2024年11月17日日曜日

【丹波原田氏の謎を解く06】 栗作郷とはどういう地域なのか 新氏族「植木」氏登場!

 

 さて、ここのところしばらくは摂津の菟原郡に話が飛んでいたので、あらためて丹波原田氏の本拠である「栗作郷」について復習しておきたい。


 「日本地名歴史大系」では


栗作郷

くりつくりごう

兵庫県:丹波国氷上郡栗作郷

「和名抄」高山寺本・名博本所載の郷。訓は「クリツクリ」。同書東急本にはみえない。「丹波志」によれば久下くげ谷一帯すなわち上滝かみたき・下滝・南嶋みなみじま・阿草あくさ・谷川たにがわ・山崎やまさき・金屋かなや・玉巻たまき・大河おおか・太田おおだ・池いけノ谷だに・岡本おかもと・北嶋の一三ヵ村を古くは栗作郷と称したという。この説に従えば郷域は現山南さんなん町東部となる。「住吉大社神代記」に「播磨国賀茂郡椅鹿山領地田畠」九万八千余町の四至の北限として「阿知万西岑・堀越・栗造・滝河・栗作・子奈位」とみえる。


としており、現在の丹波市山南町の南東部に相当する。JR福知山線の谷川駅〜下滝駅近辺と考えれば、おおむね間違いではない。


あるいは似た表現で「栗作庄」というのがあり、


栗作庄

くりつくりのしよう


兵庫県:氷上郡山南町栗作庄

篠山川流域に展開したと考えられる庄園。古代栗作郷(和名抄)を継承する。鎌倉時代は「栗作保」とよばれ、内侍所御殿に油二石ないし二石二斗を毎年七月に貢進することになっていた(元弘三年五月二四日「内蔵寮領等目録」・年欠「毎月朔日内侍所供神物并御殿油注文」山科家文書)。保内に蔵人所が所管する栗作御薗が古くからあり、供御人が四足の桶に入った栗一荷を毎年九月に備進した(「山槐記」応保元年九月九日条)。南北朝期以降は禁裏御服料所「栗作庄」とよばれるが(貞治四年正月一八日「室町幕府奉行人連署奉書」古文書集)、旧来の保を継承したものであろう。領家職は応安七年(一三七四)一一月三日宝池院光助に宛行われたが(柳原家記録)、応永三二年(一四二五)閏六月三日京都天龍寺塔頭金剛院に宛行われ(「足利義持御判御教書」鹿王院文書)、永享七年(一四三五)、長禄二年(一四五八)、文明一〇年(一四七八)に当知行等の安堵がなされている(永享七年二月二一日「足利義教御判御教書」、長禄二年三月一五日・文明一〇年五月二八日「足利義政御判御教書」同文書)。


鎌倉時代には「栗作保」となっていたようだ。


 この栗作エリアで史的に最も有名なのは新補地頭の「久下氏」で、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%8B%E6%B0%8F


清和源氏と称した武蔵国大里郡久下郷に本拠を持つ一族が、源平の争乱や承久の乱の後に丹波栗作郷へやってきたという。


 そののち丹波の国人領主となり、室町幕府の奉行衆にもなった。しかしのちに所領の多くを失い、明智光秀の丹波攻めで領主の地位を追われている。


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 とまあ、こうした経緯で中世の大半の時期は栗作郷と言えば「久下氏」との関わりが第一番にでてきて、いまでもこの地域には久下小学校があるくらいである。


 そうなのだが、おそらく久下氏登場以前の状況として「勝岡・若林」一族が、この地の権力者であったことは想像に難くない。ましてや天正4年の原田氏への「諸公示令免除」の書状があることから、原田氏も含めてこのあたりの「旧来の地場勢力」であったことは疑いがないと思われる。


 関連事項として「世界大百科辞典」より


栗作御薗 (くりつくりのみその)


