2026年5月9日土曜日

【27】 丹波横尾氏についての補足 (和左衛門さんブログとの比較)

 

 丹波地域の横尾姓・横尾氏の概要については、ほとんど判明したので、これまでの記事を振り返ってもらえればOKなのだが、少しだけ補足事項があるので、書いておこうと思う。


 横尾、という苗字そのものは全国にあり、それぞれ別の氏族であったり別の由来があったりするのが当然なのだが、その昔、ある方が「日本中の横尾氏、横尾姓」についてご自身で調べて、それをブログで発表なさっていたことがあった。


 その方のブログは平成23年(2011)年で更新が止まっていて、その後ブログ本体もネットからは消えてしまったのだが、当方ではそのデータの大半を保存していたので、そこから少し考察を加えてみたい。


 ブログは、「和左衛門」さんという方が書かれていて、ご先祖の「横尾和左衛門」さんにちなんでのブログネームであったようだ。


 「九州に伝わる横尾一族の足跡」


というタイトルで、主に佐賀を中心とした横尾姓についてずっと調査なさっていた。


 その調査が全国を網羅するものだったため、大いに参考になったのである。


 さて、その和左衛門さんのブログから、丹波横尾氏に関する記事を抽出してみたい。


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<2011・4・30の記事>


 丹波市山南町に横尾さんが10件ありました、もしかして京都府南丹市園部町にも近いので繋がりがあるかもと思い電話を入れました。残念ながら詳しい歴史は分からないそうです。横尾四郎左衛門という人が姫路辺りから加古川をさかのぼり、この地ヘやって来た。いつの頃かはっきりしないとのことでした。


 丹波市は、兵庫県旧水上郡6町が合併し新設されています。私は最初横尾姓の起源は丹波だと思ったのでこの丹波市ではないか、隣の西脇市は横尾忠則氏(イラストレーター今は確か画家だと思います)の出身地ですし、でも丹波市は2004年11月に誕生したばかりです。西脇市も京都丹波の帰りに寄りました、多くの墓石が立ち並ぶ霊園がありましたので、そこに来られている方に尋ねたら横尾忠則さんぐらいで、他の方はあまり聞きませんとのことでした。

姓名分布ランキングでも西脇市は横尾さんが0件です。

次に加西市に横尾の地名がありますので寄って図書館で地名の由来を調べましたが、地名辞典で見ますと、山の尾根が横に連なっている地形からの地名でした。

なんと加西市の横尾は市のど真ん中にありました、姓名分布ランキングで横尾さんは1件です。


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 和左衛門さんの調査からは以下のポイントがわかる。


■ 丹波市山南町の横尾姓は10軒

■ 横尾四郎左衛門が姫路あたりから加古川を遡ってやってきた

■ 時代についてははっきりしない

■ 加西市に横尾の地名がある

■ 加西には1軒の横尾姓がある


 結論から言えば、この情報は「誤り」が含まれているものの、大枠についてはかなり真実に肉薄していることになる。


 ■ まず山南町の横尾姓は「小新屋村」のそれである。合っている。

 ■ 横尾四郎左衛門は、誤認であろう。「横尾四郎大夫(正政)」が正しい。

 ■ 丹波には播磨から移動してきている。これも正しい。加古川を遡ってきたかどうかは定かではないが、位置関係としてはそういう雰囲気になるので、おおむね合致する。

 ■ 時代については戦国時代。天正11年に横尾四郎大夫は死去している。

 ■ 横尾の語源は「加西郡横尾」であり、これも正しい。

 ■ 加西には「桑原」という村があり、ここがおそらく横尾四郎大夫の領地であっただろうと考えられる。実際この桑原村で彼は死んでいて、この桑原村にわずかな横尾姓がある。正しい。


 余談ながら横尾忠則さんの横尾姓については、現段階ではなんとも言えない。地理的には加西もしくは丹波の横尾氏の可能性もあるが、別の地域から来られた一族の可能性もあるので確定的ではない。


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 以上が、和左衛門さん調査分への補足である。

2025年5月16日金曜日

【丹波原田氏の謎を解く07】 用明天皇の時代に何があったのか?殖栗皇子の謎に挑む!


 しばらく期間があいたが、丹波・栗作郷を巡る氏族のルーツを辿る旅を再開しよう。

 これまでの調査で判明している内容を簡単にまとめると


 ◆ 丹波・栗作郷は、中世以降こそ「新補地頭の久下氏」が隆盛しているが

 ◆ もともとは、この地で栗を作っていて、朝廷に栗を献上していた一族が勢力を持っていたと思われる。

 ◆ その一族を太田亮は「山畦党」と表現しているが、このブループが何者なのかは、ほかにほとんど記述が見つからないため、よくわからない。

 ◆ このグループに属すると思われる栗作郷近辺の氏族は【勝岡・若林・原田・植木】などの苗字で現在に続いていると推定される。

 ◆ 特に、このグループには「用明天皇の時代から栗作りを認められている」という伝承が共通して残っており、それは丹波地域から離れたところにいる、同族と思われる氏族にも同様に伝わっている。


ということであった。


 不可思議なのは「用明天皇」についての異常なほどのこだわりで、なぜかどの氏族も「用明天皇の時代から」という点を強調した伝承があるのだが、いったいその時に何があったというのだろう。


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 そこで、改めて「用明天皇」とその周辺について調べてみよう。


用明天皇(Wiki)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87


 用明天皇は585年〜587年にかけて在位した第31代の天皇であるが、実は「聖徳太子」のお父さんとしても有名である。

 時代は「古墳時代」の人であるから、謎の部分も多いが、


◆ その次の第32代が崇峻天皇であり、唯一暗殺された天皇である。

◆ 息子が聖徳太子であり、第33代が推古天皇(女帝)である。聖徳太子は、推古天皇を支えた。


というあたりを補足してやると、時代背景が少し見えてくるものもあるだろう。


 崇峻天皇は、蘇我馬子によって擁立されたと考えられていて、一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとするが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって暗殺されてしまう、というきな臭い時代真っ只中でもある。


 そして、馬子の命令を受けた東漢駒に、崇峻天皇は暗殺されてしまうので、とにかくこの時の朝廷はヤバい意外に感想が見当たらない(苦笑)」


 最終的に空位となった天皇の位についたのが、史上初の女帝である推古天皇であり、甥の聖徳太子が「皇太子」扱いで、政治を執り行った、とされている。


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 さて、時代背景がざっくりわかったところで、用明天皇に戻ろう。用明天皇自身は、病気で亡くなっており、在位期間は短いものの、「はじめて仏法への帰依を表明した天皇」としても知られているようだ。

 推古天皇から見れば、用明天皇は「同じお母さんから生まれたお兄ちゃん」にあたり、聖徳太子とも血が近かったこともよくわかる。


 用明天皇の記事は、その大半が「蘇我馬子VS物部守屋」の話で占められていて、崇仏派の「蘇我氏」と廃仏派の「物部氏」の対立の中で、仏教支持に傾いたのが用明天皇であり、推古天皇であり、聖徳太子である、という雰囲気になっている。


(実際に、用明天皇の祖父は蘇我稲目であり、蘇我氏に近い系統なのである)


 さて、問題はここからである。用明天皇周辺の人物を確認していて、驚いた。


 それは本当に無知ゆえに驚いた!のである。


<用明天皇の男子>

 第一皇子  田目皇子(多米王・豊浦皇子)

 第二皇子  厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王)

 第三皇子  当麻皇子(麻呂子皇子)

 第四皇子  来目皇子(久米王)

 第五皇子  殖栗皇子

 第六皇子  茨田皇子


 このほか用明天皇には女子が一人いるが、気になるのは「殖栗皇子」という名称である。

 栗作郷の伝承と用明天皇が固く結びついているとした場合「栗を植える皇子」とは、いったいどういうことなのだろうか!


 殖栗皇子

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E6%A0%97%E7%9A%87%E5%AD%90


 この人物、Wikiでもそれほど詳しく説明されているわけでもないが、


◆ 子どもに 衣縫王 がいる。

◆ 子孫は 蜷淵真人 らしい。

◆ 天武天皇の時代に「殖栗王」という人物名があるが、同一人物か不明


といったことがわかっているという。


 「蘇我氏の研究」(客野 2015)では


”来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子の三人の弟がおられたが、来目皇子は来目氏、殖栗皇子は殖栗氏、茨田皇子は茨田氏が資養したらしい。来目臣は蘇我氏の枝族の一つであった。殖栗連は山城国久世郡殖栗郷に名を残す氏族で物部氏系の一族と考えられる。”


とあり、直接丹波地域との関連を示すものではなさそうだ。


 というわけで、この謎解きは、まだまだ続くのであった!



2024年11月17日日曜日

【丹波原田氏の謎を解く06】 栗作郷とはどういう地域なのか 新氏族「植木」氏登場!

