2024年11月15日金曜日

【丹波原田氏の謎を解く04】点と点をつなぐ謎の赤松の糸 勝岡氏に新たな真実!

 

 前回までの話で、


 ■ 丹波原田氏は、栗に関係する氏族で、

 ■ 彼らの本村に当たる「上滝」村には「勝岡/若林氏」という一族がおり、

 ■ この3者には共通して「朝廷からのなんらかの許可と、栗づくり」に関しての話が伝わっている

 ■ 勝岡氏には、赤松・比延系の氏族がある

 ■ 鎌倉時代末期に芦屋にもいる


というところまでバラバラの点を集めてきたわけである。


 ところがここに来て、面白い情報が見つかった。それは鎌倉時代から南北朝時代にかけて芦屋にいたらしい「若林隼人佐勝岡」という武将の件であるが、


「神戸古今の姿」岡久彀三郎 昭和4


によると



 荒熊氏の後釜として入り込んだ「若林隼人佐勝岡」は、「村上源氏」だというのである!


 なおかつこの話は、いまの神戸大学の敷地が「赤松城」である、ということと連動しているため、


https://www.city.kobe.lg.jp/c63604/kuyakusho/nadaku/shokai/miryoku/hyakusen/hyakusennokaisisekiikou.html


 これはもう、前回の話やこれまでの話が連動している、と考えてよいだろう。


 つまり


■ 赤松系勝岡・若林氏がいる

■ 比延の一族ともつながり、芦屋にいた武将も赤松に送り込まれており、

■ 若林隼人佐勝岡は、村上源氏=つまり赤松系である


とここまではスッキリ繋がったのである!!ひえー!!


 そうすると、


■ うちの実家の横尾が、野間の赤松氏と通婚したり、青田の原田と通婚しているのは、

■ 全部赤松氏族内での通婚である


とも言えるのではないだろうか???


 これは思っていたよりも、すごいというか恐ろしい話になってきたのだ。


 もちろん、勝岡氏の伝承によれば、その本姓の成り立ちは、「赤松円心登場より遥かに古い」ということになる。


 用明天皇は古墳時代の人で、推古天皇の兄なので、聖徳太子時代の人である。

 赤松氏が仮に本当に村上源氏であったとしても、村上天皇は平安時代の人なので、勝岡の発祥のほうがはるかに古いことになるわけだ。

 ただ、勝岡・若林の名跡については、どこかの段階で姻戚関係などを通じて「赤松化」した可能性が十分にありそうだ。


 もちろん、原田と「勝岡・若林」を直接的につなぐ線はまだないが、「伝承の上では同一の系譜」を持っていることは確かである。


 その意味では、播磨から丹波にかけて(当然摂津も含むが)の「赤松系ネットワーク」のすごさに、あらためて驚かざるを得ないのだ。


 なんなんだこれは!という感じである。



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(捕捉) 摂津若林氏に伝承があるようなので、引用したい。



■ 祥 龍 寺さんのサイトより

http://shoryuji.d.dooo.jp/jishi.htm


「「西摂大観」に「若林家由緒書」が明らかにされているので、その中から祥龍寺関係と、一部興味深いものを掲載する。

 「保元の頃(1156年)篠原村北山に荒熊武蔵守興定城をかまえ、落城の後若林隼人尉範房茲に居城す」と云う。「恐らく祥龍廃寺後の山嶺稍々夷かな所、北山城址ならん」とあるので今の牛小屋山から伯母野の辺であろう。」



■ 「西摂大観」より 若林家の由緒





 用明天皇の時代の朝臣、佐高菅巳之進友成の御兄弟である厳藤太夫重則が先祖。
 安芸の厳島明神に天子の命令で願いに行き、無事に任務を果たして帰ってきたので、菟原郡の郡家、今の南荘を賜った。

