前回までのパート1・パート2で、佐賀県の横尾氏の初出がおおよそ戦国期である、ということまではわかってきた。
そして、おそらくその子孫だと思われる各横尾姓の人物が、「北肥戦誌」などにもたびたび登場し、佐賀藩のみならずその支藩においても横尾姓の武士の記載がみられる、というのが現時点でわかっていることである。
このように佐賀横尾氏の源流探しは、とりあえずここで置いておいて、今度は逆に下流から上流へと遡ってみよう、という試みを提案したい。
というのも佐賀藩の関係者でこんな人物がいるからである。
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波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%Aえ2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
佐賀藩には3つの支藩があり、それぞれ蓮池・小城・鹿島藩という。波多野敬直は明治大正期の子爵であり、もともとは小城藩士であった。
興味深いことに、この「波多野氏」は小城藩時代には「横尾姓」を名乗っており、ところがこの一族には
「横尾は本来【波多野】という姓であり、それにより波多野に姓を戻す」
という伝承があったことで波多野氏になった、というのである。
さて、波多野敬直は
”丹波の戦国武将である波多野氏の一族・波多野宗高の末裔にあたる。”
として波多野に複姓している。
これが、佐賀横尾氏のルーツと関係あるのではないか、とがぜん興味深くなってくるのである。
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丹波波多野氏は、丹波戦国期を知るものには有名な一族で、篠山市の八上城を拠点に丹波地域で勢力を振るっていた。
波多野宗高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%AB%98
宗高はその一族の武将であり、「丹波鬼」と呼ばれた勇猛な人物であったらしい。
ところが、佐賀における横尾氏の初出は1545年であり、波多野宗高の存命期間は1511~1570(あるいは1582)であることを考えると
完全に同時代の人たち
ということになる。
これはどういうことかといえば、波多野敬直が宗高の子孫になるためには、波多野宗高が丹波で周囲の氏族と戦いまくっている時に、
誰か1人、宗高のこどもが丹波から離脱し、肥前に移動して佐賀勢の家臣となる
ことが必要になる。
宗高の本来のこどもは宗長というのだが、
波多野宗長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%95%B7
この人物は、播磨別所氏や織田氏と戦って天正7年(1579)に滅びている。
そのため、いくらなんでも、お兄ちゃんたちが丹波で必死になっているのに、弟のうち誰か1人が肥前に飛んでいる、というのはどうにもおかしな話だと思わざるをえない。
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では、いったい佐賀横尾氏=波多野氏に何が起こっているのであろうか。これはもちろん、波多野敬直氏の一族にそのような伝承があったことを尊重しなくてはならないのだが、あるいは何か
「横尾と波多野をつなぐ線」
のようなものが潜んでいるのではないか、と考える。
というわけで、次回はその謎を読み解いてゆきたい。
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