 

 さて、ここのところしばらくは摂津の菟原郡に話が飛んでいたので、あらためて丹波原田氏の本拠である「栗作郷」について復習しておきたい。


 「日本地名歴史大系」では


栗作郷

くりつくりごう

兵庫県:丹波国氷上郡栗作郷

「和名抄」高山寺本・名博本所載の郷。訓は「クリツクリ」。同書東急本にはみえない。「丹波志」によれば久下くげ谷一帯すなわち上滝かみたき・下滝・南嶋みなみじま・阿草あくさ・谷川たにがわ・山崎やまさき・金屋かなや・玉巻たまき・大河おおか・太田おおだ・池いけノ谷だに・岡本おかもと・北嶋の一三ヵ村を古くは栗作郷と称したという。この説に従えば郷域は現山南さんなん町東部となる。「住吉大社神代記」に「播磨国賀茂郡椅鹿山領地田畠」九万八千余町の四至の北限として「阿知万西岑・堀越・栗造・滝河・栗作・子奈位」とみえる。


としており、現在の丹波市山南町の南東部に相当する。JR福知山線の谷川駅〜下滝駅近辺と考えれば、おおむね間違いではない。


あるいは似た表現で「栗作庄」というのがあり、


栗作庄

くりつくりのしよう


兵庫県:氷上郡山南町栗作庄

篠山川流域に展開したと考えられる庄園。古代栗作郷(和名抄)を継承する。鎌倉時代は「栗作保」とよばれ、内侍所御殿に油二石ないし二石二斗を毎年七月に貢進することになっていた(元弘三年五月二四日「内蔵寮領等目録」・年欠「毎月朔日内侍所供神物并御殿油注文」山科家文書)。保内に蔵人所が所管する栗作御薗が古くからあり、供御人が四足の桶に入った栗一荷を毎年九月に備進した(「山槐記」応保元年九月九日条)。南北朝期以降は禁裏御服料所「栗作庄」とよばれるが(貞治四年正月一八日「室町幕府奉行人連署奉書」古文書集)、旧来の保を継承したものであろう。領家職は応安七年(一三七四)一一月三日宝池院光助に宛行われたが(柳原家記録)、応永三二年(一四二五)閏六月三日京都天龍寺塔頭金剛院に宛行われ(「足利義持御判御教書」鹿王院文書)、永享七年(一四三五)、長禄二年(一四五八)、文明一〇年(一四七八)に当知行等の安堵がなされている(永享七年二月二一日「足利義教御判御教書」、長禄二年三月一五日・文明一〇年五月二八日「足利義政御判御教書」同文書)。


鎌倉時代には「栗作保」となっていたようだ。


 この栗作エリアで史的に最も有名なのは新補地頭の「久下氏」で、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%8B%E6%B0%8F


清和源氏と称した武蔵国大里郡久下郷に本拠を持つ一族が、源平の争乱や承久の乱の後に丹波栗作郷へやってきたという。


 そののち丹波の国人領主となり、室町幕府の奉行衆にもなった。しかしのちに所領の多くを失い、明智光秀の丹波攻めで領主の地位を追われている。


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 とまあ、こうした経緯で中世の大半の時期は栗作郷と言えば「久下氏」との関わりが第一番にでてきて、いまでもこの地域には久下小学校があるくらいである。


 そうなのだが、おそらく久下氏登場以前の状況として「勝岡・若林」一族が、この地の権力者であったことは想像に難くない。ましてや天正4年の原田氏への「諸公示令免除」の書状があることから、原田氏も含めてこのあたりの「旧来の地場勢力」であったことは疑いがないと思われる。


 関連事項として「世界大百科辞典」より


栗作御薗 (くりつくりのみその)


中世,天皇に栗を備進した園地で,とくに丹波甘栗御薗,山城田原御栗栖(みくるす)は有名である。蔵人所(くろうどどころ)の所管に属し,御薗には御栗栖司が補任され,備進に従う者を栗供御人といった。毎年旧暦9月には丹波甘栗御薗から四足の桶に入った栗1荷が,五節(ごせち)(旧暦11月)には田原供御所から甘栗30籠がもたらされる例であった。その源流は,令制下の宮内省園池司で樹果の種殖に従った園戸にあると考えられる。彼らは供御を備進する一方で,交通・交易上の特権を保障され自己の商業に従った。1392年(元中9・明徳3)9月,丹波栗作御薗供御人らは,自分らは往古より蔵人所の一円進止(支配)下で供御役を備進し,他より干渉されることはなかったにもかかわらず,先日栗売買のため出京したところ,路次において,山科家の使や御厨子所(みずしどころ)の使など新座の輩が,栗駄別に用途を懸け,腰刀まで奪い取ってしまったので,かかる妨害を停止して欲しい,と訴えている。


を挙げておこう。もともとこの地域はその名もズバリ「栗作郷」と呼ばれるように「天皇に栗を献上するエリア」として特化していた。

 そのため、その任務につく者たちが現地で権力を得ていったわけである。原田氏の伝承では(丹波志)、栗を入れる器を作る権益についても綸旨を持っている、ということになっている。

 ほぼ間違いなく、勝岡・若林・原田の諸氏は御栗栖司や栗供御人を発祥としているだろう。

 その源流が「用明天皇時代から」というのだから、その歴史は古い。


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 さて、実は太田亮の「丹波・丹後」には興味深い記述がある。





 これらの項目は氷上郡の姓氏について列挙したものだが、


■ 植木氏 用明天皇が行幸のおり、宿を提供し、栗を献上したため、その屋敷の植木栗をもって「植木」の名を賜った

■ 山畦一党 本名は若林氏 用明天皇が泊まった。

■ 原田氏 古家

■ 勝岡氏 山畦党の一


ということが書かれている。


 つまり、勝岡・若林系以外に、もうひとつ「植木」という一族も用明天皇と関係しており、なおかつ栗を献上して姓を貰っているのである。


 これで、栗グループが4氏になったわけだ。


 思うにこれらはみな同一の系譜上に位置している可能性が非常に高いのである。


 捕捉であるが、「姓氏家系大辞典」では植木を氷上郡鴨野村の氏族としている(出典は丹波志)



 実は鴨野村は現在の柏原町鴨野という地域で、栗作郷からは少し離れている。けして隣接地域などではないのだが、ここにもポイントがある。


「氷上郡志」の上滝村の項目に注目したい。



「篠山川に稚児ヶ淵・鯉竃・鞍ヶ淵・植木等の名所旧跡有り」


と書かれている。


 たしかに現存氏族としての植木氏は鴨野村にいるが、上滝に「植木」という地名があることがわかると一気に話が違ってくる。原田氏も上滝出身であることが丹波志に書かれているので、これで


「勝岡・若林・原田・植木」はすべて上滝出身の氏族


ということが判明したわけだ。あるいは全部、根っこをたどれば同族なのではなかろうか。


(医師の植木一族は山南町小畑に住んでおり、和田村にもおなじ系統がいる。実は横尾氏はこのほぼ隣接するエリアの小新屋にいるから、ここでも近しい位置にいることになる。偶然かもしれないが、横尾と原田の通婚から考えると、いったいこの氏族ネットワークはどういう情報網なのか、不可思議で仕方がない。おそらく中世においては、どの氏族がどこへ移動しているのかは、ほぼすべて「互いに」わかっていたのではないだろうか。)



(つづく)

2024年11月16日土曜日

【丹波原田氏の謎を解く05】 神戸・菟原郡の若林家由緒を探る

 

 前回までの調査で、「丹波地域の若林(勝岡)氏と、神戸・菟原郡の若林氏が同一系統なのではないか?」という仮説に至った。


 どちらも先祖を「用明天皇の時代の人」としており、若林・勝岡の語を用いている。また菟原郡若林氏には村上源氏末裔の説もあり、また別に西脇・比延に赤松系勝岡氏が存在することなどを総合すると、これらの点と点は、なんらかの線で繋がっているのではないか?と考えるに至ったわけである。


 さて、若林家の由緒では、「用明天皇の家来である、菅美高根庄右部之大臣家臣・佐高菅巳之進友成の兄弟である嚴藤太夫重則」を先祖としている。

 この人物が勅命で厳島神社に行って仕事をしてきたので、菟原に根付いたのだ、という説明になっているのである。


 実はこの話、別のところでも見ることができる。

https://jinja-net.jp/jinja-all/jsearch3all.php?jinjya=5138


それは、兵庫県神戸市灘区篠原北町3-16-7にある厳島神社の社伝で、

『原此地は荒熊武蔵守の居城の乾角也、落城の後姓を竹原と白ふ呼村名を篠原と云ふ。村中産土神、人皇三十二代用明天皇の御官士菅美高根庄右部之大臣家臣佐高菅巳之進、友成兄弟嚴藤太夫重則従天子藝州嚴嶋神社へ御宣有之帰宮の後此所に市杵島姫命奉安置勧請年暦不祥又古老之申傳云、福原新都の節布引の瀧より夜々光り物之有るを清盛公より仰越中次郎兵衛盛純此を対峙する所、白玉を頂きたる大龍なり、此の白玉を執て此所に安置し奉り市杵島姫命と奉称し産土神と奉尊すと云ふ。』

ということになっている。


これを素直に解釈すると厳藤太夫重則が行ったことは「厳島神社を勧請すること」であり、彼が用明天皇時代に厳島神社を持ち帰ったのでそれがここにある、という伝承がまず存在することがわかる。


加えて第二の伝承があり、それは福原京の時代に越中次郎兵衛盛純が龍と対決して、その玉を安置して市杵島姫命として祀った、ということが示されている。

(厳島神社とは、そもそも市杵島姫命と同一)


 ちなみに越中次郎兵衛盛純は、平家の武将であろう。「越中次郎兵衛盛嗣」という武将は有名人であるが・・・。


平盛嗣

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3


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 さて、佐高という苗字は日本にはごく少なく、愛知県などにわずかに分布がみられるのみである。一説には「佐竹の転」という話もあり、実態がよくわからない。


 しかし「佐高菅巳之進」や「厳藤太夫重則」という人名は、あきらかに用明天皇の時代のものではないので、「用明天皇の時代」ということばと、「厳島神社に関係した人物」の年代は別と考えるのが妥当であろう。


 そうすると若林家は、こうした厳島神社の勧請者と、自身のルーツを繋げているのだと思われる。これは「誤り」を含んでいるという意味ではなく、姻戚関係を繰り返しているので、厳島神社系統の先祖もいるし、若林系の先祖もいる、ということと考えれば、とくに不自然ではないだろう。


 とすればあらためて「なぜ用明天皇」なのかが、気になってくるわけだ。よほどこの若林一族には丹波も菟原も「用明天皇の時代」に記憶や伝承のこだわりがあると見えるのである。


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 さてここで、太田亮の「摂津」をみてみよう。







 さすが太田亮だけあって、厳藤太夫系の伝承も、赤松系の伝承もどちらも拾い出している。おそらくまさにこの通りで、2つの系統が姻戚して構成されていったのが、若林氏なのかもしれない。

(しかし、個人的には若林氏が用明天皇にこだわるのは、丹波系の伝承を受け継いでいるからで、菟原に来てから厳島神社の勧請主の家系と繋がっていったのだと思われる。そして、やってきた当の人物は赤松系なのだろう)


 話はとくに矛盾するわけではないのである。



 次回へ続く。

2024年11月15日金曜日

【丹波原田氏の謎を解く04】点と点をつなぐ謎の赤松の糸 勝岡氏に新たな真実!