 その子孫が若林隼人尉範房で、保元の頃、荒熊武蔵守に代わって北山の城主となった。

 略系譜があり、十九代中祖「勝岡・若林隼人尉 応永八年七月二十五日死去 ー 秀勝 ー 満秀 ー(以下略)」とある。


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 ここで気になる箇所は、やはり「用明天皇が出てきた」ということである。以前から書いているとおり、用明天皇というのは古墳時代の人なので、通常の先祖伝承では、あまりここまで古い人についての話は出てこない。ところが、丹波上滝の勝岡氏も「用明天皇」を出してきているし、離れた二つの家で似たような伝承があるところ見ると、用明天皇がらみはおそらく何らかの史実を反映しているのであろう。


 また、若林家の伝承では「勝岡」を人名のように見立てている。そこで「秀勝」「満秀」と継いでそれっぽく繋いでいるが、勝岡ということばが「本姓」であったことは失われている可能性がある、と考えると面白い。

 あるいは「範房」という人名も、赤松系の通字を思わせる雰囲気がある。

 厳島神社については、推古天皇593年の創建の社伝があるが、用明天皇は587年に亡くなっているため、微妙にズレがある。

 安芸国の豪族である佐伯氏が建てた神社であるため、その頃になんらかの使いが朝廷から出たことを反映しているとは思うが、菟原郡に根付いた理由を創作したものではなかろうか。


 年代についても微妙な誤認があるが、保元頃(1156〜)から北山城主だった荒武氏から若林氏に代わったのは建武年間(1338〜)であり、応永年間(1394〜)に勝岡が死去したことを考えると、範房と勝岡はほぼ同時期の人で、1代か2代くらいのズレを含む可能性もあるだろう。


 古墳時代(587)から1156まで約600年間、痕跡がみえないことを考えれば、実態としての若林氏は、丹波で発祥していても不思議ではなく、赤松系と合流してまさに赤松円心の派閥として送り込まれた可能性が高いと考える。

 「厳藤太夫重則」という人名も、なかなか面白い。厳島神社とつなぐ雰囲気があるし、「則」の字もまた赤松系を思わせる。

 途切れ途切れの伝承を、うまくつなぎ合わせて由緒を書いた感じが出ていて、それでも真実をできるだけ拾おうとしている感じが伝わってきて、好感が持てる。

(むちゃくちゃ創作したな、という感じではなく、一生懸命さが伝わる由緒書きであろう)


 実態を反映すれば、若林家とは、やはりのちには赤松系となっており、建武頃に摂津菟原に根付いたのであろう。ただ、ほんとうに用明天皇の時代から続く家柄だ、という言い伝えは持っていて、「若林」と「勝岡」のことばや、厳島神社ともなんらかの関係があった人物が途中にいたのかもしれない。


 



2024年11月14日木曜日

【丹波原田氏の謎を解く03】 山畔党と原田氏


 さて、丹波原田氏のルーツについて、「能勢」や「播磨」などと比較しながら、これまでは「ふわっとした」話を見てきたわけだが、まだまだはっきりとしたルーツは見えてこない。


 ところで、ここで一旦「原田」という言葉を追いかけるのをやめて、氷上郡の青田村周辺を探ってゆくと、興味深い事実に行き当たるのであった。


 それは、 「丹波志」によれば


■ 原田氏は上滝村から来た。

■ 上滝村には「山畔氏一党」(山畔一党)というグループがおり

■ もと勝岡氏 いま若林氏を名乗っている。

■ 実はこの勝岡・若林にも、栗の献上についての伝承や、朝廷・天皇からの権益の話が残っている。

■ むしろ栗作郷の伝承の元ネタはこちら。


 という大きなポイントである。


 繰り返しになるが、青田村の原田氏は「栗作り、あるいは栗の入れ物作り」について何らかの許可をもらっていた可能性が高いのだが、青田村というより、そもそも本村に相当する上滝村に置いては、おなじように「栗作りについて権益を許可された、勝岡・若林グループ」というのが存在するのである。


 そして、このエリア一帯が「栗作郷」と呼ばれている原因こそが、この「勝岡氏」「若林氏」の存在につながるというのである!


