2024年11月16日土曜日

【丹波原田氏の謎を解く05】 神戸・菟原郡の若林家由緒を探る

 

 前回までの調査で、「丹波地域の若林(勝岡)氏と、神戸・菟原郡の若林氏が同一系統なのではないか?」という仮説に至った。


 どちらも先祖を「用明天皇の時代の人」としており、若林・勝岡の語を用いている。また菟原郡若林氏には村上源氏末裔の説もあり、また別に西脇・比延に赤松系勝岡氏が存在することなどを総合すると、これらの点と点は、なんらかの線で繋がっているのではないか?と考えるに至ったわけである。


 さて、若林家の由緒では、「用明天皇の家来である、菅美高根庄右部之大臣家臣・佐高菅巳之進友成の兄弟である嚴藤太夫重則」を先祖としている。

 この人物が勅命で厳島神社に行って仕事をしてきたので、菟原に根付いたのだ、という説明になっているのである。


 実はこの話、別のところでも見ることができる。

https://jinja-net.jp/jinja-all/jsearch3all.php?jinjya=5138


それは、兵庫県神戸市灘区篠原北町3-16-7にある厳島神社の社伝で、

『原此地は荒熊武蔵守の居城の乾角也、落城の後姓を竹原と白ふ呼村名を篠原と云ふ。村中産土神、人皇三十二代用明天皇の御官士菅美高根庄右部之大臣家臣佐高菅巳之進、友成兄弟嚴藤太夫重則従天子藝州嚴嶋神社へ御宣有之帰宮の後此所に市杵島姫命奉安置勧請年暦不祥又古老之申傳云、福原新都の節布引の瀧より夜々光り物之有るを清盛公より仰越中次郎兵衛盛純此を対峙する所、白玉を頂きたる大龍なり、此の白玉を執て此所に安置し奉り市杵島姫命と奉称し産土神と奉尊すと云ふ。』

ということになっている。


これを素直に解釈すると厳藤太夫重則が行ったことは「厳島神社を勧請すること」であり、彼が用明天皇時代に厳島神社を持ち帰ったのでそれがここにある、という伝承がまず存在することがわかる。


加えて第二の伝承があり、それは福原京の時代に越中次郎兵衛盛純が龍と対決して、その玉を安置して市杵島姫命として祀った、ということが示されている。

(厳島神社とは、そもそも市杵島姫命と同一)


 ちなみに越中次郎兵衛盛純は、平家の武将であろう。「越中次郎兵衛盛嗣」という武将は有名人であるが・・・。


平盛嗣

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3


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 さて、佐高という苗字は日本にはごく少なく、愛知県などにわずかに分布がみられるのみである。一説には「佐竹の転」という話もあり、実態がよくわからない。


 しかし「佐高菅巳之進」や「厳藤太夫重則」という人名は、あきらかに用明天皇の時代のものではないので、「用明天皇の時代」ということばと、「厳島神社に関係した人物」の年代は別と考えるのが妥当であろう。


 そうすると若林家は、こうした厳島神社の勧請者と、自身のルーツを繋げているのだと思われる。これは「誤り」を含んでいるという意味ではなく、姻戚関係を繰り返しているので、厳島神社系統の先祖もいるし、若林系の先祖もいる、ということと考えれば、とくに不自然ではないだろう。


 とすればあらためて「なぜ用明天皇」なのかが、気になってくるわけだ。よほどこの若林一族には丹波も菟原も「用明天皇の時代」に記憶や伝承のこだわりがあると見えるのである。


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 さてここで、太田亮の「摂津」をみてみよう。







 さすが太田亮だけあって、厳藤太夫系の伝承も、赤松系の伝承もどちらも拾い出している。おそらくまさにこの通りで、2つの系統が姻戚して構成されていったのが、若林氏なのかもしれない。

(しかし、個人的には若林氏が用明天皇にこだわるのは、丹波系の伝承を受け継いでいるからで、菟原に来てから厳島神社の勧請主の家系と繋がっていったのだと思われる。そして、やってきた当の人物は赤松系なのだろう)


 話はとくに矛盾するわけではないのである。



 次回へ続く。

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