 

 前回までの話で、


 ■ 丹波原田氏は、栗に関係する氏族で、

 ■ 彼らの本村に当たる「上滝」村には「勝岡/若林氏」という一族がおり、

 ■ この3者には共通して「朝廷からのなんらかの許可と、栗づくり」に関しての話が伝わっている

 ■ 勝岡氏には、赤松・比延系の氏族がある

 ■ 鎌倉時代末期に芦屋にもいる


というところまでバラバラの点を集めてきたわけである。


 ところがここに来て、面白い情報が見つかった。それは鎌倉時代から南北朝時代にかけて芦屋にいたらしい「若林隼人佐勝岡」という武将の件であるが、


「神戸古今の姿」岡久彀三郎 昭和4


によると



 荒熊氏の後釜として入り込んだ「若林隼人佐勝岡」は、「村上源氏」だというのである!


 なおかつこの話は、いまの神戸大学の敷地が「赤松城」である、ということと連動しているため、


https://www.city.kobe.lg.jp/c63604/kuyakusho/nadaku/shokai/miryoku/hyakusen/hyakusennokaisisekiikou.html


 これはもう、前回の話やこれまでの話が連動している、と考えてよいだろう。


 つまり


■ 赤松系勝岡・若林氏がいる

■ 比延の一族ともつながり、芦屋にいた武将も赤松に送り込まれており、

■ 若林隼人佐勝岡は、村上源氏=つまり赤松系である


とここまではスッキリ繋がったのである!!ひえー!!


 そうすると、


■ うちの実家の横尾が、野間の赤松氏と通婚したり、青田の原田と通婚しているのは、

■ 全部赤松氏族内での通婚である


とも言えるのではないだろうか???


 これは思っていたよりも、すごいというか恐ろしい話になってきたのだ。


 もちろん、勝岡氏の伝承によれば、その本姓の成り立ちは、「赤松円心登場より遥かに古い」ということになる。


 用明天皇は古墳時代の人で、推古天皇の兄なので、聖徳太子時代の人である。

 赤松氏が仮に本当に村上源氏であったとしても、村上天皇は平安時代の人なので、勝岡の発祥のほうがはるかに古いことになるわけだ。

 ただ、勝岡・若林の名跡については、どこかの段階で姻戚関係などを通じて「赤松化」した可能性が十分にありそうだ。


 もちろん、原田と「勝岡・若林」を直接的につなぐ線はまだないが、「伝承の上では同一の系譜」を持っていることは確かである。


 その意味では、播磨から丹波にかけて(当然摂津も含むが)の「赤松系ネットワーク」のすごさに、あらためて驚かざるを得ないのだ。


 なんなんだこれは!という感じである。



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(捕捉) 摂津若林氏に伝承があるようなので、引用したい。



■ 祥 龍 寺さんのサイトより

http://shoryuji.d.dooo.jp/jishi.htm


「「西摂大観」に「若林家由緒書」が明らかにされているので、その中から祥龍寺関係と、一部興味深いものを掲載する。

 「保元の頃(1156年)篠原村北山に荒熊武蔵守興定城をかまえ、落城の後若林隼人尉範房茲に居城す」と云う。「恐らく祥龍廃寺後の山嶺稍々夷かな所、北山城址ならん」とあるので今の牛小屋山から伯母野の辺であろう。」



■ 「西摂大観」より 若林家の由緒





 用明天皇の時代の朝臣、佐高菅巳之進友成の御兄弟である厳藤太夫重則が先祖。
 安芸の厳島明神に天子の命令で願いに行き、無事に任務を果たして帰ってきたので、菟原郡の郡家、今の南荘を賜った。

 その子孫が若林隼人尉範房で、保元の頃、荒熊武蔵守に代わって北山の城主となった。

 略系譜があり、十九代中祖「勝岡・若林隼人尉 応永八年七月二十五日死去 ー 秀勝 ー 満秀 ー(以下略)」とある。


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 ここで気になる箇所は、やはり「用明天皇が出てきた」ということである。以前から書いているとおり、用明天皇というのは古墳時代の人なので、通常の先祖伝承では、あまりここまで古い人についての話は出てこない。ところが、丹波上滝の勝岡氏も「用明天皇」を出してきているし、離れた二つの家で似たような伝承があるところ見ると、用明天皇がらみはおそらく何らかの史実を反映しているのであろう。


 また、若林家の伝承では「勝岡」を人名のように見立てている。そこで「秀勝」「満秀」と継いでそれっぽく繋いでいるが、勝岡ということばが「本姓」であったことは失われている可能性がある、と考えると面白い。

 あるいは「範房」という人名も、赤松系の通字を思わせる雰囲気がある。

 厳島神社については、推古天皇593年の創建の社伝があるが、用明天皇は587年に亡くなっているため、微妙にズレがある。

 安芸国の豪族である佐伯氏が建てた神社であるため、その頃になんらかの使いが朝廷から出たことを反映しているとは思うが、菟原郡に根付いた理由を創作したものではなかろうか。


 年代についても微妙な誤認があるが、保元頃(1156〜)から北山城主だった荒武氏から若林氏に代わったのは建武年間(1338〜)であり、応永年間(1394〜)に勝岡が死去したことを考えると、範房と勝岡はほぼ同時期の人で、1代か2代くらいのズレを含む可能性もあるだろう。


 古墳時代(587)から1156まで約600年間、痕跡がみえないことを考えれば、実態としての若林氏は、丹波で発祥していても不思議ではなく、赤松系と合流してまさに赤松円心の派閥として送り込まれた可能性が高いと考える。

 「厳藤太夫重則」という人名も、なかなか面白い。厳島神社とつなぐ雰囲気があるし、「則」の字もまた赤松系を思わせる。

 途切れ途切れの伝承を、うまくつなぎ合わせて由緒を書いた感じが出ていて、それでも真実をできるだけ拾おうとしている感じが伝わってきて、好感が持てる。

(むちゃくちゃ創作したな、という感じではなく、一生懸命さが伝わる由緒書きであろう)


 実態を反映すれば、若林家とは、やはりのちには赤松系となっており、建武頃に摂津菟原に根付いたのであろう。ただ、ほんとうに用明天皇の時代から続く家柄だ、という言い伝えは持っていて、「若林」と「勝岡」のことばや、厳島神社ともなんらかの関係があった人物が途中にいたのかもしれない。


 



2024年11月14日木曜日

【丹波原田氏の謎を解く03】 山畔党と原田氏


 さて、丹波原田氏のルーツについて、「能勢」や「播磨」などと比較しながら、これまでは「ふわっとした」話を見てきたわけだが、まだまだはっきりとしたルーツは見えてこない。


 ところで、ここで一旦「原田」という言葉を追いかけるのをやめて、氷上郡の青田村周辺を探ってゆくと、興味深い事実に行き当たるのであった。


 それは、 「丹波志」によれば


■ 原田氏は上滝村から来た。

■ 上滝村には「山畔氏一党」(山畔一党)というグループがおり

■ もと勝岡氏 いま若林氏を名乗っている。

■ 実はこの勝岡・若林にも、栗の献上についての伝承や、朝廷・天皇からの権益の話が残っている。

■ むしろ栗作郷の伝承の元ネタはこちら。


 という大きなポイントである。


 繰り返しになるが、青田村の原田氏は「栗作り、あるいは栗の入れ物作り」について何らかの許可をもらっていた可能性が高いのだが、青田村というより、そもそも本村に相当する上滝村に置いては、おなじように「栗作りについて権益を許可された、勝岡・若林グループ」というのが存在するのである。


 そして、このエリア一帯が「栗作郷」と呼ばれている原因こそが、この「勝岡氏」「若林氏」の存在につながるというのである!


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「日本姓氏語源辞典」


勝岡

「兵庫県丹波市山南町上滝では古墳時代の天皇である用明天皇から古文の語により賜って後に恐れ多いと考えて若林姓に改姓したと伝える。」


若林

「兵庫県丹波市山南町小野尻若林発祥。同地に分布あり」


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「丹波・丹後」太田亮


「勝岡氏、山畦黨の一」


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 姓氏辞典などの情報を総合すると


■ 「勝岡」氏という氏族がおり、一部が「若林」に変えている。

■ 彼らをして山畦党、と呼ぶらしい


ことがわかってくる。


 若林姓も、おなじ氷上郡山南町に分布するため、なんらかの関わりがあると考えてよいだろう。


 ところが、この「山畦党」あるいは「山畔党」がなにものなのか、どうも判然としない。



 姓氏家系大辞典的には「勝岡は天皇からもらった」とあるので、もしそれが本当なら苗字ではなく「本姓」ということになるが、まあ、そこらへんは話半分でとりあえず置いておこう。


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 さて、ここから雑多な周辺事項であるが、


① 「西脇市史」によると



 偶然の一致かわからないけれど「黒田庄方面の赤松・比延氏の分かれに勝岡氏がいる」らしい。

 当家当方、赤松とは関わりが深いので、勝岡の一部が赤松系になった、というのならそれもわからないではない。ただし、まだまだ保留。


② 姓氏家系大辞典・「荒熊」項



 摂津の「荒熊」氏のあとを継いだのが「若林隼人佐勝岡」という武将らしい。これも偶然かどうかわからないけれど、これは菟原郡、つまり現在の芦屋あたりの話ということになる。


 建武というのは鎌倉時代から南北朝にかけての時代で、「建武の新政」でおなじみの年号。


 この時期の芦屋に「若林・勝岡」という武将がいるというのが、気になるところである。


 このように、全体を通じてまだまだ「ふわっとした話」が続くのだが、なーんとなく、点と点を結ぶなにかがありそうに感じるのは、私だけだろうか。


 まて!次回!