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「日本姓氏語源辞典」


勝岡

「兵庫県丹波市山南町上滝では古墳時代の天皇である用明天皇から古文の語により賜って後に恐れ多いと考えて若林姓に改姓したと伝える。」


若林

「兵庫県丹波市山南町小野尻若林発祥。同地に分布あり」


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「丹波・丹後」太田亮


「勝岡氏、山畦黨の一」


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 姓氏辞典などの情報を総合すると


■ 「勝岡」氏という氏族がおり、一部が「若林」に変えている。

■ 彼らをして山畦党、と呼ぶらしい


ことがわかってくる。


 若林姓も、おなじ氷上郡山南町に分布するため、なんらかの関わりがあると考えてよいだろう。


 ところが、この「山畦党」あるいは「山畔党」がなにものなのか、どうも判然としない。



 姓氏家系大辞典的には「勝岡は天皇からもらった」とあるので、もしそれが本当なら苗字ではなく「本姓」ということになるが、まあ、そこらへんは話半分でとりあえず置いておこう。


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 さて、ここから雑多な周辺事項であるが、


① 「西脇市史」によると



 偶然の一致かわからないけれど「黒田庄方面の赤松・比延氏の分かれに勝岡氏がいる」らしい。

 当家当方、赤松とは関わりが深いので、勝岡の一部が赤松系になった、というのならそれもわからないではない。ただし、まだまだ保留。


② 姓氏家系大辞典・「荒熊」項



 摂津の「荒熊」氏のあとを継いだのが「若林隼人佐勝岡」という武将らしい。これも偶然かどうかわからないけれど、これは菟原郡、つまり現在の芦屋あたりの話ということになる。


 建武というのは鎌倉時代から南北朝にかけての時代で、「建武の新政」でおなじみの年号。


 この時期の芦屋に「若林・勝岡」という武将がいるというのが、気になるところである。


 このように、全体を通じてまだまだ「ふわっとした話」が続くのだが、なーんとなく、点と点を結ぶなにかがありそうに感じるのは、私だけだろうか。


 まて!次回!





2024年11月13日水曜日

【丹波原田氏の謎を解く02】  丹波原田氏は、九州系なのか?!

 

 丹波青田の原田氏のルーツについて、考察を深めてゆくこのシリーズ。前回は


 ■ 丹波原田氏は 天正年間の「種長」の書状を持っている

 ■ 摂津国能勢の原田氏は、鎌倉時代の「原田種長」の子孫を称している

 ■ 播磨の原田氏は明石大蔵谷に関わりがある

 ■ 原田種長は「九州・大蔵氏」の一族である


というあたりまで、まさに「アタリをつけた」くらいのところまで進んだ。


 まだ、この段階では話がざっくりとしすぎているが、大枠をまとめると「丹波・播磨・摂津の原田氏は、平安末期〜鎌倉期の有名人、大蔵春実の子孫なのではないか?ということになってくる。


  さて、このうち摂津・能勢原田氏については、なかなかおもしろい壮大なファンタジーになってくるので、いちおう先に押さえておこう。


 伝承によると、この能勢原田氏については、平氏が滅んだ時、藤原経房・原田種長・郡司景家らが壇ノ浦から安徳天皇を連れ出して、能勢まで連れてきて隠れ住んだ、というのである。


 その顛末は

https://www.mapple.net/articles/original/12299/


にもあるので、ぜひご一読いただきたい。


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 一方の丹波原田氏だが「栗作郷」における権益を認められたようだが、実はこの丹波国の栗作郷というのは、久下氏という一族の影響下にあった。

 https://tanba.jp/2019/06/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%82%E3%81%A4%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%A0%97%E3%80%8D/


久下氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuge_k.html


 久下氏は頼朝時代に丹波国栗郷庄を与えられているので、なるほど、九州系原田氏の活躍時期と近いといえば近い。しかし、それぞれ所領が全然違うエリアで遠いので、九州原田氏の子孫が久下氏の家臣となるようなことは、単純には想像しにくいところはあるだろう。