中世,天皇に栗を備進した園地で,とくに丹波甘栗御薗,山城田原御栗栖(みくるす)は有名である。蔵人所(くろうどどころ)の所管に属し,御薗には御栗栖司が補任され,備進に従う者を栗供御人といった。毎年旧暦9月には丹波甘栗御薗から四足の桶に入った栗1荷が,五節(ごせち)(旧暦11月)には田原供御所から甘栗30籠がもたらされる例であった。その源流は,令制下の宮内省園池司で樹果の種殖に従った園戸にあると考えられる。彼らは供御を備進する一方で,交通・交易上の特権を保障され自己の商業に従った。1392年(元中9・明徳3)9月,丹波栗作御薗供御人らは,自分らは往古より蔵人所の一円進止(支配)下で供御役を備進し,他より干渉されることはなかったにもかかわらず,先日栗売買のため出京したところ,路次において,山科家の使や御厨子所(みずしどころ)の使など新座の輩が,栗駄別に用途を懸け,腰刀まで奪い取ってしまったので,かかる妨害を停止して欲しい,と訴えている。


を挙げておこう。もともとこの地域はその名もズバリ「栗作郷」と呼ばれるように「天皇に栗を献上するエリア」として特化していた。

 そのため、その任務につく者たちが現地で権力を得ていったわけである。原田氏の伝承では(丹波志)、栗を入れる器を作る権益についても綸旨を持っている、ということになっている。

 ほぼ間違いなく、勝岡・若林・原田の諸氏は御栗栖司や栗供御人を発祥としているだろう。

 その源流が「用明天皇時代から」というのだから、その歴史は古い。


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 さて、実は太田亮の「丹波・丹後」には興味深い記述がある。





 これらの項目は氷上郡の姓氏について列挙したものだが、


■ 植木氏 用明天皇が行幸のおり、宿を提供し、栗を献上したため、その屋敷の植木栗をもって「植木」の名を賜った

■ 山畦一党 本名は若林氏 用明天皇が泊まった。

■ 原田氏 古家

■ 勝岡氏 山畦党の一


ということが書かれている。


 つまり、勝岡・若林系以外に、もうひとつ「植木」という一族も用明天皇と関係しており、なおかつ栗を献上して姓を貰っているのである。


 これで、栗グループが4氏になったわけだ。


 思うにこれらはみな同一の系譜上に位置している可能性が非常に高いのである。


 捕捉であるが、「姓氏家系大辞典」では植木を氷上郡鴨野村の氏族としている(出典は丹波志)



 実は鴨野村は現在の柏原町鴨野という地域で、栗作郷からは少し離れている。けして隣接地域などではないのだが、ここにもポイントがある。


「氷上郡志」の上滝村の項目に注目したい。



「篠山川に稚児ヶ淵・鯉竃・鞍ヶ淵・植木等の名所旧跡有り」


と書かれている。


 たしかに現存氏族としての植木氏は鴨野村にいるが、上滝に「植木」という地名があることがわかると一気に話が違ってくる。原田氏も上滝出身であることが丹波志に書かれているので、これで


「勝岡・若林・原田・植木」はすべて上滝出身の氏族


ということが判明したわけだ。あるいは全部、根っこをたどれば同族なのではなかろうか。


(医師の植木一族は山南町小畑に住んでおり、和田村にもおなじ系統がいる。実は横尾氏はこのほぼ隣接するエリアの小新屋にいるから、ここでも近しい位置にいることになる。偶然かもしれないが、横尾と原田の通婚から考えると、いったいこの氏族ネットワークはどういう情報網なのか、不可思議で仕方がない。おそらく中世においては、どの氏族がどこへ移動しているのかは、ほぼすべて「互いに」わかっていたのではないだろうか。)



(つづく)

2024年11月16日土曜日

【丹波原田氏の謎を解く05】 神戸・菟原郡の若林家由緒を探る

 