2024年11月13日水曜日

【丹波原田氏の謎を解く02】  丹波原田氏は、九州系なのか?!

 

 丹波青田の原田氏のルーツについて、考察を深めてゆくこのシリーズ。前回は


 ■ 丹波原田氏は 天正年間の「種長」の書状を持っている

 ■ 摂津国能勢の原田氏は、鎌倉時代の「原田種長」の子孫を称している

 ■ 播磨の原田氏は明石大蔵谷に関わりがある

 ■ 原田種長は「九州・大蔵氏」の一族である


というあたりまで、まさに「アタリをつけた」くらいのところまで進んだ。


 まだ、この段階では話がざっくりとしすぎているが、大枠をまとめると「丹波・播磨・摂津の原田氏は、平安末期〜鎌倉期の有名人、大蔵春実の子孫なのではないか?ということになってくる。


  さて、このうち摂津・能勢原田氏については、なかなかおもしろい壮大なファンタジーになってくるので、いちおう先に押さえておこう。


 伝承によると、この能勢原田氏については、平氏が滅んだ時、藤原経房・原田種長・郡司景家らが壇ノ浦から安徳天皇を連れ出して、能勢まで連れてきて隠れ住んだ、というのである。


 その顛末は

https://www.mapple.net/articles/original/12299/


にもあるので、ぜひご一読いただきたい。


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 一方の丹波原田氏だが「栗作郷」における権益を認められたようだが、実はこの丹波国の栗作郷というのは、久下氏という一族の影響下にあった。

 https://tanba.jp/2019/06/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%82%E3%81%A4%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%A0%97%E3%80%8D/


久下氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuge_k.html


 久下氏は頼朝時代に丹波国栗郷庄を与えられているので、なるほど、九州系原田氏の活躍時期と近いといえば近い。しかし、それぞれ所領が全然違うエリアで遠いので、九州原田氏の子孫が久下氏の家臣となるようなことは、単純には想像しにくいところはあるだろう。


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 さて、大蔵姓原田氏にも「明石の大蔵谷に住んで」という説があるが、これは私もこじつけレベルの話だと考える。


https://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-harada.html


一貫して九州の御笠郡原田のほうが、整合性が高いだろう。


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 では播磨には原田がいなかったのか?というと太田亮も引用しているとおり、


” 伊賀判官、よつ引いて放しけるに、平九郎判官、持ちたりける弓の鳥打ち所をはたと射削りて、弓手の方に並んで控へたる、播磨国の住人・原田右馬允が頚の骨にあたる。馬より逆にをちて死ぬ。支へて射る矢、その仁には当たらず、傍なる者にあたりて死ぬ事、「定業、力及ばず」とぞ見えし。”


という記述が「承久記」にあるため、播磨に「原田右馬允」なる武将がいたらしい。




(ところが、別の系統の本では「播磨国の草田右馬允」となっているものがあるから留意したい)




「兵庫県史」 ”播磨の草田右馬允なるものが、京都守護伊賀光季に射られて戦死したと伝える。”




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 こうなってくると、もはや何がなんだかわからないので、実際の原田姓の分布を兵庫県内でみてみよう。


世帯数 地域名

23 兵庫県 加西市 満久町

14 兵庫県 加西市 北条町栗田

14 兵庫県 揖保郡太子町 老原

14 兵庫県 姫路市 林田町下伊勢

13 兵庫県 神戸市垂水区 西舞子

12 兵庫県 加西市 小印南町

12 兵庫県 加古川市 志方町投松

12 兵庫県 加古川市 野口町北野

11 兵庫県 尼崎市 尾浜町

11 兵庫県 城崎郡城崎町 桃島

11 兵庫県 尼崎市 東園田町

10 兵庫県 洲本市 上物部

10 兵庫県 洲本市 下加茂

10 兵庫県 加西市 北条町北条

10 兵庫県 篠山市 小野奥谷

10 兵庫県 加古川市 平岡町新在家

10 兵庫県 神戸市垂水区 塩屋町

10 兵庫県 津名郡津名町 生穂

10 兵庫県 明石市 魚住町西岡

10 兵庫県 明石市 大久保町大窪

10 兵庫県 尼崎市 武庫之荘

・・・

6 兵庫県氷上郡山南町青田



 ざっと上位から抜き出してみたが、数字はひとつの集落にまとまっている軒数である。

概観すると


■ 最多集団、大きい集団は加西方面にある。

■ 明石にもたしかに母集団がある。


といったことは言えそうだ。


 余談ながら丹波地域の篠山「小野奥谷」村については、近世初頭の文書に「原田備中」という名主層の名前が見られることから、この家も古い家柄だろうとは推定できる。


 しかし、全体を通して見ても、これらの原田が「九州系である」という雰囲気は、あまりイメージできない。


 ぶっちゃけ九州系を名乗るのは、能勢の原田氏くらいで、それ以外の播磨や丹波の原田氏は、いまの段階では


「ゼロベースで謎」


としか言えないのである。


 というわけで、この検証はまだまだ続くのであった!


2024年9月16日月曜日

【丹波原田氏の謎を解く01】 新シリーズ!今度は原田氏。

 

 これまでの調べで、丹波赤松系横尾氏の全貌についてはある程度明らかになったので、記録がてらおなじく丹波地域の原田氏について謎を解いてゆこう。


 原田、というのは私から見て祖父方の氏族だが、本拠は氷上郡青田村で、このエリアではかなりの古家として知られている。


「兵庫県史 史料編」


”原田文書 氷上郡山南町 青田原田政次氏所藏 | 天正四年十二月五日種長諸公事免除状”

”氷上郡山南町青田の原田政次氏の所蔵されている文書で、原田家の先祖と思われる原田右衛門大夫に宛てられた公事免許状である。原田家は江戸時代には庄屋を勤めていたということであるが、その他詳細については不明である”


「姓氏家系大辞典」


 「丹波志」にも記載がある氷上郡の名族、ということになっていて、下滝村の枝村である青田村にある旧家と書かれている。先祖はヒノキの曲げ物をつくり、上滝村から朝廷へ献上する器を作っていた」とされている。


 さて、ここで兵庫県史のほうに「種長」という人名が出てくるが、文書そのものを見てみると


”種長諸公事免除状 丹州氷上郡栗作之鄉、御供之工師、如先規、諸公事令免除者也、仍如件、

天正四年拾二月五日種長(花押) 原田右衛門大夫殿 竹鼻兵衛尉(包紙うわ書きか)

「檜物師 御藏」”



というものらしい。


 種長が花押を書いていて、原田右衛門大夫が、いわゆるこの地での原田家の祖と考えて良さそうだ。

 

 興味深いのは、姓氏家系大辞典のおなじ「原田氏」の次の項目である。22播磨原田氏、23丹波原田氏ときて24項に「摂津原田氏」についての説明があるのだが、



 どうやら摂津能勢郡にも原田氏がおり。「原田太夫種長」の子孫である、というのである。


 どうも種長とは、原田一族に深い関係がある人名らしい。


 ただし、青田原田氏に免状を書いた「種長」は天正年間、戦国時代の人だが、建保とは鎌倉時代で、ずいぶん年代が異なる。


 それでも太田亮としては「前二項の氏族は関係がある」としているので、能勢・氷上・播磨の原田は同族の可能性がある、というわけだ。


(「大阪府全志」 能勢郡大字野間出野の項

”原田種長の子孫と称するものに大字野間大原の原田氏あり”


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さて、この原田氏、「九郎義経の謎」1981・伊藤によると


「種長たちが、能勢の地へ来たのは偶然ではなく、種長の父原田種直の指示によるのである。」


とあり、


原田直種

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4


がルーツということになりそうだ。


 この原田氏は秋月氏などを出した筑前の大蔵系統で、大蔵春美が祖である。

 筑前御笠郡原田を拠点として「原田」の苗字が成立するわけである。直種自身は太宰少弐の役職に就いた。


 興味深いことにここで「播磨の原田氏」を見てみると、「明石の大蔵に住んだ」とある。この明石大蔵谷の大蔵と、九州の大蔵氏は語源的な混同がよく見られるので、なぜか「大蔵」が登場するあたり、太田亮としても


「なんかよくわからんけど、関係ありそう」


という直感が働いたのだろう(笑)



(つづく)

2023年2月20日月曜日

【26】 点と線 横尾村がもうひとつあった?