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 さて、大蔵姓原田氏にも「明石の大蔵谷に住んで」という説があるが、これは私もこじつけレベルの話だと考える。


https://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-harada.html


一貫して九州の御笠郡原田のほうが、整合性が高いだろう。


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 では播磨には原田がいなかったのか?というと太田亮も引用しているとおり、


” 伊賀判官、よつ引いて放しけるに、平九郎判官、持ちたりける弓の鳥打ち所をはたと射削りて、弓手の方に並んで控へたる、播磨国の住人・原田右馬允が頚の骨にあたる。馬より逆にをちて死ぬ。支へて射る矢、その仁には当たらず、傍なる者にあたりて死ぬ事、「定業、力及ばず」とぞ見えし。”


という記述が「承久記」にあるため、播磨に「原田右馬允」なる武将がいたらしい。




(ところが、別の系統の本では「播磨国の草田右馬允」となっているものがあるから留意したい)




「兵庫県史」 ”播磨の草田右馬允なるものが、京都守護伊賀光季に射られて戦死したと伝える。”




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 こうなってくると、もはや何がなんだかわからないので、実際の原田姓の分布を兵庫県内でみてみよう。


世帯数 地域名

23 兵庫県 加西市 満久町

14 兵庫県 加西市 北条町栗田

14 兵庫県 揖保郡太子町 老原

14 兵庫県 姫路市 林田町下伊勢

13 兵庫県 神戸市垂水区 西舞子

12 兵庫県 加西市 小印南町

12 兵庫県 加古川市 志方町投松

12 兵庫県 加古川市 野口町北野

11 兵庫県 尼崎市 尾浜町

11 兵庫県 城崎郡城崎町 桃島

11 兵庫県 尼崎市 東園田町

10 兵庫県 洲本市 上物部

10 兵庫県 洲本市 下加茂

10 兵庫県 加西市 北条町北条

10 兵庫県 篠山市 小野奥谷

10 兵庫県 加古川市 平岡町新在家

10 兵庫県 神戸市垂水区 塩屋町

10 兵庫県 津名郡津名町 生穂

10 兵庫県 明石市 魚住町西岡

10 兵庫県 明石市 大久保町大窪

10 兵庫県 尼崎市 武庫之荘

・・・

6 兵庫県氷上郡山南町青田



 ざっと上位から抜き出してみたが、数字はひとつの集落にまとまっている軒数である。

概観すると


■ 最多集団、大きい集団は加西方面にある。

■ 明石にもたしかに母集団がある。


といったことは言えそうだ。


 余談ながら丹波地域の篠山「小野奥谷」村については、近世初頭の文書に「原田備中」という名主層の名前が見られることから、この家も古い家柄だろうとは推定できる。


 しかし、全体を通して見ても、これらの原田が「九州系である」という雰囲気は、あまりイメージできない。


 ぶっちゃけ九州系を名乗るのは、能勢の原田氏くらいで、それ以外の播磨や丹波の原田氏は、いまの段階では


「ゼロベースで謎」


としか言えないのである。


 というわけで、この検証はまだまだ続くのであった!


2024年9月16日月曜日

【丹波原田氏の謎を解く01】 新シリーズ!今度は原田氏。

 

 これまでの調べで、丹波赤松系横尾氏の全貌についてはある程度明らかになったので、記録がてらおなじく丹波地域の原田氏について謎を解いてゆこう。


 原田、というのは私から見て祖父方の氏族だが、本拠は氷上郡青田村で、このエリアではかなりの古家として知られている。


「兵庫県史 史料編」


”原田文書 氷上郡山南町 青田原田政次氏所藏 | 天正四年十二月五日種長諸公事免除状”

”氷上郡山南町青田の原田政次氏の所蔵されている文書で、原田家の先祖と思われる原田右衛門大夫に宛てられた公事免許状である。原田家は江戸時代には庄屋を勤めていたということであるが、その他詳細については不明である”