 前回までの調査で、「丹波地域の若林(勝岡)氏と、神戸・菟原郡の若林氏が同一系統なのではないか?」という仮説に至った。


 どちらも先祖を「用明天皇の時代の人」としており、若林・勝岡の語を用いている。また菟原郡若林氏には村上源氏末裔の説もあり、また別に西脇・比延に赤松系勝岡氏が存在することなどを総合すると、これらの点と点は、なんらかの線で繋がっているのではないか?と考えるに至ったわけである。


 さて、若林家の由緒では、「用明天皇の家来である、菅美高根庄右部之大臣家臣・佐高菅巳之進友成の兄弟である嚴藤太夫重則」を先祖としている。

 この人物が勅命で厳島神社に行って仕事をしてきたので、菟原に根付いたのだ、という説明になっているのである。


 実はこの話、別のところでも見ることができる。

https://jinja-net.jp/jinja-all/jsearch3all.php?jinjya=5138


それは、兵庫県神戸市灘区篠原北町3-16-7にある厳島神社の社伝で、

『原此地は荒熊武蔵守の居城の乾角也、落城の後姓を竹原と白ふ呼村名を篠原と云ふ。村中産土神、人皇三十二代用明天皇の御官士菅美高根庄右部之大臣家臣佐高菅巳之進、友成兄弟嚴藤太夫重則従天子藝州嚴嶋神社へ御宣有之帰宮の後此所に市杵島姫命奉安置勧請年暦不祥又古老之申傳云、福原新都の節布引の瀧より夜々光り物之有るを清盛公より仰越中次郎兵衛盛純此を対峙する所、白玉を頂きたる大龍なり、此の白玉を執て此所に安置し奉り市杵島姫命と奉称し産土神と奉尊すと云ふ。』

ということになっている。


これを素直に解釈すると厳藤太夫重則が行ったことは「厳島神社を勧請すること」であり、彼が用明天皇時代に厳島神社を持ち帰ったのでそれがここにある、という伝承がまず存在することがわかる。


加えて第二の伝承があり、それは福原京の時代に越中次郎兵衛盛純が龍と対決して、その玉を安置して市杵島姫命として祀った、ということが示されている。

(厳島神社とは、そもそも市杵島姫命と同一)


 ちなみに越中次郎兵衛盛純は、平家の武将であろう。「越中次郎兵衛盛嗣」という武将は有名人であるが・・・。


平盛嗣

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3


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 さて、佐高という苗字は日本にはごく少なく、愛知県などにわずかに分布がみられるのみである。一説には「佐竹の転」という話もあり、実態がよくわからない。


 しかし「佐高菅巳之進」や「厳藤太夫重則」という人名は、あきらかに用明天皇の時代のものではないので、「用明天皇の時代」ということばと、「厳島神社に関係した人物」の年代は別と考えるのが妥当であろう。


 そうすると若林家は、こうした厳島神社の勧請者と、自身のルーツを繋げているのだと思われる。これは「誤り」を含んでいるという意味ではなく、姻戚関係を繰り返しているので、厳島神社系統の先祖もいるし、若林系の先祖もいる、ということと考えれば、とくに不自然ではないだろう。


 とすればあらためて「なぜ用明天皇」なのかが、気になってくるわけだ。よほどこの若林一族には丹波も菟原も「用明天皇の時代」に記憶や伝承のこだわりがあると見えるのである。


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 さてここで、太田亮の「摂津」をみてみよう。







 さすが太田亮だけあって、厳藤太夫系の伝承も、赤松系の伝承もどちらも拾い出している。おそらくまさにこの通りで、2つの系統が姻戚して構成されていったのが、若林氏なのかもしれない。

(しかし、個人的には若林氏が用明天皇にこだわるのは、丹波系の伝承を受け継いでいるからで、菟原に来てから厳島神社の勧請主の家系と繋がっていったのだと思われる。そして、やってきた当の人物は赤松系なのだろう)


 話はとくに矛盾するわけではないのである。



 次回へ続く。

2024年11月15日金曜日

【丹波原田氏の謎を解く04】点と点をつなぐ謎の赤松の糸 勝岡氏に新たな真実!