 

 兵庫県の横尾姓、特に丹波地域を中心とするものについて、 そのルーツの全容が見えてきたところであるが、ざっくり言えば

 

■ 播磨国加西郡横尾 (現在の加西市北条町横尾)

 

を苗字の地として、戦国時代に

 

■ 丹波国氷上郡小新屋 (現在の丹波市山南町小新屋)

 

にやってきたのが、”横尾四郎太夫正政”という武将だったという話である。

 

 ついでに

 

■ 天正11年に、横尾正政は、加西郡桑原村で亡くなった

 

という記録もあり、実際加西市桑原田には「横尾」姓の家があった。

 

 

========

 

 ところが、面白いことに古記録を当たっていると

 

■ 多可郡横尾

 

という村があったらしいのである。

 

 

「兵庫県警察の誕生」草山・1984

” 多可郡の田高・明楽寺・横尾の各村 を結ぶ線以内とした。”

 

「神戸市史 第二巻」1921

”播磨國多可郡高明樂寺・横尾諸村迄とせり。”

 

 (田高は黒田庄・明楽寺は西脇である)

 

 

========

 

 

 ところが、この村名、明治期の外国人居留地に関するものしか出てこない。

 

 

 「遊歩地域」

https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8A%E6%AD%A9%E5%8C%BA%E5%9F%9F 

 

”兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。”


 もしかすると横尾村についてのみは「加西郡」横尾のことを言っているのかもしれないが、要確認である。

 

 

 

 

 

 

2022年3月3日木曜日

【25】 横尾氏と笹倉氏 〜播磨笹倉氏は赤松系〜

 

 前回の記事で、すべての謎はほぼ解明され、兵庫県の「横尾氏」、特に播磨〜丹波の氏族についてそのルーツを述べることができた。

 

 今回はその補足、補完になるが、おなじ氷上郡における「笹倉氏」の動向を少しだけ確認しておきたい。

 

 さて、この記事を書いている私は、丹波横尾につながる子孫だが、近くに「笹倉」という名字が多く、知り合いや関わりがある。

 

 そこで、笹倉という苗字について分布を調べると、とてもおもしろいことがわかったのである。

 

 笹倉姓は、「兵庫」「富山」「大分」「青森」に大きなまとまりがある名字で、それぞれは別系統だろう。

 中でも兵庫県は200軒ほどあり、突出している。その次は120軒ばかり分布する富山だ。

 

 兵庫県の笹倉姓もおもしろい。その内訳は「多可郡中町」「西脇市」「黒田庄」「多可郡八千代」などに集中しており、そのほとんどが「多可郡」近辺にしかないと言ってよいくらいである。

 

 村ごとの母集団を見ると、以下のようになっている。

 

約40軒 多可郡中町中安田

約30軒 氷上郡山南町奥

約25軒 西脇市羽安

約25軒 西脇市野村

・・・以下ほとんど西脇市内の集落が続く。

 

 このように、笹倉氏は旧多可郡一帯に広がる氏族だが、突然「氷上郡」に大きなまとまりが見られるのだ。だからおなじ氷上郡の横尾氏の知り合いに笹倉氏が多いことと矛盾しないわけだ。


 実は丹波横尾氏の本拠である氷上郡小新屋村から、奥村は、直に隣接してはいないものの、その距離1キロ以下である。

 

 かなり近い位置に「横尾」の集団と「笹倉」の集団があることに気づかされる。

 

 

 では、「笹倉氏」の本拠、ルーツはどこか?

 

 これはもうすでに多数の論考があり、判明しているのだが、名字の由来は現在の「加西市笹倉町」である。


 場所は、そう!


 加西郡「在田」の500m南で、かつ加西郡「横尾」の500m東である。隣接地帯と言ってよい!

 

のであった。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 実は笹倉は在田氏の本拠でもある。殿原城あるいは笹倉城と呼ばれる在田の城こそ、在田氏の本拠地であったから、当然笹倉氏も赤松系なのだ。

  

 殿原城は、赤松朝範とその子赤松範康の二代で滅んだのだが、その跡を継いだ「赤松兵庫頭弥四郎祐利」が笹倉城を改修して本拠とし、「笹倉氏」を名乗った。

 

 しかし、笹倉氏本流は、別所氏に組して三木合戦で秀吉軍に敗れ、子孫が近江長浜に逃れたことから「長浜氏」と改姓したという。

 のちに長浜氏は笹倉に戻り、現代にまで子孫が続いているらしい。

 

 とまあ、本家は長浜姓に変わっているが、笹倉一族が北播磨に大いに広がっているのは、こうした理由からであった。

 

 興味深いのは、大半の笹倉氏が多可郡近辺にいるのに対して、 氷上郡に移動したグループがあるということである。

 

 これは横尾氏の動きと非常に似ている。

 

 残念ながら横尾については、横尾を名乗った武将本人のみか、ごくわずかな親族しか氷上に移っていないと思われるが、笹倉は母集団から分かれて、これも数名が氷上に移っているのであろう。

 

 あるいは笹倉氏が氷上に移動した経緯などを参照してゆけば、横尾の動きも推測できるのではなかろうか。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 さて、その氷上郡奥村には興味深い話がある。 奥村には「篠倉豊後守」なる人物がいて、その屋敷後があるというのだ。


丹波霧の里 さんの記事

 

http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAtateisi-docu.htm 

 

 残念なことに篠倉豊後守がどのような人物だったかは記録にないようだが、「横尾四郎太夫正政」と「篠倉(笹倉か)豊後守」という2人の武将が、播磨から丹波に入っていることは間違いなさそうだ。

 

 余談ながらこの近くには、三木別所氏が破れた後に丹波に入った「依藤氏」がいることも確認されている。

 どうも三木合戦の後、という時期が怪しい感じもする。

 

 

2022年3月1日火曜日

【24】 横尾氏と家紋 ~ 五三桐の謎を解明 ~

 

 丹波横尾氏のルーツについて、一気に解明が進んだ前回だが、家紋について補足しておきたい。

 

 当家横尾氏の家紋は、「五三桐」の桐紋である。十大家紋にも入っているのでポピュラーな家紋ではあるのだが、うちの親族の重鎮である叔母からは、


「豊臣秀吉にもらったんちゃう?」


という話を聞かされていた。


 たしかに、戦国期において、豊臣秀吉は恩賞として「桐紋」の使用をけっこう許可していたので、そうしたこともあるだろうとぼんやり考えていたが、だとすれば、天正前後において「丹波攻め」などで一定の功績があったか、丹波侵攻の武将(たとえば光秀など)との「絡み」があってしかるべきだろう、なんてことも思っていた。


 横尾四郎太夫(大夫)が、天正11年に死んだのであれば、旧来の丹波の支配者からではなく、織田方から一定の許可を得ていなければ話が合わない。

 

 三木城攻めは天正6年、八上城が落ちたのは天正7年である。

 和田の岩尾城が落ちたのも天正7年であり、おおむねこの前後に集中している。

 

  岩尾城の話で言えば、天正14年に木戸十乗坊(佐野下総守)が入っており、天正11年はちょうどその間のすっぽぬけた時期とも言える。

 

