少し期間があいたが、島根県の「横尾姓」に関わりそうな情報が入ってきたのでリサーチ。
西国の山城 さんのサイト
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/12/blog-post_22.html
によると、島根県益田市柏原町というところに「横山城」という戦国山城があって、その城主が、菖蒲五郎真盛(実盛)というのだが、この城のほど近くに、地区の開拓始祖として
横尾右衛門
なる人物が墓に祀られているらしいことがわかっている。
面白いことに「益田市誌」では、「菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことである」という説を取っているらしい。
個人的に興味深いのは、この城の城主スジが、
波多野彦次郎、波多野彦三郎 波多野彦六郎
という波多野氏族であり、菖蒲五郎なる人物は波多野系であろうと推測できるのである。
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なぜこの一族に着目するのか、というと、今後じっくり取り上げることになるであろう「肥前佐賀藩の横尾氏」との関係が実にミステリーだからである。
肥前佐賀には「波多野敬直」という人物がおり、彼の来歴を見ることからこの謎解きを開始したい。
波多野敬直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
ウィキペディアによれば、佐賀小城藩に「横尾」一族がおり、その旧来の姓は「波多野」だと言う。
ところが、この”波多野”。丹波の戦国武将の「波多野氏」の末裔であると言うが、ここには恐らく誤解がある。
私は現在、丹波地域の苗字を調査中であるが、もちろん「波多野さん」の知り合いもたくさんいるものの、残念ながら波多野氏と佐賀の関係性は見つかっていない。
つまり、波多野敬直が横尾から波多野に改姓した原点は、「もとは波多野であった」という伝承に基づいているものの、それは「丹波波多野ではないのに誤解した」可能性が高いのである。
では、真実はどこにあるのか。
その一つの仮説が、この「島根横尾=波多野ライン」ではないのか?
まずは、島根益田に根付いた「益田氏」の系統を見ていただきたい。
益田氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%B0%8F
これによれば、室町時代の時点で、益田から波多野に改姓している支流があることがわかる。
そして、その直後、益田兼堯は、周防の守護大名「大内盛見」について九州へと参戦しているのである。
このあたりから歴史に詳しい人ならご存知の通り、大内一族は九州へ進出し
大内氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護
を務めることになるわけである。
この流れを俯瞰すると、島根の益田氏の一派である波多野氏(横尾氏)は、大内氏に属して九州へ転戦し、北部九州に何らかの形で根付くことになるという仮説が生まれる。
もっとズバリで言えば、大内氏代13代「大内教弘」の時代には、少弐氏と敵対して
大内教弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%95%99%E5%BC%98
なんと肥前守護を任官しているのである。
まさにズバリ、佐賀と島根波多野氏がつながった瞬間ではないか?!
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これまた興味深いことに、佐賀藩の横尾姓は、戦国期においてはじめて突然登場する。これはおそらく、室町末期に取り残された島根系波多野=横尾氏の一派であることの傍証なのではないか、というわけである(^^
ある情報で、「佐賀藩士の末裔の横尾氏は、本姓藤原氏である」というデータを掴んでいるのだが、
益田氏は、本姓藤原氏
なのだ!!
というわけで、このあたりをズビズバと調査すべく、ネタは佐賀へと移動するのであった!!
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