 

 前回までの話で、


 ■ 丹波原田氏は、栗に関係する氏族で、

 ■ 彼らの本村に当たる「上滝」村には「勝岡/若林氏」という一族がおり、

 ■ この3者には共通して「朝廷からのなんらかの許可と、栗づくり」に関しての話が伝わっている

 ■ 勝岡氏には、赤松・比延系の氏族がある

 ■ 鎌倉時代末期に芦屋にもいる


というところまでバラバラの点を集めてきたわけである。


 ところがここに来て、面白い情報が見つかった。それは鎌倉時代から南北朝時代にかけて芦屋にいたらしい「若林隼人佐勝岡」という武将の件であるが、


「神戸古今の姿」岡久彀三郎 昭和4


によると



 荒熊氏の後釜として入り込んだ「若林隼人佐勝岡」は、「村上源氏」だというのである!


 なおかつこの話は、いまの神戸大学の敷地が「赤松城」である、ということと連動しているため、


https://www.city.kobe.lg.jp/c63604/kuyakusho/nadaku/shokai/miryoku/hyakusen/hyakusennokaisisekiikou.html


 これはもう、前回の話やこれまでの話が連動している、と考えてよいだろう。


 つまり


■ 赤松系勝岡・若林氏がいる

■ 比延の一族ともつながり、芦屋にいた武将も赤松に送り込まれており、

■ 若林隼人佐勝岡は、村上源氏=つまり赤松系である


とここまではスッキリ繋がったのである!!ひえー!!


 そうすると、


■ うちの実家の横尾が、野間の赤松氏と通婚したり、青田の原田と通婚しているのは、

■ 全部赤松氏族内での通婚である


とも言えるのではないだろうか???


 これは思っていたよりも、すごいというか恐ろしい話になってきたのだ。


 もちろん、勝岡氏の伝承によれば、その本姓の成り立ちは、「赤松円心登場より遥かに古い」ということになる。


 用明天皇は古墳時代の人で、推古天皇の兄なので、聖徳太子時代の人である。

 赤松氏が仮に本当に村上源氏であったとしても、村上天皇は平安時代の人なので、勝岡の発祥のほうがはるかに古いことになるわけだ。

 ただ、勝岡・若林の名跡については、どこかの段階で姻戚関係などを通じて「赤松化」した可能性が十分にありそうだ。


 もちろん、原田と「勝岡・若林」を直接的につなぐ線はまだないが、「伝承の上では同一の系譜」を持っていることは確かである。


 その意味では、播磨から丹波にかけて(当然摂津も含むが)の「赤松系ネットワーク」のすごさに、あらためて驚かざるを得ないのだ。


 なんなんだこれは!という感じである。



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(捕捉) 摂津若林氏に伝承があるようなので、引用したい。



■ 祥 龍 寺さんのサイトより

http://shoryuji.d.dooo.jp/jishi.htm


「「西摂大観」に「若林家由緒書」が明らかにされているので、その中から祥龍寺関係と、一部興味深いものを掲載する。

 「保元の頃(1156年)篠原村北山に荒熊武蔵守興定城をかまえ、落城の後若林隼人尉範房茲に居城す」と云う。「恐らく祥龍廃寺後の山嶺稍々夷かな所、北山城址ならん」とあるので今の牛小屋山から伯母野の辺であろう。」



■ 「西摂大観」より 若林家の由緒





 用明天皇の時代の朝臣、佐高菅巳之進友成の御兄弟である厳藤太夫重則が先祖。
 安芸の厳島明神に天子の命令で願いに行き、無事に任務を果たして帰ってきたので、菟原郡の郡家、今の南荘を賜った。