 木戸十乗坊は近江の人で、滋賀県大津市の木戸城に「佐野秀方」が確認できる。

https://masakishibata.wordpress.com/2015/09/12/kido/ 


 この人物は、前田玄以の家臣・光秀配下などを経て、豊臣方となったようだ。



~~~~~~~~~~


 さて、当初、丹波横尾氏の出自がまったく不明のおりには、この木戸氏や佐野氏などに従って、和田城下にやってきたものか?という推測をしていた。


 あるいはそれより以前の信濃出身「谷氏」(和田氏)の家臣だったのか?とも考えた。たしかに信濃には「横尾」の氏族がいるから、その想定はありえないわけではなかったのである。

 

 しかし、谷氏や木戸氏うんぬんはともかく、丹波は秀吉の支配下になったのであるから、そこでもし功績があれば、「桐紋」くらいは貰っていても不思議ではない、というのが当初の仮説であったわけだ。

 

 ところが、結果的にはまったく違う。家紋の由来はもっとそのものズバリで、「当初から、五三桐を使っていた」と考えて差し支えなさそうなのだ。

 

 

 なぜなら、赤松氏の家紋は「三つ巴/五三桐(五七桐)/両引」だからである!!

 

赤松氏

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F

 

 ウィキペディアにも桐紋(五七桐)のことは少し載っている。その詳細は、播磨屋さんのサイトに詳しい。

 

赤松氏の家紋

http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.html 


”『赤松続伝記』には、赤松氏が桐紋を朝廷から賜わったことが出ている。「みかどより御紋鳳凰に桐、将軍より二つひきりゃうの御紋をあむ、当家へゆるしきこえくだしたまはりぬ」がそれである。”

 

 つまり、朝廷から桐紋を賜り、将軍から両引紋を賜った、とされており、のちに巴紋も用いたというのである。

 

 余談ながら、丹波横尾氏と通婚があった多可郡野間の赤松氏は「三つ巴」紋を用いている。これは私から見ても叔父の家紋が三つ巴であり、墓所も確認しているので間違いない。

 

 こうした事情を総合して考えると、

 

 丹波横尾氏の桐紋は、赤松氏を示す

 

ということになる。 結果的には、まったくもって教科書通りのような、家紋の由来だったというわけだ。秀吉は関係なく、元から桐紋だったというのが真実だろう。



2022年2月25日金曜日

【23】 兵庫県の横尾氏の全貌が判明した! 〜横尾氏は、赤松一族有田(在田)氏か〜

 

 前回の記事からけっこう時間が経ってしまったが、今回、「これが丹波横尾氏の真実であろう」という全貌がようやく判明したので、その解明をお届けしたい。

 

 丹波横尾氏の祖は「横尾四郎大夫正政」と記録され、天正11年5月2日に死去したことがわかっている。

 

 今回はその続報である。

 

 まずは、氷上郡で、明治期からの「奇人」ともよばれた松井拳堂が書いた「増訂丹波史年表」から引用してみる。

 

 ○小新屋村横尾正政加西郡桑原村で死す

 

 たった一行であるが、氷上郡小新屋村の「横尾正政」は、なぜか加西郡桑原村で死去していることが書かれている。


 なぜ桑原村なのか?

 なぜ加西郡なのか?


 実は挙堂は、それ以上の詳細について何も書いていないのだが、何がしかの典拠に基づいてこれを書いたのだろうと思われる。

 

 ちなみに、挙堂については

 

  松井挙堂(丹波新聞)

 https://tanba.jp/2016/07/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%8B%B3%E5%A0%82/

 

を参照されたい。

 

 さて、横尾正政については、これ以上の記述はないのだが、実はおなじ松井挙堂が書いた「丹波人物志」に興味深いことが載っていたのである。


 それは、おなじく氷上郡小新屋村に生まれた「横尾孝之亮」氏についての記述であった。

 

 横尾孝之亮は、

https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12036998131.html

などにも説明があるが、明治以降に大阪の繊維業界で活躍した大物である。(正政の子孫である)

 

 さて、拳堂の記述だ。

 

”横尾孝之亮は石山と号し、明治元年氷上郡小新屋に生れた。父は有田氏、与三郎と称した。長兄敬蔵”

 

とある。 

 この記述は、他の孝之亮のプロフィールとほぼ変わらないが、一点だけ気になることがあるのだ。

 

「現代氷上郡人物史」には、こうある。

 

”氏は明治元年9月16日、氷上郡和田村の内、小新屋生る。祖先を横尾家政と称し、数十第に渡る舊家にて夙に里人の崇敬を受く。前代を與三郎と云ひ、氏は其の次男たり”

 

*注 「家政」は「正政」の誤記なのか、それとも正政の子に「家政」がいたのか、不明。

 

 

「大日本人物名鑑」も見てみよう。

 

”君は兵庫県人横尾與三郎氏の二男にして、明治元年9月16日を以って生まれ、同30年6月家督を相続す”

 

となっている。

 

 実はこれらの記述は、すべて初期から把握していたのだが、私は個人的に大きな見落としというか、大きな勘違いをしていたらしい。

 

 というのも、私の先祖である横尾家は、播磨・野間山城(多可郡八千代町)のふもとにある赤松氏とかなり濃密な通婚があり、たとえば私の曾祖母は赤松の人間であり、また叔母は赤松に養女に行き、また赤松の妻になっているので、「有田」と聞いても、野間山の有田氏(在田氏)としか、思わなかったのである!

 

 どういうことかというと、現在の多可郡八千代区下野間の「赤松氏」は、赤松氏の分かれである「在田氏」の居城である「野間山城」のふもとに住んでいて、普通に考えれば、同族であると推定されるので、孝之亮の父が「有田氏」だと聞いても、

 

 『ああ、野間あたりから来たんだな』

 

くらいにしか思わなかったということだ。

 

 つまり、「丹波人物志」の記述をぱっと読むと、孝之亮の父親が有田から来た養子か何かではないか?と思ってしまうのは、完全にこちらサイドの早とちりだったかもしれないのだ。

 

===========

 

 

 さて、ここで少し冷静になって、客観的に考えてみよう。挙堂の書き方も多少誤解を生みやすい表現ではあるのだが、「横尾家は有田氏である」ということを伝えたかったのだとすれば、実は

 

 バラバラだった点と線が、すっきりと一つに繋がる!

 

のである。散らばっていたすべてのピースが、ぴったりハマるのが、

 

「横尾=有田(在田)説」

 

なのだ。


 そもそも在田氏は、私はたまたま「野間山城」の在田・有田を思い浮かべてしまったが、それも間違いのもとだった。

 

「在田氏」(播磨屋さんのサイトから)

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ak_arita.html

 

 ↑は、私の心の師匠で、実は私の自宅から10mくらいのところに住んでおられる播磨屋さんの解説だが、在田氏は、バリバリの赤松氏であり、「播磨国加茂郡在田」が本拠地であった。

 

 そして、在田氏の城としては、まず第一に「河内城」が挙げられ、その次に「野間山城」が挙げられる、ということになる。

 

 ところが、私の場合は、ついつい在田=野間山のイメージが先に来てしまい、その源流をたどることをすっかり忘れていたわけである。これは完全なミスに違いない。

 

 

 さあ、では謎解きを完成させるために、地図を見てみよう。

 

「加西市”在田”(在田郵便局周辺)上野町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220008/

 

 行政上の町名としては「在田」は残っていないが、郵便局や学校などの名称としては多数残っている。

 

 ここが在田氏(有田氏)発祥の地である。

 

そして、そこから西南に移動すると

 

「加西市北条町横尾」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220092/ 


 に到達する。その距離わずか3キロである!

 

「加西市桑原田町」

https://map.goo.ne.jp/map/list/address/28220028/ 


は、横尾から東南に5キロである。

 

 なるほど、横尾正政がそこで亡くなったとしても、まったく不思議ではない。すべては加西市内で起きていて、横尾氏が在田氏であれば、むしろホームグラウンドである。

 

 逆に言えば、横尾正政は、「なんらかの事情」で、氷上郡小新屋に移動していたというわけだ。

 

 そして、付け加えるならば、丹波側から播磨側に入ったその境界地域が、野間城のエリア、ということにもなるだろう。

 

 横尾氏は加西・播磨から丹波へ行ったのだ!

 

 

==========

 

 

 最後に、電話番号ベースで見た「兵庫県における横尾姓の分布」を見てみよう。

 

 個人情報もあるのでざっくりで説明するが、

 

■ 氷上郡小新屋+和田 約10軒

■ 神戸市須磨区横尾 わずか

■ たつの市龍野町 約10軒

 

という3つの山が、県内の横尾姓分布の「まとまり」である。

 

 このうち、須磨区横尾はそのままズバリの地名なので、そこに横尾さんがいるのはわかる。

そして、たつの市のほうは、赤穂郡有年村横尾と関わると思われる。この地は相生にほど近く、龍野と赤穂の中間と言えばわかりやすいだろうか。

(ちなみに赤穂藩領ではなく、宍粟郡の安志藩領であった)

 

 とすると、残る氷上郡の横尾は、今回の点と線のリンクで


「加西の北条横尾」


であると推定するのが、あながち間違いではない、とわかるのではなかろうか。そして、ついでに言えば、その出自は加西一帯を領した「在田」氏であると!


(もっと言えば、だからこそ横尾氏は、野間・在田系赤松氏と通婚を繰り返しているのである。なぜなら、そもそも同族だからだ)

 

 加西が横尾の本拠であるとすれば、天正11年に横尾正政が加西桑原村に行っていた理由も理解できる。

 

 そして、もっとすごいことに、電話帳では、加西市桑原には、たしかに横尾姓がごくわずかに分布するのである!

 これは、天正時代に分かれた氷上郡横尾氏との同族ということもあるだろう!

 

 なんだかすごいロマンである!

 

 

<追記>


 休日を利用して、実際に氷上郡小新屋から北条横尾まで車で走ってみたところ、興味深い事実がわかった。

 

  地図上ではなかなかわかりにくいが、天正年間の「道、街道」をイメージすると、

 

◆ 和田村の岩尾城から県道86で南下(この道しか播磨に抜ける道はない)

◆  多可郡鍛冶屋へ入り、国道427に並走(実は86の小道のまま)

◆ 実はほとんど分岐せず、そのままの道だが、427から県道24へ入り中区へ

◆  そのまま八千代区野間城を横目に南下

◆ 県道24は、西脇妙楽寺を過ぎ、加西市別所へ(ここがほぼ在田に相当)

◆ 県道24にて越水町を過ぎればそのまま北条横尾の交差点

 

というルートになり、

 

「完全に一本道」

 

であることが判明したのである!

 

 つまり、「横尾」「在田」「野間」「小新屋」はまっすぐ一本道上に並んでおり、これは推測以上の「ほぼまちがいない仮説」だと言って過言ではないと思われる。

 

 