「姓氏家系大辞典」


 「丹波志」にも記載がある氷上郡の名族、ということになっていて、下滝村の枝村である青田村にある旧家と書かれている。先祖はヒノキの曲げ物をつくり、上滝村から朝廷へ献上する器を作っていた」とされている。


 さて、ここで兵庫県史のほうに「種長」という人名が出てくるが、文書そのものを見てみると


”種長諸公事免除状 丹州氷上郡栗作之鄉、御供之工師、如先規、諸公事令免除者也、仍如件、

天正四年拾二月五日種長(花押) 原田右衛門大夫殿 竹鼻兵衛尉(包紙うわ書きか)

「檜物師 御藏」”



というものらしい。


 種長が花押を書いていて、原田右衛門大夫が、いわゆるこの地での原田家の祖と考えて良さそうだ。

 

 興味深いのは、姓氏家系大辞典のおなじ「原田氏」の次の項目である。22播磨原田氏、23丹波原田氏ときて24項に「摂津原田氏」についての説明があるのだが、



 どうやら摂津能勢郡にも原田氏がおり。「原田太夫種長」の子孫である、というのである。


 どうも種長とは、原田一族に深い関係がある人名らしい。


 ただし、青田原田氏に免状を書いた「種長」は天正年間、戦国時代の人だが、建保とは鎌倉時代で、ずいぶん年代が異なる。


 それでも太田亮としては「前二項の氏族は関係がある」としているので、能勢・氷上・播磨の原田は同族の可能性がある、というわけだ。


(「大阪府全志」 能勢郡大字野間出野の項

”原田種長の子孫と称するものに大字野間大原の原田氏あり”


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さて、この原田氏、「九郎義経の謎」1981・伊藤によると


「種長たちが、能勢の地へ来たのは偶然ではなく、種長の父原田種直の指示によるのである。」


とあり、


原田直種

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4


がルーツということになりそうだ。


 この原田氏は秋月氏などを出した筑前の大蔵系統で、大蔵春美が祖である。

 筑前御笠郡原田を拠点として「原田」の苗字が成立するわけである。直種自身は太宰少弐の役職に就いた。


 興味深いことにここで「播磨の原田氏」を見てみると、「明石の大蔵に住んだ」とある。この明石大蔵谷の大蔵と、九州の大蔵氏は語源的な混同がよく見られるので、なぜか「大蔵」が登場するあたり、太田亮としても


「なんかよくわからんけど、関係ありそう」


という直感が働いたのだろう(笑)



(つづく)

2023年2月20日月曜日

【26】 点と線 横尾村がもうひとつあった?

 

 兵庫県の横尾姓、特に丹波地域を中心とするものについて、 そのルーツの全容が見えてきたところであるが、ざっくり言えば

 

■ 播磨国加西郡横尾 (現在の加西市北条町横尾)

 

を苗字の地として、戦国時代に

 

■ 丹波国氷上郡小新屋 (現在の丹波市山南町小新屋)

 

にやってきたのが、”横尾四郎太夫正政”という武将だったという話である。

 

 ついでに

 

■ 天正11年に、横尾正政は、加西郡桑原村で亡くなった

 

という記録もあり、実際加西市桑原田には「横尾」姓の家があった。

 

 

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 ところが、面白いことに古記録を当たっていると

 

■ 多可郡横尾

 

という村があったらしいのである。

 

 

「兵庫県警察の誕生」草山・1984

” 多可郡の田高・明楽寺・横尾の各村 を結ぶ線以内とした。”

 

「神戸市史 第二巻」1921

”播磨國多可郡高明樂寺・横尾諸村迄とせり。”

 

 (田高は黒田庄・明楽寺は西脇である)

 

 

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 ところが、この村名、明治期の外国人居留地に関するものしか出てこない。

 

 

 「遊歩地域」

https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8A%E6%AD%A9%E5%8C%BA%E5%9F%9F 

 

”兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。”