 その子孫が若林隼人尉範房で、保元の頃、荒熊武蔵守に代わって北山の城主となった。

 略系譜があり、十九代中祖「勝岡・若林隼人尉 応永八年七月二十五日死去 ー 秀勝 ー 満秀 ー(以下略)」とある。


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 ここで気になる箇所は、やはり「用明天皇が出てきた」ということである。以前から書いているとおり、用明天皇というのは古墳時代の人なので、通常の先祖伝承では、あまりここまで古い人についての話は出てこない。ところが、丹波上滝の勝岡氏も「用明天皇」を出してきているし、離れた二つの家で似たような伝承があるところ見ると、用明天皇がらみはおそらく何らかの史実を反映しているのであろう。


 また、若林家の伝承では「勝岡」を人名のように見立てている。そこで「秀勝」「満秀」と継いでそれっぽく繋いでいるが、勝岡ということばが「本姓」であったことは失われている可能性がある、と考えると面白い。

 あるいは「範房」という人名も、赤松系の通字を思わせる雰囲気がある。

 厳島神社については、推古天皇593年の創建の社伝があるが、用明天皇は587年に亡くなっているため、微妙にズレがある。

 安芸国の豪族である佐伯氏が建てた神社であるため、その頃になんらかの使いが朝廷から出たことを反映しているとは思うが、菟原郡に根付いた理由を創作したものではなかろうか。


 年代についても微妙な誤認があるが、保元頃(1156〜)から北山城主だった荒武氏から若林氏に代わったのは建武年間(1338〜)であり、応永年間(1394〜)に勝岡が死去したことを考えると、範房と勝岡はほぼ同時期の人で、1代か2代くらいのズレを含む可能性もあるだろう。


 古墳時代(587)から1156まで約600年間、痕跡がみえないことを考えれば、実態としての若林氏は、丹波で発祥していても不思議ではなく、赤松系と合流してまさに赤松円心の派閥として送り込まれた可能性が高いと考える。

 「厳藤太夫重則」という人名も、なかなか面白い。厳島神社とつなぐ雰囲気があるし、「則」の字もまた赤松系を思わせる。

 途切れ途切れの伝承を、うまくつなぎ合わせて由緒を書いた感じが出ていて、それでも真実をできるだけ拾おうとしている感じが伝わってきて、好感が持てる。

(むちゃくちゃ創作したな、という感じではなく、一生懸命さが伝わる由緒書きであろう)


 実態を反映すれば、若林家とは、やはりのちには赤松系となっており、建武頃に摂津菟原に根付いたのであろう。ただ、ほんとうに用明天皇の時代から続く家柄だ、という言い伝えは持っていて、「若林」と「勝岡」のことばや、厳島神社ともなんらかの関係があった人物が途中にいたのかもしれない。


 



2024年11月14日木曜日

【丹波原田氏の謎を解く03】 山畔党と原田氏


 さて、丹波原田氏のルーツについて、「能勢」や「播磨」などと比較しながら、これまでは「ふわっとした」話を見てきたわけだが、まだまだはっきりとしたルーツは見えてこない。


 ところで、ここで一旦「原田」という言葉を追いかけるのをやめて、氷上郡の青田村周辺を探ってゆくと、興味深い事実に行き当たるのであった。


 それは、 「丹波志」によれば


■ 原田氏は上滝村から来た。

■ 上滝村には「山畔氏一党」(山畔一党)というグループがおり

■ もと勝岡氏 いま若林氏を名乗っている。

■ 実はこの勝岡・若林にも、栗の献上についての伝承や、朝廷・天皇からの権益の話が残っている。

■ むしろ栗作郷の伝承の元ネタはこちら。


 という大きなポイントである。


 繰り返しになるが、青田村の原田氏は「栗作り、あるいは栗の入れ物作り」について何らかの許可をもらっていた可能性が高いのだが、青田村というより、そもそも本村に相当する上滝村に置いては、おなじように「栗作りについて権益を許可された、勝岡・若林グループ」というのが存在するのである。


 そして、このエリア一帯が「栗作郷」と呼ばれている原因こそが、この「勝岡氏」「若林氏」の存在につながるというのである!