 在田一族の動きが、手に取るように実際に見える道筋であった!

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月10日月曜日

大河ドラマ「西郷どん」が凄かった3つの理由

 2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」、いよいよ次回が最終回となってしまいました。

 12月9日放送の「西南戦争」の回では、いよいよ西郷隆盛にも死亡フラグが立ち、事実を知っている私達からみても「ああ、覚悟の時が来たなあ」という感じがひしひしと伝わるわけですが、ふだんはいちおう「歴史的なものを調べている身」としてこの大河ドラマ「西郷どん」が素晴らしかった理由を3つほど挙げてみたいと思います。

 近年の大河ドラマは、特に戦国モノを中心にどれも出来がよく、「真田丸」「おんな城主 直虎」あたりは、特に歴史に詳しくない一般の方が視聴しても十二分に「面白い!」と言える出来だったように思います。

 今回の「西郷どん」も、基本的にはこの「わかりやすい」「一般向け」な演出が豊富に入っていて、個性的なキャラクターや、心が動かされる名場面もたくさん盛り込まれていました。
 しかし、それとは別に、「西郷どん」のここが良かった!という点は3つあります。




【西郷どんのスゴイ!ポイント その1】

 尊皇攘夷から、開国・維新へと至るプロセスの理由付けが明快だった点。

 実は「外国を打ち払え・日本を守るんだ!」という発想と、明治維新による「開国しよう・文明開化だ!」という発想は、単純に考えると真逆で、これがいつのまにか入れ替わってしまうのが明治維新のイデオロギーのわかりにくいところです。

 私も、実はこれまでここが一番わかりにくくて嫌いでした(笑)

 これも大河ドラマでありましたが、「新撰組」なんかを見ていると、「ところで、今誰が敵で誰が味方で、なんのために戦ってるんだっけ?」ということがわけわからなくなるんですが、今回の「西郷どん」では、とくに「ひー様(徳川慶喜)」という人物をうまく使うことで、「尊皇攘夷の理想は、諸外国との現実を前にしたときに、矛盾したり・そのままではうまくいかないだろう」ということが誰にでもよくわかる筋書きになっていました。

 このあたりは、すっごく良かった!幕末の混乱が一番「理解しやすい・わかりやすい」話になっていたと思います。(ただ、うまくやらないとフランスに日本の一部が取られちゃってたかも、という辺りは、盛りすぎだったかもしれませんが)




【西郷どんのスゴイ!ポイント その2】

 善悪二元論っぽく描きながら「物事には裏がある」ことをちゃんと示した点
 ひー様が、なぜ「先手を打って大政奉還したか」とか、そのあたりにも関わってくるのですが、ドラマの軸は「善の西郷VS悪の人物」という雰囲気で描かれています。

 たとえば、「西郷は善、島津久光は悪」 「西郷は善、徳川慶喜は悪」という風に、その折々のタイミングでは、善悪二元論でドラマが展開します。

 もっともクライマックスとなるのはやはり「西郷は善、大久保は悪」という維新後の世界観でした。

 視聴者からすれば、いわゆる勧善懲悪もの「水戸黄門」のように、めっちゃわかりやすいのですね。この構図が。

 ところが、ある程度、物理的にも心理的にもドンパチ争いがあって、話が終わりかけると「実はそれぞれ悪とされた人物にも、彼らなりに信念をもって考えていた善があって、それは西郷と視点が違っていただけなんだ」ということが挿入されるのです。

 慶喜なりに考えた作戦はこうだった。久光なりにこう考えていた。そして「一蔵どんが、天下国家の目線で考えた善はこうだった」ということがちゃんと示されるのです。

 だから、混乱しがちな幕末維新時期の「イデオロギーの変容」もわかりやすくなるし、何より「男たちは、それぞれ全身全霊をかけて本気だったんだ」ということが伝わるから、どちらの立場も「カッコいい!」となるのです。

 このカッコよさは、名作映画「眼下の敵」さながらです。「眼下の敵」はアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦の死闘を描いたものですが、一般的には「アメリカが善で、ナチスドイツは悪なんだけれども、実は水面下ではまさにこうだったんだ!」という点が公平に見て面白いし、そしてどちらの立場であっても「カッコいい!」というものでした。

 近年では「紅の豚」なんかも、こうしたかっこよさを描いていました。




【西郷どんのスゴイ!ポイント その3】

 家族兄弟・女性たち・子供たち・友たちを略さず丹念に描いた点

  歴史上の偉人というのは、庶民から見れば雲の上の人であり、彼らは天下国家のためにいろいろ活動するので、いわゆる「公の仕事」での成果がメインとなって歴史に刻まれます。

 しかし、「西郷どん」では、吉之助の「家族・きょうだい」のその時々の動きや、最期、その後が丹念に描かれます。

 いわば「私(わたくし)の暮らし」が略されなかったのです。
 象徴的なシーン、「川口雪篷がなんでまで西郷家にいるんだ?」とか「東京でも熊吉がいっしょ?」とか、そういう歴史本編からはどーでもいいと思えるような小さい部分をちゃんと描ききったところがすごい。

 だって、本当に史実として川口雪篷は、最後まで西郷家の執事のように男手として家を守るし。熊吉もちゃんとずっと従っているのです。

 あるいは、竹馬の友だったメンバーが、どのように死んでいったり、その後の立場になるのかも、ちゃんと描かれていました。むしろ、公人西郷の姿ではなく、私人西郷を積み重ねることで、歴史本編を描いている感じのほうが強い印象を受けました。

主演の鈴木亮平さんが、変態仮面からいかに西郷隆盛になるのか、いろんな意味でドキドキしていましたが、いよいよ最終回!素晴らしい作品だったと思います。

2018年3月4日日曜日

やりすぎ大河ドラマ「西郷どん」は「暴れん坊将軍」なのか?(笑)



前回も似たようなことを書きましたが、2018年大河ドラマ、「西郷どん」が、あまりに凄すぎて失禁しそうです(爆)


 前回の記事↓

大河ドラマはどこへ行く? 圧倒的好き放題の「西郷どん」が面白すぎる!

https://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2018/02/blog-post.html



 ここ数年の大河ドラマは「史実ではわからないパートは自由に描く」というスタンスが定着しつつありますが、もはや西郷どんは


「史実を踏み台にして、創作する」


ところまできちゃいました。



 別に私は、大河ドラマは何がなんでも史実を描くべきとは思っていない派なのですが、本日の展開


 ヒーさま!


にはビックリでございます。


 女たらしの町人、ヒー様(松田翔太)が、実は世を忍ぶ仮の姿で、その正体は


 徳川慶喜(一橋慶喜)


だというのですから、思わず



桃太郎侍かーい!


松平長七郎江戸日記かーい!



と叫んでしまいました。 いやもう、この際、火消しの「め組」と行動を共にしている新さま(徳田新之助)こと



暴れん坊将軍かーい!


でもいいです。


 ご成敗にもほどがある!!!(笑)



 いやもう、時代劇ファンには、こういうのは嫌いじゃないのですが、さすがに大河ドラマでやってしまうと、民放の連続時代ドラマと何が違うねん!と格が下がってしまいますので、あまりに無茶はやらないほうがいいのではないかと老婆心ながら思います。


 歴史をまじめに研究するものの立場から言えば、こういう「空想時代小説」が幕末とか明治に跋扈した結果、一般に知られる本物の歴史の伝承がゆがんでしまった問題点もあるので、ある程度の線引きは必要なのではないかなーっと。




2018年2月11日日曜日

大河ドラマはどこへ行く? 圧倒的好き放題の「西郷どん」が面白すぎる!



 いちおう、歴史好きということもあって、ここ数年はこのブログでも「NHK大河ドラマウォッチ」をしてきたわけですが、今年の「西郷どん」は


 個人的にはとても面白いけれど、ブログに書くことがない


という状況が続いています(苦笑)


 もうすでに皆さんお気づきの通り、ここ近年の大河ドラマは「戦国ホームドラマ」とか「歴史もしもifドラマ」と化しておりまして、歴史に関係ない部分や、ぶっちゃけその時歴史がどうなっていたかわからない部分に関しては、



「好き放題してよい」



という不文律がまかり通るようになってしまいました(笑)



 たしか、「軍師官兵衛」までは、ある意味面白くないけれど、

「基本は歴史に忠実になぞってゆく」

という手法で描かれていましたね。

 この方法は、これまでも大河ドラマの王道で、もし物語に個性を出そうとすれば、そこは出演者の俳優さんの魅せ方やそのキャラクター付けで持っていくような感じだったように思います。



 それが「真田丸」では、もちろん三谷脚本ですからキャラクターが面白すぎるのは当然として、それに追加して

「歴史の表に上がってこないところは、伏線を張りまくる」

という書き方が生まれました。これは大いに当たったし、面白かった!


 さて、「おんな城主直虎」になると、そもそも歴史の表に上がってきている部分がごく少ないということもあって、


「もはや、過半数が創作」


という良くも悪くも好き放題な脚本だったわけですが、これはこれで高橋一生くんが格好良かったり、「渡る世間は井伊ばかり」な感じもウケたように感じます。



 さて、そこへ来ての今回の「西郷どん」ですが、史実としての西郷の行動や、その周辺の人々の動きなどは、戦国時代よりはるかに記録や逸話が残っているわけで、本来ならば制約だらけのはずなのです。


 しかし、そこをあえての「好き放題」な描き方をすることで、歴史学的にはむちゃくちゃなんだけれど、そこそこ楽しめてしまう、という面白いドラマが出来上がっております(笑)


 数えあげればきりがありませんが、特に初回から数回は、


「主人公はむしろ斉彬」


とでも言うべき渡辺謙さまのカッコよさで、なんでもかんでも吉之助と斉彬をくっつけてしまうという暴挙に出ているのですが、それなりに見れてしまうという面白さ。

 ロシアンルーレットする渡辺謙とかあかんやろ(><;;


 今日の第6回では、ジョン万次郎ですら西郷との絡みが生まれてしまうという、もはや


 事件の現場には常にいる名探偵コナン君


ぶりを呈している吉之助なのでありました(爆)


 あの、さっきからすき放題やりすぎの件について語ってますが、けしてディスってるわけではないのでそこはよろしく!

 21世紀になって、大河ドラマのあり方も変わってきたなあ!という意味をこめて、事実を語っているだけです。そして意外に、そういうのは嫌いじゃない。


 なんで嫌いじゃないかと言うと、つい昨日やっていた


 本能寺ホテル



を見て思ったんですね。ああ、なんだ近年の大河ドラマはこれなのか!と。


 そう、もはやここまで来ると、いわゆる史実を曲げない限り


 裏では何をやってもいいという信長協奏曲的演出



がなされているわけでwww。


 今後、どんどん西郷の周辺では「ややこしい幕末のお話」が進んでゆくのですが、個人的には今の路線で進んでほしいなあ!と思っています。


 チェスト!!!



2017年12月17日日曜日

【NHK大河連動 ”今日の『おんな城主直虎』”50】 大最終回レビューの巻】



 いや~、終わってしまいましたね!

