前回は丹波地方の波多野氏のルーツについて調査したが、そこで気になる「因幡」という言葉が頻出していることに気付いた。
よって、今回は因幡=鳥取地方へ飛ぼう!というわけだが、ちょっと飛びすぎて
「石見」
地方へと着陸してしまったところから始まる。
地理が苦手なあなたのために、もう一度確認しておこう
長崎 佐賀 福岡 関門海峡 山口 島根 鳥取 兵庫 京都
肥前 肥前 筑前 長門 石見出雲 伯耆因幡 但馬 丹波
西日本から特に山陰道ルートで京都を目指すと、現在の県名と旧国名は上のようになる。
このルート、実は国道9号線として現在も残っており、古来から京と九州を結ぶ重要な道であった。
なぜ、因幡ではなく石見なのか。その理由はすぐに判明する。
西国の山城さんのブログ
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
を参考にすると、なかなか興味深い話が浮かび上がってくるのだ。簡単に概略を説明しよう。
まず、島根県益田市(石見国)に「黒谷横山城」という古い城があるところから話ははじまる。
この城、鎌倉時代に菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)なる人物が、黒谷の地頭に任命されて築城されたのだが、この菖蒲氏こそ相模波多野氏の一派である菖蒲氏の一族だと考えられるのだ。
その証拠として、この地の城主は代々「波多野」氏を名乗っている。
ブログでは「波多野彦次郎」「波多野彦三郎」「波多野彦六郎」などの説明と、「波多野氏秀」などが存在することが紹介されている。
中でも波多野氏秀は、もと益田氏だともされるが、この時代当地を治めたものは益田氏に属するものも、敵対する吉見氏に属するものもどちらも「波多野」を名乗っているらしく両方の系統の波多野氏が入り混じる事態になっているようだ。
おそらくこういう考え方ができよう。鎌倉時代に本来の苗字が「波多野」である相模菖蒲氏(藤原姓)が入り、そこから「波多野」の名跡がこの地でカッコたるものとなった。
ところがある時は石見の益田氏(藤原姓)に侵食され、またある時は石見の吉見氏(源姓)に侵食され、それぞれに付き従うように分派し、婚姻を繰り返していった結果、
「もと相模系波多野」「吉見系波多野」「益田姓波多野」
の3種類が成立していったと考えられるのである。
(この意味では、前回登場した説③
波多野清秀という初代が、石州の人で、源氏で吉見氏。細川勝元に仕えて上京し、母方の姓を名乗って『波多野』とした(幻雲文集)
という話がにわかに真実味を帯びてくるではないか!
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そしてここからが真骨頂である。
黒谷横山城に居した菖蒲五郎は、「益田市誌」によれば当地に伝承の残る
横尾右衛門
と同一人物ではないか、というのだ!!!
仮に、同一人物ではないとしても、横尾氏が菖蒲氏つまり波多野氏と非常に近しい一族であることは容易に想像できる。
そうなのだ。これで
横尾=波多野ライン
が繋がったのである!!!
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さて、石見にかなり古い時代に存在した「横尾・波多野氏」が関門海峡をこえて何故肥前佐賀へ移動したのか、については別に解説するが、問題は
「石見から因幡への波多野氏の移動」
という課題が残っている。
ここから先は、次回を待たれよ。
(この章つづく)
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