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「日本姓氏語源辞典」


勝岡

「兵庫県丹波市山南町上滝では古墳時代の天皇である用明天皇から古文の語により賜って後に恐れ多いと考えて若林姓に改姓したと伝える。」


若林

「兵庫県丹波市山南町小野尻若林発祥。同地に分布あり」


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「丹波・丹後」太田亮


「勝岡氏、山畦黨の一」


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 姓氏辞典などの情報を総合すると


■ 「勝岡」氏という氏族がおり、一部が「若林」に変えている。

■ 彼らをして山畦党、と呼ぶらしい


ことがわかってくる。


 若林姓も、おなじ氷上郡山南町に分布するため、なんらかの関わりがあると考えてよいだろう。


 ところが、この「山畦党」あるいは「山畔党」がなにものなのか、どうも判然としない。



 姓氏家系大辞典的には「勝岡は天皇からもらった」とあるので、もしそれが本当なら苗字ではなく「本姓」ということになるが、まあ、そこらへんは話半分でとりあえず置いておこう。


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 さて、ここから雑多な周辺事項であるが、


① 「西脇市史」によると



 偶然の一致かわからないけれど「黒田庄方面の赤松・比延氏の分かれに勝岡氏がいる」らしい。

 当家当方、赤松とは関わりが深いので、勝岡の一部が赤松系になった、というのならそれもわからないではない。ただし、まだまだ保留。


② 姓氏家系大辞典・「荒熊」項



 摂津の「荒熊」氏のあとを継いだのが「若林隼人佐勝岡」という武将らしい。これも偶然かどうかわからないけれど、これは菟原郡、つまり現在の芦屋あたりの話ということになる。


 建武というのは鎌倉時代から南北朝にかけての時代で、「建武の新政」でおなじみの年号。


 この時期の芦屋に「若林・勝岡」という武将がいるというのが、気になるところである。


 このように、全体を通じてまだまだ「ふわっとした話」が続くのだが、なーんとなく、点と点を結ぶなにかがありそうに感じるのは、私だけだろうか。


 まて!次回!





2024年11月13日水曜日

【丹波原田氏の謎を解く02】  丹波原田氏は、九州系なのか?!

 

 丹波青田の原田氏のルーツについて、考察を深めてゆくこのシリーズ。前回は


 ■ 丹波原田氏は 天正年間の「種長」の書状を持っている

 ■ 摂津国能勢の原田氏は、鎌倉時代の「原田種長」の子孫を称している

 ■ 播磨の原田氏は明石大蔵谷に関わりがある

 ■ 原田種長は「九州・大蔵氏」の一族である


というあたりまで、まさに「アタリをつけた」くらいのところまで進んだ。


 まだ、この段階では話がざっくりとしすぎているが、大枠をまとめると「丹波・播磨・摂津の原田氏は、平安末期〜鎌倉期の有名人、大蔵春実の子孫なのではないか?ということになってくる。


  さて、このうち摂津・能勢原田氏については、なかなかおもしろい壮大なファンタジーになってくるので、いちおう先に押さえておこう。


 伝承によると、この能勢原田氏については、平氏が滅んだ時、藤原経房・原田種長・郡司景家らが壇ノ浦から安徳天皇を連れ出して、能勢まで連れてきて隠れ住んだ、というのである。


 その顛末は

https://www.mapple.net/articles/original/12299/


にもあるので、ぜひご一読いただきたい。


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 一方の丹波原田氏だが「栗作郷」における権益を認められたようだが、実はこの丹波国の栗作郷というのは、久下氏という一族の影響下にあった。

 https://tanba.jp/2019/06/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%82%E3%81%A4%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%A0%97%E3%80%8D/


久下氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuge_k.html


 久下氏は頼朝時代に丹波国栗郷庄を与えられているので、なるほど、九州系原田氏の活躍時期と近いといえば近い。しかし、それぞれ所領が全然違うエリアで遠いので、九州原田氏の子孫が久下氏の家臣となるようなことは、単純には想像しにくいところはあるだろう。