 まいどおなじみ早虎のレビューですが、2017年を盛り上げてくれた直虎も最終回を迎えてしまいました。


 このブログでも前半はけっこう、その日の放送の振り返りをやってたのですが、ご存知の通り、後半は史実としての直虎像がほとんどなく



 ほぼ、創作。好き勝手、やりたい放題(笑)



のドラマだったので、レビューは控えるように。


 別名、「戦国ホームドラマ、渡る世間は武家ばかり」みたいになっていたので、純粋にお話として楽しんでいた次第。


 今日の最終回も、詳しくは8時からの本編のお楽しみですが、反則ワザのオンパレードみたいなストーリーだったので、面白かったです。




 まず、第一の感想は、



「え?あの子たち、クランクアップはいつだったの?!」



ということ。もしかして再結集?それとも事前に撮影済み?と思わず驚く演出でした(^^



 とまあ、直虎が死ぬ中盤あたりで一回泣くわけですが、物語の序盤を思わず思い出す構成で、素直に


「やられた!」


って感じ。



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 その後は、菅田くんが直政になっていくくだりへと後半戦が続きます。最終回なのに、小ネタをたくさんぶちこんで来ているので、かなり笑えます。



 というわけで、懐かしいテンションで今日のみどころを。





<見所その1>


 最後の最後に持っていった人は、意外な・・・・ま、松也?!



 初期から意外にずぶとく生き残っていた今川松也。六角さんといいところ持って行きます。


 なんだか戦国の世の最終勝利者は、松也のような気がしてきた(笑)






<見所その2>

  
  歴代大河ドラマで一番ひどい(笑)終わり方!!!


 おもわず柴咲コウちゃんも「え?まじ?これで終わり?」という顔をしてのラストです。


 あかん!これはあっかーん!


 最後まで好き勝手し放題な大河だったなあ!と思わず苦笑です。ラストの一瞬まで見逃すな!





<見所その3>


 昊天さん、最後までいい仕事してますね。

 物語本編が終わっても、最後まで見逃すわけにはいきません。なんと最後の最後に、昊天さんが大事な役目で登場です。


 井伊谷の龍潭寺は南渓和尚に任せられているわけですが、彦根の龍潭寺は直弟子の昊天さんが任されることに!

 本編が終わっても、紀行まで見逃せませんよ~。



  その他、ちょびっとですが「真田ネタ」や、真田丸へのアンサーシーンとなっている「赤備え武者」の成立なども言及がありますので、しっかり伏線は回収してあります。

 


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 そんなこんなで終わってしまった直虎ですが、全体を通して楽しめたことには変わりません。歴史マニア、史実マニアには立腹ポイントもたくさんあったわけですが、まあいいじゃないですか。


 高橋くんもカッコよかったのだし(笑)


 来年は戦国モノではないですが。


2017年10月25日水曜日

【22】 丹波横尾氏の家祖、判明!~天正期の戦国武将~



 兵庫県丹波市に一定の分布がある丹波横尾氏は「丹波志」にも記載がある古家である。


 前回、その氏族についてのリサーチで中断していたが、


新仮説?丹波横尾氏のルーツは「山名氏」にあった?”!
https://53kiri-yokoo.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html



を参照されたい。




 ところが、仮説を挙げたばっかりで申し訳ないのだが、本当に山名系かどうかは怪しくなってきた。


 というのも、今回、調査によってこの丹波横尾氏のその地における家祖が判明したからである。



 結論から言えば、その人物は、



「横尾四郎大夫正政」


という、おそらくなんらかの事情で該当エリアを領地とした戦国武将で、亡くなった日付が


「天正11年5月2日」


であることも明記されている。


 この地の横尾氏は、彼より先の記録がなく、逆にいくつかの分家が、この人物を家祖として記載していることから



「横尾四郎大夫は、天正頃なんらかの事情で丹波にやってきて、そして亡くなった」


と言えるだろう。





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 さて、天正時代・丹波と聞けばマニアはすぐ思い出すのだが、この時実は明智光秀によって「丹波攻め」がなされている時期と符合する。


 丹波攻めのクライマックスは、天正7年の八上城陥落であり、その直後丹後も攻め落として平定、天正8年には光秀は丹波一国の主となり、亀岡と福知山に入ることはご存知の通り。


 ところが、天正10年5月には、本能寺の変が起きてしまい、信長も光秀も死んでしまう。


 丹波地域は、いわばすっぽりと空白地帯になっている期間に、横尾四郎大夫はなくなったというのだ。



 とすればこれは戦死ではない。


 むしろ、不安定ながらに一時の安定を得た時期に、彼は亡くなっている。



 しかし、そうなると不可思議である。天正期を迎える前に、彼はどこかからかやってきた。そして、丹波の地に、なぜか小さな領地を得た。

 はてさて、どこから来たというのだろうか。謎は深まる一方である。








2017年8月20日日曜日

【NHK大河連動 ”今日の『おんな城主直虎』”33】さあ!政次ロスのはじまりだ!嫌われ政次は、キリストかそれとも「コードギアス」だったのか?!の巻



 しばらくブログでは取り上げていませんでしたが、早虎レビューのおじかんです。


 いやあ、今回のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」って、実は記事を書きにくいんですよねえ。


 というのも、真田丸とか官兵衛ちゃんとかは、「史実があって、それをまとめた軍記物などがあって、その上に脚本化のアドリブが乗っかってる」スタイルなので、歴史的な事件に対しての記述を比較しながら取り上げることが可能なのですが、直虎の場合は、



「ほぼ99%、大河ドラマ用に”お話”として創作されている」


構造なので、ツッコミにくいんです(苦笑)



 でもまあ、「戦国歴史モノ」としては見ちゃいられないけれど、「戦国ホームドラマ」としては、かなりおもしろいので、いいんだけどね!





 さて、肝心の歴史でいえば、井伊家の家老でありながら、敵役だった「小野但馬守」が成敗された、というただ一点をもって、今日の日を迎えた直虎ちゃんでしたが、



・・・良かった!!


・・・最後まで、高橋政次を悪者にせず、かつ歴史と合致させた書き方は良かった!!!

 
・・・泣けた!!!!



と拍手喝采です!






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 本当は、直虎と示し合わせて「悪役」を演じていたのに、逆にそれをもって「自分の命をもって井伊を救おうとする」小野政次高橋一生は、



 本当にすばらしい名演技



でした! いやあ〜、これはもう政次ロス間違いなしです。




☆予告ポイント☆

 我々だけじゃなく、直虎本人が「政次ロス」になってく展開が次週予告にちょこっと映ります。来週も楽しみですね!






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 さて、井伊のために「1人悪者になって死ぬ政次」ですが、罪人扱いなので



 切腹ではなく 磔(はりつけ)



で処刑されます。



 この時点で



 罪を背負って死ぬイエスキリストみたいだな〜



と思っていたのですが、 いえいえ!さらにもっとすごいことが。



 詳しくは8時からの本編のお楽しみですが、まるで直虎と政次が



「コードギアスの スザクとルルーシュ(ゼロ)」



みたいになってるので、ファンは大盛り上がり!!!



 コードギアスファンは、必見ですよ〜。知らない人は、アニメのコードギアスをみてね!





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 というわけで、本日の見どころ3つ。いってみよ!



■ もはや人間とは思えない家康の後ずさり。戦国エクソシストシーンは、サダヲならではの苦笑連続。


■ ラブラブ政次の一時。泣けます。



■ 何といってもラストシーン。直虎ロンギヌヌスは、泣ける!!!



2017年7月3日月曜日

【氏族】 横田姓・横田氏・横田さんのルーツ 苗字「横田」 よこた


 横尾氏について調べるあまり、


「っていうか、そもそも”横尾の横”って何なの?」


ということで、同じ『横○』さんの苗字の成り立ちについて調べることにした。


 いくつか代表的苗字を調べてみないとわからないので、しばらくこのシリーズが続くと予想されるが、本来の横尾さん、横尾氏についてはあんまり関係ないと思われるのでスルーしていただいてかまわない。


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■ 【横田氏】  近江佐々木氏より、甲賀郡横田を本拠とした横田氏 【釘抜】

■ 【横田氏】  藤原氏宇都宮氏族より、下野国河内郡横田を拠点としたもの。 【巴・桜】

■ 【横田氏】  藤原氏より、陸奥国横田に住む横田氏。【枇杷】

■ 【横田氏】  藤原長家流首藤氏より、山内氏流横田氏。

■ 【横田氏】  源氏下松浦党、山代氏末裔横田氏。

■ 【横田氏】  春日氏族小野氏より道風末裔横田氏。

■ 【横田氏】  甲斐源氏武田氏より、一条氏流。

■ 【横田氏】  清和源氏為義流より、吉見氏を経て横田。

■ 【横田氏】  諏訪氏族為仲流、横田氏。

■ 【横田氏】  甲斐源氏南部氏より、横田氏。

■ 【横田氏】  六角氏より宇多源姓山内氏から、横田氏。



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 文字通り横の田んぼという意味もあるが、人間が住んでいる地域や、ムラの中心からみて「横」に当たる場合や、横方向に伸びたり張り出している意味もあろう。




【氏族】 横山姓・横山氏・横山さんのルーツ 苗字「横山」 よこやま


 横尾氏について調べるあまり、


「っていうか、そもそも”横尾の横”って何なの?」


ということで、同じ『横○』さんの苗字の成り立ちについて調べることにした。


 いくつか代表的苗字を調べてみないとわからないので、しばらくこのシリーズが続くと予想されるが、本来の横尾さん、横尾氏についてはあんまり関係ないと思われるのでスルーしていただいてかまわない。


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■ 【横山氏】   武蔵国多摩郡横山 春日氏族小野氏より 横山党を形成

■ 【横山氏】   武蔵国横山党のうち丹治比氏流。

■ 【横山氏】   相模国小野姓。

■ 【横山氏】   桓武平氏千葉一族村山党より横山氏

■ 【横山氏】   菅原氏より美作菅家党に属した横山氏。

■ 【横山氏】   村上源氏赤松氏より赤松則祐流に横山氏あり。

■ 【横山氏】   清和源氏村上氏より、信濃村上氏の一派。


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 武蔵七党のひとつ、横山党を形成していたのはひとつの氏族だけではないとのこと。