 もしかすると横尾村についてのみは「加西郡」横尾のことを言っているのかもしれないが、要確認である。

 

 

 

 

 

 

2022年3月3日木曜日

【25】 横尾氏と笹倉氏 〜播磨笹倉氏は赤松系〜

 

 前回の記事で、すべての謎はほぼ解明され、兵庫県の「横尾氏」、特に播磨〜丹波の氏族についてそのルーツを述べることができた。

 

 今回はその補足、補完になるが、おなじ氷上郡における「笹倉氏」の動向を少しだけ確認しておきたい。

 

 さて、この記事を書いている私は、丹波横尾につながる子孫だが、近くに「笹倉」という名字が多く、知り合いや関わりがある。

 

 そこで、笹倉という苗字について分布を調べると、とてもおもしろいことがわかったのである。

 

 笹倉姓は、「兵庫」「富山」「大分」「青森」に大きなまとまりがある名字で、それぞれは別系統だろう。

 中でも兵庫県は200軒ほどあり、突出している。その次は120軒ばかり分布する富山だ。

 

 兵庫県の笹倉姓もおもしろい。その内訳は「多可郡中町」「西脇市」「黒田庄」「多可郡八千代」などに集中しており、そのほとんどが「多可郡」近辺にしかないと言ってよいくらいである。

 

 村ごとの母集団を見ると、以下のようになっている。

 

約40軒 多可郡中町中安田

約30軒 氷上郡山南町奥

約25軒 西脇市羽安

約25軒 西脇市野村

・・・以下ほとんど西脇市内の集落が続く。

 

 このように、笹倉氏は旧多可郡一帯に広がる氏族だが、突然「氷上郡」に大きなまとまりが見られるのだ。だからおなじ氷上郡の横尾氏の知り合いに笹倉氏が多いことと矛盾しないわけだ。


 実は丹波横尾氏の本拠である氷上郡小新屋村から、奥村は、直に隣接してはいないものの、その距離1キロ以下である。

 

 かなり近い位置に「横尾」の集団と「笹倉」の集団があることに気づかされる。

 

 

 では、「笹倉氏」の本拠、ルーツはどこか?

 

 これはもうすでに多数の論考があり、判明しているのだが、名字の由来は現在の「加西市笹倉町」である。


 場所は、そう!


 加西郡「在田」の500m南で、かつ加西郡「横尾」の500m東である。隣接地帯と言ってよい!

 

のであった。

 

 

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 実は笹倉は在田氏の本拠でもある。殿原城あるいは笹倉城と呼ばれる在田の城こそ、在田氏の本拠地であったから、当然笹倉氏も赤松系なのだ。

  

 殿原城は、赤松朝範とその子赤松範康の二代で滅んだのだが、その跡を継いだ「赤松兵庫頭弥四郎祐利」が笹倉城を改修して本拠とし、「笹倉氏」を名乗った。

 

 しかし、笹倉氏本流は、別所氏に組して三木合戦で秀吉軍に敗れ、子孫が近江長浜に逃れたことから「長浜氏」と改姓したという。

 のちに長浜氏は笹倉に戻り、現代にまで子孫が続いているらしい。

 

 とまあ、本家は長浜姓に変わっているが、笹倉一族が北播磨に大いに広がっているのは、こうした理由からであった。

 

 興味深いのは、大半の笹倉氏が多可郡近辺にいるのに対して、 氷上郡に移動したグループがあるということである。

 

 これは横尾氏の動きと非常に似ている。

 

 残念ながら横尾については、横尾を名乗った武将本人のみか、ごくわずかな親族しか氷上に移っていないと思われるが、笹倉は母集団から分かれて、これも数名が氷上に移っているのであろう。

 

 あるいは笹倉氏が氷上に移動した経緯などを参照してゆけば、横尾の動きも推測できるのではなかろうか。

 

 

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 さて、その氷上郡奥村には興味深い話がある。 奥村には「篠倉豊後守」なる人物がいて、その屋敷後があるというのだ。