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 さて、大蔵姓原田氏にも「明石の大蔵谷に住んで」という説があるが、これは私もこじつけレベルの話だと考える。


https://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-harada.html


一貫して九州の御笠郡原田のほうが、整合性が高いだろう。


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 では播磨には原田がいなかったのか?というと太田亮も引用しているとおり、


” 伊賀判官、よつ引いて放しけるに、平九郎判官、持ちたりける弓の鳥打ち所をはたと射削りて、弓手の方に並んで控へたる、播磨国の住人・原田右馬允が頚の骨にあたる。馬より逆にをちて死ぬ。支へて射る矢、その仁には当たらず、傍なる者にあたりて死ぬ事、「定業、力及ばず」とぞ見えし。”


という記述が「承久記」にあるため、播磨に「原田右馬允」なる武将がいたらしい。




(ところが、別の系統の本では「播磨国の草田右馬允」となっているものがあるから留意したい)




「兵庫県史」 ”播磨の草田右馬允なるものが、京都守護伊賀光季に射られて戦死したと伝える。”




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 こうなってくると、もはや何がなんだかわからないので、実際の原田姓の分布を兵庫県内でみてみよう。


世帯数 地域名

23 兵庫県 加西市 満久町

14 兵庫県 加西市 北条町栗田

14 兵庫県 揖保郡太子町 老原

14 兵庫県 姫路市 林田町下伊勢

13 兵庫県 神戸市垂水区 西舞子

12 兵庫県 加西市 小印南町

12 兵庫県 加古川市 志方町投松

12 兵庫県 加古川市 野口町北野

11 兵庫県 尼崎市 尾浜町

11 兵庫県 城崎郡城崎町 桃島

11 兵庫県 尼崎市 東園田町

10 兵庫県 洲本市 上物部

10 兵庫県 洲本市 下加茂

10 兵庫県 加西市 北条町北条

10 兵庫県 篠山市 小野奥谷

10 兵庫県 加古川市 平岡町新在家

10 兵庫県 神戸市垂水区 塩屋町

10 兵庫県 津名郡津名町 生穂

10 兵庫県 明石市 魚住町西岡

10 兵庫県 明石市 大久保町大窪

10 兵庫県 尼崎市 武庫之荘

・・・

6 兵庫県氷上郡山南町青田



 ざっと上位から抜き出してみたが、数字はひとつの集落にまとまっている軒数である。

概観すると


■ 最多集団、大きい集団は加西方面にある。

■ 明石にもたしかに母集団がある。


といったことは言えそうだ。


 余談ながら丹波地域の篠山「小野奥谷」村については、近世初頭の文書に「原田備中」という名主層の名前が見られることから、この家も古い家柄だろうとは推定できる。


 しかし、全体を通して見ても、これらの原田が「九州系である」という雰囲気は、あまりイメージできない。


 ぶっちゃけ九州系を名乗るのは、能勢の原田氏くらいで、それ以外の播磨や丹波の原田氏は、いまの段階では


「ゼロベースで謎」


としか言えないのである。


 というわけで、この検証はまだまだ続くのであった!


2024年9月16日月曜日

【丹波原田氏の謎を解く01】 新シリーズ!今度は原田氏。

 

 これまでの調べで、丹波赤松系横尾氏の全貌についてはある程度明らかになったので、記録がてらおなじく丹波地域の原田氏について謎を解いてゆこう。


 原田、というのは私から見て祖父方の氏族だが、本拠は氷上郡青田村で、このエリアではかなりの古家として知られている。


「兵庫県史 史料編」


”原田文書 氷上郡山南町 青田原田政次氏所藏 | 天正四年十二月五日種長諸公事免除状”

”氷上郡山南町青田の原田政次氏の所蔵されている文書で、原田家の先祖と思われる原田右衛門大夫に宛てられた公事免許状である。原田家は江戸時代には庄屋を勤めていたということであるが、その他詳細については不明である”


