さて、丹波原田氏のルーツについて、「能勢」や「播磨」などと比較しながら、これまでは「ふわっとした」話を見てきたわけだが、まだまだはっきりとしたルーツは見えてこない。
ところで、ここで一旦「原田」という言葉を追いかけるのをやめて、氷上郡の青田村周辺を探ってゆくと、興味深い事実に行き当たるのであった。
それは、 「丹波志」によれば
■ 原田氏は上滝村から来た。
■ 上滝村には「山畔氏一党」(山畔一党)というグループがおり
■ もと勝岡氏 いま若林氏を名乗っている。
■ 実はこの勝岡・若林にも、栗の献上についての伝承や、朝廷・天皇からの権益の話が残っている。
■ むしろ栗作郷の伝承の元ネタはこちら。
という大きなポイントである。
繰り返しになるが、青田村の原田氏は「栗作り、あるいは栗の入れ物作り」について何らかの許可をもらっていた可能性が高いのだが、青田村というより、そもそも本村に相当する上滝村に置いては、おなじように「栗作りについて権益を許可された、勝岡・若林グループ」というのが存在するのである。
そして、このエリア一帯が「栗作郷」と呼ばれている原因こそが、この「勝岡氏」「若林氏」の存在につながるというのである!
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「日本姓氏語源辞典」
勝岡
「兵庫県丹波市山南町上滝では古墳時代の天皇である用明天皇から古文の語により賜って後に恐れ多いと考えて若林姓に改姓したと伝える。」
若林
「兵庫県丹波市山南町小野尻若林発祥。同地に分布あり」
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「丹波・丹後」太田亮
「勝岡氏、山畦黨の一」
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姓氏辞典などの情報を総合すると
■ 「勝岡」氏という氏族がおり、一部が「若林」に変えている。
■ 彼らをして山畦党、と呼ぶらしい
ことがわかってくる。
若林姓も、おなじ氷上郡山南町に分布するため、なんらかの関わりがあると考えてよいだろう。
ところが、この「山畦党」あるいは「山畔党」がなにものなのか、どうも判然としない。
姓氏家系大辞典的には「勝岡は天皇からもらった」とあるので、もしそれが本当なら苗字ではなく「本姓」ということになるが、まあ、そこらへんは話半分でとりあえず置いておこう。
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さて、ここから雑多な周辺事項であるが、
① 「西脇市史」によると
偶然の一致かわからないけれど「黒田庄方面の赤松・比延氏の分かれに勝岡氏がいる」らしい。
当家当方、赤松とは関わりが深いので、勝岡の一部が赤松系になった、というのならそれもわからないではない。ただし、まだまだ保留。
② 姓氏家系大辞典・「荒熊」項
摂津の「荒熊」氏のあとを継いだのが「若林隼人佐勝岡」という武将らしい。これも偶然かどうかわからないけれど、これは菟原郡、つまり現在の芦屋あたりの話ということになる。
建武というのは鎌倉時代から南北朝にかけての時代で、「建武の新政」でおなじみの年号。
この時期の芦屋に「若林・勝岡」という武将がいるというのが、気になるところである。
このように、全体を通じてまだまだ「ふわっとした話」が続くのだが、なーんとなく、点と点を結ぶなにかがありそうに感じるのは、私だけだろうか。
まて!次回!
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