丹波霧の里 さんの記事

 

http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm 

 

 残念なことに篠倉豊後守がどのような人物だったかは記録にないようだが、「横尾四郎太夫正政」と「篠倉(笹倉か)豊後守」という2人の武将が、播磨から丹波に入っていることは間違いなさそうだ。

 

 余談ながらこの近くには、三木別所氏が破れた後に丹波に入った「依藤氏」がいることも確認されている。

 どうも三木合戦の後、という時期が怪しい感じもする。

 

 

2022年3月1日火曜日

【24】 横尾氏と家紋 ~ 五三桐の謎を解明 ~

 

 丹波横尾氏のルーツについて、一気に解明が進んだ前回だが、家紋について補足しておきたい。

 

 当家横尾氏の家紋は、「五三桐」の桐紋である。十大家紋にも入っているのでポピュラーな家紋ではあるのだが、うちの親族の重鎮である叔母からは、


「豊臣秀吉にもらったんちゃう?」


という話を聞かされていた。


 たしかに、戦国期において、豊臣秀吉は恩賞として「桐紋」の使用をけっこう許可していたので、そうしたこともあるだろうとぼんやり考えていたが、だとすれば、天正前後において「丹波攻め」などで一定の功績があったか、丹波侵攻の武将(たとえば光秀など)との「絡み」があってしかるべきだろう、なんてことも思っていた。


 横尾四郎太夫(大夫)が、天正11年に死んだのであれば、旧来の丹波の支配者からではなく、織田方から一定の許可を得ていなければ話が合わない。

 

 三木城攻めは天正6年、八上城が落ちたのは天正7年である。

 和田の岩尾城が落ちたのも天正7年であり、おおむねこの前後に集中している。

 

  岩尾城の話で言えば、天正14年に木戸十乗坊(佐野下総守)が入っており、天正11年はちょうどその間のすっぽぬけた時期とも言える。

 

 木戸十乗坊は近江の人で、滋賀県大津市の木戸城に「佐野秀方」が確認できる。

https://masakishibata.wordpress.com/2015/09/12/kido/ 


 この人物は、前田玄以の家臣・光秀配下などを経て、豊臣方となったようだ。



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 さて、当初、丹波横尾氏の出自がまったく不明のおりには、この木戸氏や佐野氏などに従って、和田城下にやってきたものか?という推測をしていた。


 あるいはそれより以前の信濃出身「谷氏」(和田氏)の家臣だったのか?とも考えた。たしかに信濃には「横尾」の氏族がいるから、その想定はありえないわけではなかったのである。

 

 しかし、谷氏や木戸氏うんぬんはともかく、丹波は秀吉の支配下になったのであるから、そこでもし功績があれば、「桐紋」くらいは貰っていても不思議ではない、というのが当初の仮説であったわけだ。

 

 ところが、結果的にはまったく違う。家紋の由来はもっとそのものズバリで、「当初から、五三桐を使っていた」と考えて差し支えなさそうなのだ。

 

 

 なぜなら、赤松氏の家紋は「三つ巴/五三桐(五七桐)/両引」だからである!!

 

赤松氏

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F

 

 ウィキペディアにも桐紋(五七桐)のことは少し載っている。その詳細は、播磨屋さんのサイトに詳しい。

 

赤松氏の家紋

http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.html 


”『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。”

 

 つまり、朝廷から桐紋を賜り、将軍から両引紋を賜った、とされており、のちに巴紋も用いたというのである。

 

 余談ながら、丹波横尾氏と通婚があった多可郡野間の赤松氏は「三つ巴」紋を用いている。これは私から見ても叔父の家紋が三つ巴であり、墓所も確認しているので間違いない。

 

 こうした事情を総合して考えると、

 

 丹波横尾氏の桐紋は、赤松氏を示す

 

ということになる。 結果的には、まったくもって教科書通りのような、家紋の由来だったというわけだ。秀吉は関係なく、元から桐紋だったというのが真実だろう。