2017年1月4日水曜日

豊臣どもが夢の跡・・・大阪城へ遊びに行ってきました!



 大人気だったNHK大河ドラマ「真田丸」も終わってしまい、次の日曜日からは早くも「おんな城主直虎」が始まってしまうわけですが、せっかくなので



 真田丸終焉の地、大阪城



へ遊びに行ってきました。



 いわずと知れた天下の”コンクリート”名城、大阪城ですが、世界遺産の現存天守を持つ姫路城を擁する兵庫県民としては、



 コンクリート製の復興天守が、なんぼのもんやねん!



と思っていましたが、 昭和6年製とあって、かなり年季も入っているし、興味深く拝見してきました。


 もちろん、城郭建築としては全くみるべきところがないことは否めませんが、日中戦争すらまだ始まっていない頃の建築物ですから、実際にはかなり味わいがあります。


 内部はともかく、外部については、それなりによくできているなあ、と感心いたしました。



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 秀頼様が自害したのか(遺体が見つかっていない)、あるいは薩摩へ逃げ延びたのかはわかりませんが、秀吉時代の大阪城は、家康によって完全に盛り土で蓋がされ、その上に新しい大阪城が建っている、というのは現地に行くとよくわかります。


 外側から中心部分へ行くにしたがっての「高低差」の大きいことったらありゃしない!


 なんぼ大阪城が上町台地の上に建っているとしても、台地の周辺部と比較してもとてつもなく高い位置にあるのが大阪城の本丸で、10メートル近く下に本来の秀吉大阪城がある、というのはまさにそうだと思います。


 まるでチェルノブイリの石棺のごとく、旧大阪城は完全に埋められている、というわけですね。



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 というわけで、大阪城の南にある、豊国神社にも行ってきました。


 豊国神社は、京都が本店ですが、徳川時代は打ち壊されていた秀吉を祭る神社であるため、復活したのはなんと明治になってからとのこと。


 いつの時代も勝者が敗者を無かったことにするのは同じなのですな。


 埋められた大阪城にしても、破却された豊国神社にしても、家康の秀吉抹殺ぶりは、なかなか徹底しています。


 そうでもしないと、平和な時代の影のように「豊臣氏復活」を願っての新たな争いが何度でも起こることを見越していたのでしょう。



 というわけで大阪の豊国神社には



 秀吉

 秀長

 秀頼



 の三人が祭られているそうで。



 ああ!やっぱり秀次は、カウントされないのね!!!!




 

 

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