「姓氏家系大辞典」


 「丹波志」にも記載がある氷上郡の名族、ということになっていて、下滝村の枝村である青田村にある旧家と書かれている。先祖はヒノキの曲げ物をつくり、上滝村から朝廷へ献上する器を作っていた」とされている。


 さて、ここで兵庫県史のほうに「種長」という人名が出てくるが、文書そのものを見てみると


”種長諸公事免除状 丹州氷上郡栗作之鄉、御供之工師、如先規、諸公事令免除者也、仍如件、

天正四年拾二月五日種長(花押) 原田右衛門大夫殿 竹鼻兵衛尉(包紙うわ書きか)

「檜物師 御藏」”



というものらしい。


 種長が花押を書いていて、原田右衛門大夫が、いわゆるこの地での原田家の祖と考えて良さそうだ。

 

 興味深いのは、姓氏家系大辞典のおなじ「原田氏」の次の項目である。22播磨原田氏、23丹波原田氏ときて24項に「摂津原田氏」についての説明があるのだが、



 どうやら摂津能勢郡にも原田氏がおり。「原田太夫種長」の子孫である、というのである。


 どうも種長とは、原田一族に深い関係がある人名らしい。


 ただし、青田原田氏に免状を書いた「種長」は天正年間、戦国時代の人だが、建保とは鎌倉時代で、ずいぶん年代が異なる。


 それでも太田亮としては「前二項の氏族は関係がある」としているので、能勢・氷上・播磨の原田は同族の可能性がある、というわけだ。


(「大阪府全志」 能勢郡大字野間出野の項

”原田種長の子孫と称するものに大字野間大原の原田氏あり”


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さて、この原田氏、「九郎義経の謎」1981・伊藤によると


「種長たちが、能勢の地へ来たのは偶然ではなく、種長の父原田種直の指示によるのである。」


とあり、


原田直種

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4


がルーツということになりそうだ。


 この原田氏は秋月氏などを出した筑前の大蔵系統で、大蔵春美が祖である。

 筑前御笠郡原田を拠点として「原田」の苗字が成立するわけである。直種自身は太宰少弐の役職に就いた。


 興味深いことにここで「播磨の原田氏」を見てみると、「明石の大蔵に住んだ」とある。この明石大蔵谷の大蔵と、九州の大蔵氏は語源的な混同がよく見られるので、なぜか「大蔵」が登場するあたり、太田亮としても


「なんかよくわからんけど、関係ありそう」


という直感が働いたのだろう(笑)



(つづく)

2023年2月20日月曜日

【26】 点と線 横尾村がもうひとつあった?

 

 兵庫県の横尾姓、特に丹波地域を中心とするものについて、 そのルーツの全容が見えてきたところであるが、ざっくり言えば

 

■ 播磨国加西郡横尾 (現在の加西市北条町横尾)

 

を苗字の地として、戦国時代に

 

■ 丹波国氷上郡小新屋 (現在の丹波市山南町小新屋)

 

にやってきたのが、”横尾四郎太夫正政”という武将だったという話である。

 

 ついでに

 

■ 天正11年に、横尾正政は、加西郡桑原村で亡くなった

 

という記録もあり、実際加西市桑原田には「横尾」姓の家があった。

 

 

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 ところが、面白いことに古記録を当たっていると

 

■ 多可郡横尾

 

という村があったらしいのである。

 

 

「兵庫県警察の誕生」草山・1984

多可郡の田高・明楽寺・横尾の各村 を結ぶ線以内とした。”

 

「神戸市史 第二巻」1921

播磨國多可郡高明樂寺・横尾諸村迄とせり。”

 

 (田高は黒田庄・明楽寺は西脇である)

 

 

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 ところが、この村名、明治期の外国人居留地に関するものしか出てこない。

 

 

 「遊歩地域」

https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8A%E6%AD%A9%E5%8C%BA%E5%9F%9F 

 

”兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。”


 もしかすると横尾村についてのみは「加西郡」横尾のことを言っているのかもしれないが、要確認である。