖「勝岡・若林隼人尉 応永八年七月二十五日死去 ー 秀勝 ー 満秀 ー(以下略)」とある。


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 ここで気になる箇所は、やはり「用明天皇が出てきた」ということである。以前から書いているとおり、用明天皇というのは古墳時代の人なので、通常の先祖伝承では、あまりここまで古い人についての話は出てこない。ところが、丹波上滝の勝岡氏も「用明天皇」を出してきているし、離れた二つの家で似たような伝承があるところ見ると、用明天皇がらみはおそらく何らかの史実を反映しているのであろう。


 また、若林家の伝承では「勝岡」を人名のように見立てている。そこで「秀勝」「満秀」と継いでそれっぽく繋いでいるが、勝岡ということばが「本姓」であったことは失われている可能性がある、と考えると面白い。

 あるいは「範房」という人名も、赤松系の通字を思わせる雰囲気がある。

 厳島神社については、推古天皇593年の創建の社伝があるが、用明天皇は587年に亡くなっているため、微妙にズレがある。

 安芸国の豪族である佐伯氏が建てた神社であるため、その頃になんらかの使いが朝廷から出たことを反映しているとは思うが、菟原郡に根付いた理由を創作したものではなかろうか。


 年代についても微妙な誤認があるが、保元頃(1156〜)から北山城主だった荒武氏から若林氏に代わったのは建武年間(1338〜)であり、応永年間(1394〜)に勝岡が死去したことを考えると、範房と勝岡はほぼ同時期の人で、1代か2代くらいのズレを含む可能性もあるだろう。


 古墳時代(587)から1156まで約600年間、痕跡がみえないことを考えれば、実態としての若林氏は、丹波で発祥していても不思議ではなく、赤松系と合流してまさに赤松円心の派閥として送り込まれた可能性が高いと考える。

 「厳藤太夫重則」という人名も、なかなか面白い。厳島神社とつなぐ雰囲気があるし、「則」の字もまた赤松系を思わせる。

 途切れ途切れの伝承を、うまくつなぎ合わせて由緒を書いた感じが出ていて、それでも真実をできるだけ拾おうとしている感じが伝わってきて、好感が持てる。

(むちゃくちゃ創作したな、という感じではなく、一生懸命さが伝わる由緒書きであろう)


 実態を反映すれば、若林家とは、やはりのちには赤松系となっており、建武頃に摂津菟原に根付いたのであろう。ただ、ほんとうに用明天皇の時代から続く家柄だ、という言い伝えは持っていて、「若林」と「勝岡」のことばや、厳島神社ともなんらかの関係があった人物が途中にいたのかもしれない。


 



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