さて、ここのところしばらくは摂津の菟原郡に話が飛んでいたので、あらためて丹波原田氏の本拠である「栗作郷」について復習しておきたい。
「日本地名歴史大系」では
栗作郷
くりつくりごう
兵庫県:丹波国氷上郡栗作郷
「和名抄」高山寺本・名博本所載の郷。訓は「クリツクリ」。同書東急本にはみえない。「丹波志」によれば久下くげ谷一帯すなわち上滝かみたき・下滝・南嶋みなみじま・阿草あくさ・谷川たにがわ・山崎やまさき・金屋かなや・玉巻たまき・大河おおか・太田おおだ・池いけノ谷だに・岡本おかもと・北嶋の一三ヵ村を古くは栗作郷と称したという。この説に従えば郷域は現山南さんなん町東部となる。「住吉大社神代記」に「播磨国賀茂郡椅鹿山領地田畠」九万八千余町の四至の北限として「阿知万西岑・堀越・栗造・滝河・栗作・子奈位」とみえる。
としており、現在の丹波市山南町の南東部に相当する。JR福知山線の谷川駅〜下滝駅近辺と考えれば、おおむね間違いではない。
あるいは似た表現で「栗作庄」というのがあり、
栗作庄
くりつくりのしよう
兵庫県:氷上郡山南町栗作庄
篠山川流域に展開したと考えられる庄園。古代栗作郷(和名抄)を継承する。鎌倉時代は「栗作保」とよばれ、内侍所御殿に油二石ないし二石二斗を毎年七月に貢進することになっていた(元弘三年五月二四日「内蔵寮領等目録」・年欠「毎月朔日内侍所供神物并御殿油注文」山科家文書)。保内に蔵人所が所管する栗作御薗が古くからあり、供御人が四足の桶に入った栗一荷を毎年九月に備進した(「山槐記」応保元年九月九日条)。南北朝期以降は禁裏御服料所「栗作庄」とよばれるが(貞治四年正月一八日「室町幕府奉行人連署奉書」古文書集)、旧来の保を継承したものであろう。領家職は応安七年(一三七四)一一月三日宝池院光助に宛行われたが(柳原家記録)、応永三二年(一四二五)閏六月三日京都天龍寺塔頭金剛院に宛行われ(「足利義持御判御教書」鹿王院文書)、永享七年(一四三五)、長禄二年(一四五八)、文明一〇年(一四七八)に当知行等の安堵がなされている(永享七年二月二一日「足利義教御判御教書」、長禄二年三月一五日・文明一〇年五月二八日「足利義政御判御教書」同文書)。
鎌倉時代には「栗作保」となっていたようだ。
この栗作エリアで史的に最も有名なのは新補地頭の「久下氏」で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%8B%E6%B0%8F
清和源氏と称した武蔵国大里郡久下郷に本拠を持つ一族が、源平の争乱や承久の乱の後に丹波栗作郷へやってきたという。
そののち丹波の国人領主となり、室町幕府の奉行衆にもなった。しかしのちに所領の多くを失い、明智光秀の丹波攻めで領主の地位を追われている。
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とまあ、こうした経緯で中世の大半の時期は栗作郷と言えば「久下氏」との関わりが第一番にでてきて、いまでもこの地域には久下小学校があるくらいである。
そうなのだが、おそらく久下氏登場以前の状況として「勝岡・若林」一族が、この地の権力者であったことは想像に難くない。ましてや天正4年の原田氏への「諸公示令免除」の書状があることから、原田氏も含めてこのあたりの「旧来の地場勢力」であったことは疑いがないと思われる。
関連事項として「世界大百科辞典」より
栗作御薗 (くりつくりのみその)
中世,天皇に栗を備進した園地で,とくに丹波甘栗御薗,山城田原御栗栖(みくるす)は有名である。蔵人所(くろうどどころ)の所管に属し,御薗には御栗栖司が補任され,備進に従う者を栗供御人といった。毎年旧暦9月には丹波甘栗御薗から四足の桶に入った栗1荷が,五節(ごせち)(旧暦11月)には田原供御所から甘栗30籠がもたらされる例であった。その源流は,令制下の宮内省園池司で樹果の種殖に従った園戸にあると考えられる。彼らは供御を備進する一方で,交通・交易上の特権を保障され自己の商業に従った。1392年(元中9・明徳3)9月,丹波栗作御薗供御人らは,自分らは往古より蔵人所の一円進止(支配)下で供御役を備進し,他より干渉されることはなかったにもかかわらず,先日栗売買のため出京したところ,路次において,山科家の使や御厨子所(みずしどころ)の使など新座の輩が,栗駄別に用途を懸け,腰刀まで奪い取ってしまったので,かかる妨害を停止して欲しい,と訴えている。
を挙げておこう。もともとこの地域はその名もズバリ「栗作郷」と呼ばれるように「天皇に栗を献上するエリア」として特化していた。
そのため、その任務につく者たちが現地で権力を得ていったわけである。原田氏の伝承では(丹波志)、栗を入れる器を作る権益についても綸旨を持っている、ということになっている。
ほぼ間違いなく、勝岡・若林・原田の諸氏は御栗栖司や栗供御人を発祥としているだろう。
その源流が「用明天皇時代から」というのだから、その歴史は古い。
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さて、実は太田亮の「丹波・丹後」には興味深い記述がある。
これらの項目は氷上郡の姓氏について列挙したものだが、
■ 植木氏 用明天皇が行幸のおり、宿を提供し、栗を献上したため、その屋敷の植木栗をもって「植木」の名を賜った
■ 山畦一党 本名は若林氏 用明天皇が泊まった。
■ 原田氏 古家
■ 勝岡氏 山畦党の一
ということが書かれている。
つまり、勝岡・若林系以外に、もうひとつ「植木」という一族も用明天皇と関係しており、なおかつ栗を献上して姓を貰っているのである。
これで、栗グループが4氏になったわけだ。
思うにこれらはみな同一の系譜上に位置している可能性が非常に高いのである。
捕捉であるが、「姓氏家系大辞典」では植木を氷上郡鴨野村の氏族としている(出典は丹波志)
実は鴨野村は現在の柏原町鴨野という地域で、栗作郷からは少し離れている。けして隣接地域などではないのだが、ここにもポイントがある。
「氷上郡志」の上滝村の項目に注目したい。
「篠山川に稚児ヶ淵・鯉竃・鞍ヶ淵・植木等の名所旧跡有り」
と書かれている。
たしかに現存氏族としての植木氏は鴨野村にいるが、上滝に「植木」という地名があることがわかると一気に話が違ってくる。原田氏も上滝出身であることが丹波志に書かれているので、これで
「勝岡・若林・原田・植木」はすべて上滝出身の氏族
ということが判明したわけだ。あるいは全部、根っこをたどれば同族なのではなかろうか。
(医師の植木一族は山南町小畑に住んでおり、和田村にもおなじ系統がいる。実は横尾氏はこのほぼ隣接するエリアの小新屋にいるから、ここでも近しい位置にいることになる。偶然かもしれないが、横尾と原田の通婚から考えると、いったいこの氏族ネットワークはどういう情報網なのか、不可思議で仕方がない。おそらく中世においては、どの氏族がどこへ移動しているのかは、ほぼすべて「互いに」わかっていたのではないだろうか。)
(つづく)